戦国時代
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)と織田・豊臣時代(安土桃山時代)との間に入る。この時代は、(一)中央国家権力の衰退、群雄の地方割拠(地方権力の樹立)による戦国争覇、(二)絶え間ない下位者による上位権力の打倒、一揆など民衆の実力の伸長を内容とする下剋上の社会状況、(三)荘園体制社会が克服され、在地領主制の展開と下人の存在で特徴づけられた中世社会が止揚されるなどを特徴としている。その点からいうと、信長の入京、あるいは、将軍義昭の追放は政治史上の一画期にすぎず、実はそれ以後、中央地域における元亀・天正の争乱という織田信長対反織田勢力の死闘が各地に展開され、その他地方での争乱状態はむしろ激化していく。それ故、天正十八年の豊臣秀吉の全国統一までを、戦国時代とする方が、全国的見地から見た場合、妥当性がある。また始期についても、応仁の乱に先立って、東国では享徳三年(一四五四)に享徳の乱が起り、上部権力の分裂による争乱が開始されるので、これまでさかのぼらせてもよいと思う。したがって、享徳三年から天正十八年までの百三十六年間をひとまず戦国時代と捉えておく。
〔時期区分〕
室町幕府(畿内・近国および西国)・鎌倉府(東国)のそれぞれの支配権力とその支配領域を考慮し、かつ画期に若干の幅を考えて、およそ次のようにほぼ半世紀ごとに時期区分する。
(一)第一期
十五世紀中葉―十五世紀末葉。享徳三年の享徳の乱、応仁元年の応仁の乱、という両乱の開始から約半世紀。前者は鎌倉府において、鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を誅殺したことに端を発し、東国の諸勢力が公方方・管領方に分裂して相争い、室町幕府は管領方を支援する。この内乱によって、鎌倉府体制は崩壊に向かう。後者は、将軍家・有力守護家ともに分裂し、細川勝元(東軍)・山名持豊(宗全、西軍)を将帥として、京都を中心に市街戦を展開し、この内乱は地方に波及していく。この時期は、室町幕府・鎌倉府体制の崩壊過程というべきもので、この時期を戦国時代からはずす見解もある。
(二)第二期
十五世紀末葉―十六世紀中葉。長享二年(一四八八)長享の一揆(加賀一向一揆)の蜂起、延徳三年(一四九一、明応二年(一四九三)説もある)北条早雲の伊豆制圧、明応二年細川政元のクーデターなどの一連の重要事件を諸画期とし、本格的な戦国段階に入っていく。この時期各地で守護・守護代・国人などの新旧諸勢力が抗争し合い、下剋上による奪権、あるいはその逆に下剋上を抑圧するなどして地域権力を確立し、大名領国を形成していく。畿内・近国の個々に自立し得ない中小国人・土豪は、地域によって惣国一揆を形成し、集団として地域権力を構築する。また、これらの武家勢力に混じって、本願寺・延暦寺・高野山・粉河寺などの寺社勢力も武装兵力を貯えて、一つの宗教的地域権力を構築する。
(三)第三期
十六世紀中葉―十六世紀末葉。天文十五年(一五四六)の後北条氏の河越合戦勝利、永禄二年の織田信長の入京、同三年越後長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻などの十六世紀中葉の画期をなす諸事件から天正十三年・同十五年の豊臣秀吉の惣無事令の発布、同十五年の九州制圧、同十八年の関東・奥羽の制圧に至る期間。この時期は明確な領国を形成した戦国大名間の国分け(領土確定)にもとづく同盟と抗争の時期で、関東では武田・上杉・後北条氏が周辺勢力を巻き込んで三つ巴の争覇を行い、次第に後北条氏が覇権を確立していく。畿内・近国では織田信長が徳川家康と同盟して、浅井・朝倉・三好・松永氏や本願寺などと激烈な抗争(元亀・天正の争乱)をして勝ち抜き、畿内政権を確立する。中国地方では大内氏を克服した毛利氏、九州では島津・大友氏などが大きな勢力となっていく。このように地域ごとの統一が促進されていく。最終的には、織田氏の遺産を継承した豊臣秀吉が、天正十三年・同十五年に関白の地位によって、各地の私戦を停止させるという惣無事令を発し、その違犯を理由に九州・関東・奥州の遠征を行い、天下統一を実現し、中央の軍事的制圧によって、各地の争乱に終止符を打った。
〔研究史〕
『日葡辞書』にXencocu(戦国)、Tatacai no cuni(戦いの国)とあり、戦国とは戦争をしている国、戦争の起っている国の意に用いられている。また、『甲州法度』に「天下戦国之上者、抛
諸事
、武具用意可
為
肝要
」(二十六ヵ条本第十五条)とある。これら同時代の用法は必ずしも時代概念を意味するものではなかった。戦国時代の用法は、田口卯吉『日本開化小史』第六章が「南北朝の戦乱以後戦国に至るまで」とし、「諸国十分に分裂して全く戦国となり」とあり、時代概念として用いている。やがて、田中義成『足利時代史』は「かの応仁の大乱起こり、延いて海内に及んで、群雄割拠の勢いをなし、所謂戦国時代を現出せり」とし、応仁の乱以後を戦国時代と位置付けている。この用法は、文部省著作『小学日本歴史』に受け継がれ、戦国時代の章を設けて、応仁の乱後の百余年を幕府の命令が行われない天下騒乱の時代として国民に普及した。戦後の研究史は、この戦国時代を日本封建制史の重要な段階、ないしは過渡期と位置づけた。すなわち、中世前期封建社会として捉え、後期封建社会(江戸時代)への再編成期として、戦国時代を位置づけた(封建制再編成説、中村吉治)。また、中世を絶えざる封建制進化過程と捉え、近世幕藩制を純粋封建制と見る立場(純粋封建制成立論、藤田五郎・鈴木良一)からは、戦国時代を、純粋封建制成立の最後の過渡期として把握した。さらに、基本的には家父長制的奴隷制に基づく封建制以前の社会として把握し、近世幕藩制の成立をもって、封建制の成立とする論者(中世家父長的奴隷制論、安良城盛昭・佐々木潤之介)からは、戦国時代・戦国の争乱の基礎過程を、下人(奴隷)や小作農の封建小農民(農奴)への自立過程と把握した。また、必ずしも、封建制論争とは直接かかわりなく、近世大名の成立過程の過渡期として戦国大名を位置づける藩制史研究からの見解(伊東多三郎)などがあった。さらに、荘園制をどう見るかという観点から、中世を荘園制社会と大名領国制社会に二分割し、戦国時代は、領主制(在地領主制)の最高の発展段階として、大名領国制を位置づける見解(永原慶二)、あるいは、戦国時代を土地制度の面から解体期荘園制社会として位置づける見解などがある。近年、藤木久志によって、中世を自立救済にもとづく、私戦が承認された社会と見て、その激発である戦国争乱を経て、豊臣秀吉の天正十三年・同十五年に発する惣無事令(私戦停止令)によって、紛争の解決が国家に掌握されたとする見解が出され、戦国時代を自立救済社会の最後の段階に位置づける見解が出されている。
〔時代の特徴〕
以上のように、戦国時代の評価は日本封建制論争と分かち難く展開された。そして、さまざまな学説が並立するように、戦国時代は中世社会の諸矛盾が総括されるとともに、近世幕藩制社会が準備されるという二側面が複雑に絡み合い、一筋縄では捉え切れない社会である。以下、いくつかの特徴について列記しておこうと思う。
(一)権力の分散と統一
幕府・守護体制、東国では鎌倉府・守護体制といわれる権力構造が享徳の乱・応仁の乱を画期として崩壊していく。各地域権力の自立化が進み、一国単位の支配者としての守護権力の継承をめぐって、守護・守護代・国人の激烈な権力闘争が行われ、勝利した者が戦国大名として勢力を得て、各地の自立した領主たちを系列化し、家臣団・旗下あるいは目下の同盟者に組み込んでいく。これらの戦国大名が、それぞれの領国を支配し、同盟と対立関係によって戦国の争覇が行われる。将軍や鎌倉公方の権力は衰え、戦国大名争覇の権威づけの「玉」の役割として争奪される。やがて、畿内・近国は織田氏、東国は後北条氏、中国地方は毛利氏にと、大きな統一の拡がりができ、やがて、豊臣秀吉によって全国統一がなし遂げられる。
(二)戦国大名と惣国一揆
各地に成立した戦国大名は強力な直臣団を形成し、また服属した各地域の武士を与力(同心)衆として組織し、所領充行の権限を一元的に掌握して、所領を恩給するとともに、知行高に応じた軍役勤仕の体制を作りあげた。この知行高・軍役高の基準として後北条氏・武田氏・毛利氏などは貫高制を採用している。軍役を提供する階層は、常に臨戦体制にあるという状況下で、百姓上層にも拡大され、名主層は一部所持地の年貢免除と引き替えに「地衆」などという集団として軍事力の末端に組織された。また戦国大名は、領国内の裁判権を掌握し、家臣団や領国内各階層の紛争処理のための戦国家法を制定した。細川(細川政元)・今川・武田・伊達・相良・六角・結城などの各氏は成文法を持った。また、大内氏のように発布した個別法令を集成したもの、あるいは後北条氏・毛利氏のように成文法ないし集成法を持たない大名もあった。典型的な戦国大名の成立を見ない地域、とりわけ畿内・近国では国人・土豪などがほぼ郡規模の範囲で結集をとげ、自検断という形で地域の支配を集団的に合議制によって行う場合があった。これらは、国一揆・惣国・郡中惣などと呼ばれ、早くは文明十七年(一四八五)に成立した南山城三郡(久世・相楽・綴喜)の山城国一揆、乙訓郡中惣、伊賀惣国、紀ノ川下流域の紀州惣国、伊勢の小倭郷同名中、大和の宇陀郡中惣などがある。これらは、それぞれ管轄領域を「国」として認識して、領域の政治・経済・軍事の権限を集団的に掌握した。そして、守護や戦国大名の支配・侵攻に抵抗する場合が多かった。
(三)荘園制の解体
各地の公家・寺社・武家の遠隔地荘園は在地の武士・高利貸などによる代官請負制によって辛うじて収取を維持していたが、農民闘争の激化、代官の年貢滞納などによって有名無実化して、事実上は、各地の戦国大名や家臣の所領と化してゆく。しかし、収取の仕組みが名(みょう)体制を継承し、職(しき)の体系によって行われる点で、荘園制の枠組みで捉える根拠を提供している。また、広汎に借耕関係が成立し、加地子・作徳分(小作料)が成立してくる。
(四)産業・技術・都市の発展
乱世にもかかわらず、中世における生産力発展は農業・商工業・鉱業などにおいて著しいものがあり、これらは大名の富国強兵などによって促進された。とりわけ治水技術や築城に伴う土木技術、鉱山開発による鉱業技術などの発展をみた。また、天文十二年の種子島への鉄砲伝来以来、鉄砲は次第に、戦国大名によって軍事利用され、天下統一の動きを促進した。また、木綿栽培技術の流入・普及は日本人の衣服を一変させた。生産力の発展は既存の都市の発展、新たな都市の成立をもたらした。大名城下町や港湾、さらに門前都市などが発展をとげ、分業・流通の上で重要な役割を果たすとともに、地域の経済発展をふまえて、畿内・近国には真宗・法華宗などの寺院を中心に市街地を環壕で囲った寺内町が各地でできた。また、三斎市・六斎市、宿・新宿などの市・宿が各地に生まれ、各地の交易をになった。
(五)宗教・文化
天台宗・真言宗などの旧仏教は修験と結びついて信者を獲得し、曹洞宗・真宗などは、葬祭と結びついて庶民の中に教線を飛躍的に拡大した。また、日蓮宗も富裕都市民の中に浸透していった。宗教勢力の武装も顕著に見られ、本願寺・根来寺・延暦寺などは、戦国争覇の一角として活動した。とりわけ本願寺は門徒に指令して足利義昭を結節点とした反信長戦線の重要な部分をにない、本願寺顕如は法敵信長の打倒を指令し、北陸、畿内・近国で激烈な抗争を演じた(元亀・天正の乱)。天正八年の顕如の屈服(石山本願寺退去)によって、信長の畿内統一政権は確立した。中央から送進される荘園年貢の絶えた公家などは、守護などを頼って地方へ下り、大名も公家・僧侶・学者・芸能者・技能者などを積極的に招いたので、彼らは地方に根づき、地方の文化の興隆に寄与した。大内氏の山口、今川氏の駿府、朝倉氏の一乗谷、後北条氏の小田原など、都市文化が発展を遂げた。天文十八年イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル(シャビエル)の鹿児島来訪をきっかけとして、日本にキリスト教というヨーロッパの宗教が入ってきた。キリシタン宣教師の熱烈な布教とその平等思想は当時の人々に感銘を与え、西日本を中心に多くの信者が生まれ、戦国時代の文化の上に大きな刻印を残した。以上の点で戦国時代は争乱の時代と経済・文化の発展の時代の両面を持ち、荘園制、在地領主と下人の制、自力救済の社会などに見られる中世社会の特質を止揚して、近世幕藩制社会に架橋する時代であった。
[参考文献]
永原慶二『戦国の動乱』(小学館『日本の歴史』一四)、同編『戦国大名の研究』(『戦国大名論集』一)、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』


