知識の泉へ

日本には約5600の博物館(相当施設・類似施設を含む)がある。この中には、いわゆる博物館のほか、美術館、動・植物園、各種資料館なども含まれる。 ここでの活動を一身に引き受けるのが<学芸員>と呼ばれる人たちだ。 彼らは日々、資料の<収集>に奔走し、<保管・整理>に苦慮し、より良い<展示>方法に悩みつつ、そのかたわらで自らの<調査研究>を深化させ、蓄積された情報を人々に発信する<教育活動>を実践している。そんな彼らの八面六臂の働きぶりを紹介しよう。

学芸員のウォーキングガイド

学芸員のウォーキングガイドは、「博物館に連れてって!」の番外編。地域の魅力がいっぱいのスポットを、学芸員の方々に案内してもらいました。
皆さんも、このコーナーを読み終わったら、さっそく出掛けましょう。
そうそう、お弁当の用意と、それから博物館に立ち寄ることを忘れないでネ!
2010年4月23日

五感で味わう《葛飾》の魅力

葛飾ウォーキング《入門編》

学芸員のウォーキングガイドの第1回目は、葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員、谷口榮さんに案内してもらいます。景観ばかりではなく、音、匂い、味など、五感を駆使して「葛飾の魅力」を満喫しましょう。初回は葛飾が初めての人にお薦めのコースです。

 

まだ葛飾を訪れたことがない! という皆さんにお薦めは、柴又しばまた界隈を中心としたコース。映画『男はつらいよ』シリーズで全国的に名を馳せた葛飾柴又。車寅次郎役の渥美清さんが没して10年以上の歳月が流れましたが、今も寅さんを慕う多くの人々が柴又を訪れています。観光バスで柴又まで来て、お決まりのコースを回るのもよいのですが、せっかくだから、のんびりと、そして意外な「柴又の歴史」に触れてみるのもおつなもの。江戸の昔から江戸近郊の行楽地として知られた葛飾柴又。人々に愛され続けた江戸川べりの景観と、帝釈天たいしゃくてん門前の賑わいが織りなす風情をご堪能下さい。

 

 

出発する前に《葛飾の景観》の特徴と魅力について基礎的なことを学んでおこう、と思ったら、谷口さんが語る「葛飾の魅力的な3つの景観」を是非お読みください。

 

 


コースガイド (歩行時間合計60分)

 

スタート 金町駅(JR線・京成線)
(徒歩 12分)
見どころ1 金町浄水場
(徒歩 9分)
見どころ2 柴又八幡神社
(徒歩 6分)
見どころ3 帝釈天参道
(徒歩 5分)
見どころ4 柴又帝釈天(題経寺)
(徒歩 10分)
見どころ5 江戸川と矢切の渡し
(徒歩 5分)
見どころ6 葛飾柴又寅さん記念館
(徒歩 3分)
見どころ7 山本亭
(徒歩 10分)
ゴール 再び帝釈天参道

 

※歩行時間はあくまでも目安です。
※見学・休憩などの時間は含まれていません。
※帝釈天参道から柴又駅までは、5、6分かかります。

 

 

 

 


より大きな地図で 葛飾ウォーキング 入門編 を表示

 

 


見どころガイド
(写真をクリックすると、拡大表示されます)

 

スタート  金町駅(JR線・京成線)

スタートは金町駅。JR常磐線の金町駅と京成金町線の京成金町駅が隣合わせにあるが、どちらでもOK。金町駅を出発したら、江戸川区篠崎しのざき方面に連絡する柴又街道を南に行く。柴又街道に並行して走る京成金町線の京成金町駅‐京成高砂駅間は単線。京成金町駅から柴又駅の手前までの直線的な軌道は、明治32年(1899)に運行された帝釈人車鉄道の跡。人車鉄道とは、軌道上の6人乗りの客車を人が押すもので、柴又観光や帝釈天に詣でる人々に利用された。大正2年(1913)からは京成電気軌道(現在の京成電鉄)による電車の運行が始まった。

京成金町駅夕景色
京成金町駅周辺の夕景色

 

見どころ1  金町浄水場

金町駅を出て水戸街道(国道6号)を渡り、しばらく行くと、左手に見えてくる大きな施設は、金町浄水場。隅田川以東を中心として東京都の東部に水を供給する東京都水道局の施設で、江戸川から取水している。大正15年(1926)に竣工したが、蛇口をひねると水が出るという、極めて日常的なあり様は、この金町浄水場が機能しているからこそ。まさに東京都東部の生活を支える生命線である。

 

 

見どころ2  柴又八幡神社

金町浄水場を過ぎると、右手に木々が茂る柴又八幡神社の社叢が見えてくる。社叢を目当てに二股道を右手にとって柴又街道から別れ、金町線の線路沿いを行き、広い道に出たところで右手に折れ、踏切を渡ると神社の境内。柴又八幡神社の創建された詳細な年代は不明だが、少なくとも近世以前にはさかのぼる柴又村の鎮守。三匹の獅子による神獅子が伝えられ、区の無形民俗文化財に指定されている。社殿は、昭和40年代に改築されたが、工事の際、埴輪などが出土して、境内が古墳であることがわかった。その後、葛飾区郷土と天文の博物館と考古学ボランティアによる学術調査が行われている。フーテンの寅さん似の帽子を被った人物埴輪(連載第1回に写真掲載)や馬型埴輪、朝鮮半島の影響がうかがえる土器などが出土し、この地域への渡来文化の影響を物語る資料として注目を集めた。古墳は全長20メートルを超え、東京下町では唯一の前方後円墳である(前方部が道路で削平されていて、詳細な規模は不明)。東京下町が江戸以前から開発され、歴史を刻んでいることを雄弁に物語る遺跡だ。社殿はこの古墳の上に建っており、境内の周りから社殿の基盤の高さを注意して見ると、その様子が観察できる。出土した埴輪などの資料は葛飾区郷土と天文の博物館で展示している。

柴又八幡神社
柴又八幡神社

 

見どころ3  帝釈天参道 

来た道を戻り、先に渡った踏切を再び渡って今度は直進、先ほど別れた柴又街道との十字路に出る。十字路を右に折れ、少し行くと、左手に「帝釈天参道」と記されたアーチが見える。そのアーチを潜って、両側に店が軒を並べる柴又帝釈天参道を進む。ただし、ここは下見気分であまり時間を掛けない。どんな店があるのかを確認する程度。今回のウォーキングでは、ここで時間を掛けすぎると後の行程を楽しむ時間がなくなってしまう。少しの我慢。楽しみは後にとっておきましょう。しばらく行くと正面に大きな二天門が見えてくる。

 

見どころ4  柴又帝釈天(題経寺)

二天門から帝釈天の境内に入ります。手前に松が庇のように茂っていて、正面に見えるのが帝釈堂。左手には寅さんが産湯をつかったとされる御神水がある。映画『男はつらいよ』で全国的に有名になり、柴又帝釈天の名称で親しまれているが、正式には経栄きょうえい題経だいきょう寺という日蓮宗の寺院。寛永年間(1624‐44)の開基とされる。安永8年(1779)本堂改築の際に、それまで行方知れずとなっていた、日蓮上人自らが彫ったとされる板本尊が屋根裏から発見された。発見された日が庚申の日であったため、以後、その日を縁日とした。当時、庚申信仰こうしんしんこうAが盛んだったこともあり、題経寺も大いに信仰を集めて賑わった。天明3年(1783)の大飢饉では、江戸にも疫病が流行って庶民は疲弊。9代山主の日敬上人は板本尊を背負い、苦しんでいる庶民の救済にあたったという。江戸の人々には柴又の帝釈様として親しまれ、庚申の前夜には「宵庚申」といって、多くの人々が集い本堂で一夜を明かしたという。帝釈堂には「法華経」の説話を題材にした見事な仏教彫刻が飾られ、帝釈堂の裏手には邃渓園すいけいえんという庭園がある。境内には、尾崎士郎の文学碑や明治の廃仏毀釈はいぶつきしゃくBで富士山頂から降ろされた金銅仏なども鎮座している。まだまだ紹介したい見どころはあるが、先があるのでこのあたりにして、帝釈天に別れを告げる。二天門を出てすぐ右手に曲がり、広い道(柴又帝釈天の北側の境をなす道)に出たら右に折れ、江戸川の土手を目指して進む。

題経寺
題経寺帝釈堂

 

見どころ5  江戸川と矢切の渡し

江戸川の高い土手を登ると、360度が見渡せる雄大で開放感のある景色が広がる。江戸川の優雅な流れは、私たちをすがすがしい気持ちにさせてくれる。天気が良いと、北東方向に筑波山を仰ぎ見ることもできる。川の上手には、2つのレンガ造りの取水塔(金町浄水場へ江戸川の水を取り入れる施設)がそびえ、川沿いの風景にアクセントをつけてくれている。江戸川と土手、そして取水塔のある風景は、東京を代表する景観の一つといってもよい。目の前の川辺には、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』に、別れの場所として登場する矢切やぎりの渡しがある。川を渡る舟の姿も江戸川ならではの風景で、これも一興である。矢切の渡し付近の川底は岩盤となっており、からめきの瀬(がらめきの瀬)ともいわれる浅瀬。14世紀に書かれた『保暦間記ほうりゃくかんきC』には、治承4年(1180)10月2日に源頼朝の軍勢が武蔵国に入る際、この「八切」(原文のママ)を渡ったと記されている。それが事実かどうかは別として、すでに中世前半において矢切(千葉県松戸市矢切地区)‐柴又が江戸川の渡河地点として認識されていたことに注意すべきであろう。一般的には矢切の渡しは、江戸時代に設けられたと紹介されるが、実はそれ以前にさかのぼることを強調しておきたい。またこの矢切の渡しの上・下流の川沿いは、戦国時代に相模小田原の北条氏と房総の里見氏が2度にわたって刃を交えた古戦場Dでもある。つい雄大な江戸川沿いの風景に目を奪われるが、いにしえからの歴史がそこに刻まれているのである。江戸川土手を少し下流に進むと、土手が柴又の街に向かって大きく出っ張ったところがある。スーパー堤防Eであり、その下に「葛飾柴又寅さん記念館」がある。

江戸川の風景
柴又から望む江戸川

 

見どころ6  葛飾柴又寅さん記念館

矢切の渡しや江戸川河川敷、そしてスーパー堤防を含めた一帯は柴又公園として整備されている。寅さん記念館もその公園内に位置する。名誉館長は、あの山田洋次監督。映画『男はつらいよ』でおなじみの団子屋「くるまや」や柴又の風景を体感でき、車寅次郎をとりまく家族や歴代マドンナなどの登場人物、ロケ地なども紹介しており、『男はつらいよ』ファンにはたまらない。映画を知らない世代でも、昭和という時代を確認するのに適した施設といえる。最近リニューアルされ、内容もさらに充実した。入館料は、一般500円、小・中学生300円、シルバー400円(これから行く隣の山本亭とのセット券を買うと、入館料が50円割引となる)。

 

見どころ7  山本亭

山本亭は葛飾柴又寅さん記念館の北隣にある。カメラの部品製造を行っていた山本氏の居宅で、昭和63年(1988)まで使用されていた。その後、葛飾区が整備して、平成3年(1991)から一般に公開。ちなみに、居宅の南側、今の葛飾柴又寅さん記念館がカメラ工場のあった場所。そこは大正12年(1923)の関東大震災までは瓦工場であった。山本亭は本瓦葺き2階建て。数次にわたる増改築を経て、伝統的な書院造をベースに洋風建築を採り入れ、見事な和洋折衷の造形美である。屋敷の南に面して庭園が設けられている。池泉や築山、石を配して、滝を設けるなど、純和風の緑豊かな庭園である。また屋敷の一角には、地下式の防空壕が現存し(普段は見学できない)、戦争遺跡としても貴重な文化財である。室内では抹茶、和菓子(有料)なども楽しめる。畳に座り、部屋のしつらえや庭を眺めながら一休みしたら、いよいよ仕上げの街歩きと行きたい。山本亭単独での入館料は100円(中学生以下は無料)。

山本亭
防空壕
庭園から見た山本亭
防空壕の入口

 

ゴール  再び柴又帝釈天参道へ

柴又歩きの醍醐味は、何といっても帝釈天の参道。店の声かけや参詣客、見物客の雑踏も柴又ならではの風情。草団子あり、煎餅あり、佃煮あり、そして川魚料理ありと、食の名物には事欠かない。食べ物以外にも、達磨や郷土玩具のはじき猿などの土産物が店の軒先を飾っている。お土産を探しながら、ゆっくり一軒一軒の店を見て歩くのもよし、草団子を頬張るもよし、楽しみ方は幾通りもある。草団子は店によって、個性があり、味わいも違う。百聞は一見にしかず、是非お試しあれ。お酒がイケる人は、川魚料理で一杯。点在する柴又の川魚料理屋は、幸田露伴、夏目漱石、尾崎士郎などなど、多くの文人の舌も楽しませてきた。柴又を舞台とした小説を片手に、盃をあけるのもここならではの楽しみ方。
足を使って柴又界隈を散策し、地域に刻まれた意外な歴史に驚いたり、感動したり、そして門前の賑わいを目(景観)と耳(音)と舌(味)で満喫したら柴又駅へ。駅前の広場にある寅さんの像は、柴又駅に向かう寅さんが、名残惜しそうに門前界隈の方を振り返っている姿。私たちも寅さんに別れを告げて改札口へ。

 

柴又駅前の寅さん像
柴又駅前の寅さん

 

 


谷口学芸員が語る《葛飾》の魅力的な3つの景観

 

河川沿いの風景

葛飾区は、西から東に順に荒川(荒川放水路)、綾瀬川、中川、新中川(中川放水路)、江戸川が流れている。これらの河川は、各々異なった河川景観を呈し、また川沿いの風景も趣を変える。例えば、中川や江戸川は河川改修などで手を加えられているが元々は自然河川。一方、荒川(荒川放水路)や新中川(中川放水路)は人工的に開削された放水路である。そのため荒川や新中川の河道は直線的で、街並みも川に向いて発達していない。それもそのはずで、荒川は昭和5年(1930)の通水から80年しかたっておらず、新中川は昭和38年の完成から半世紀も経ていない。それに対して、中川は江戸時代に手を加えられているが、古代から葛西地域の中央を流れている動脈であり、歴史の厚みが違う。東京都と千葉県の境をなす江戸川は、大きく弓状に蛇行する流れが雄大である。葛飾側から見ると下総台地の縁辺が壁のように連なっており、東京下町との地形的差異も楽しめる。中川には江戸川のような雄大さはないものの、曲がりくねった流れは、宅地化された東京下町の景観にアクセントをつけている。これらの河川を見比べてみるのも葛飾ならではの楽しみであろう。

 

東京下町の風景(京成線各駅の周辺)

葛飾区は、東西方向に鉄道路線が貫いている。JR線が北(常磐線)と南(総武線)を走り、中央部を京成各線(京成本線、金町線、押上線)が走っている。JR線は線路敷きが広く、直線的であるのに対して、京成線はJR線に比べれば、線路敷きは狭く、街中を縫うようにカーブを描いている。そして、JR線の駅は駅前にロータリーが設けられているのに対して、京成線各駅では駅前にロータリーがない。京成線の駅は改札口を出るとすぐに街中に入って行く構造で、駅の周りに商店街、さらにその周縁部には昔ながらの町工場なども点在する。町工場の従業員やその家族で賑わいをみせる商店街や銭湯などは、昔ほどの活気はなくなったものの、他の地域に比べれば、まだまだ下町の風情を留めている。それに勤労者が一日の疲れを癒すために通う「千ベロF」の飲み屋さんも京成沿線に健在。葛飾の飲食文化は東京下町の風景に欠かせない構成要素となっている。

 

かつての農村的風景

葛飾のもう一つの魅力的な景観、それは都市化された風景のなかに垣間見えるかつての農村的遺景である。江戸時代、葛飾は、都市江戸の発展を支える食糧基地として、また行楽地として江戸東郊の一翼を担った。水田耕作だけではなく、巨大消費地江戸に向けた蔬菜類の栽培が畑地で盛んに行われ、小松菜も特産だった。近代になって、江戸は日本の首都東京へと変貌する。しかし、関東大震災によって甚大な損害を被り、被災した人々は東郊である葛飾を含めた郊外に居を移すようになる。昭和期に入ると、太平洋戦争による東京大空襲などの戦火に罹り、さらに郊外へと人が移動することになった。その結果、開発は益々促され、耕地面積を狭めていった。今は昔ながらの水田は姿を消してしまったが、葛飾区北部の水元や奥戸地域にはまだ畑や農家の佇まいが残る家屋がある。また、京成線の駅近くの住宅街をよく観察すると、農家の建物が残っていたり、家と家の間に小さな畑が残っていたりする光景を見かける。水元や奥戸地域はともかく、京成線の駅周辺の東京下町的な街並のなかに農村の遺景が密かに残っているのだ。

 

そして、これらの景観のなかに刻まれている葛飾ならではの「歴史」を読み取ることで街歩きは魅力を増し、さらに音・匂い・味など、自身の五感を研ぎ澄ますことによって「葛飾を極める」楽しさを体感できるはずである。

 

脚注

    1. 道教の、三尸さんしの説に由来。60日(または60年)ごとに巡ってくる、庚申かのえさる(「こうしん」とも)の日(年)に営まれる。三尸とは人の体内にいる三匹の虫で、庚申の夜に眠っている人の体から抜け出て、天帝にその人の罪過を告げるという。天帝はその人を早死させるといわれるので、庚申の夜は眠らないで身を慎むのが風習となった。庚申講、庚申待といって、青面金剛(仏教)や猿田彦大神(神道)を本尊とし、仲間とともに祭事を営み、祭事が終わると酒食が出て夜明けまで歓談した。そのため、庶民の社交の場ともなった。
    2.  

    3. 明治初年、明治新政府の神道国教化政策に沿って行なわれた仏教の抑圧・排斥運動。神仏分離令が発布されると、仏堂・仏像をはじめ仏具・経文など、仏教に関連する多数のものが破壊・焼却された。

       

    4. 保元ほうげんの乱から暦応りゃくおう2年(延元4年、1339年=後醍醐天皇崩御の年)までの治乱興亡を記す戦記物。書名はこのことによる。鎌倉時代を通観でき、鎌倉幕府の詳しい動静を知ることができる数少ない史料で貴重。
    5.  

    6. 付近は小田原北条氏を中心とする関東の軍勢と、里見氏を中心とする房総の軍勢が、天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2度にわたり、下総、国府台こうのだい(現千葉県市川市)一帯で戦った「国府台合戦」の戦場となった。戦いの結果、関東の大半は勝利した北条氏の制圧下に入った。
    7.  

    8. 高規格堤防ともいう。大規模地震や200年に1度の洪水を想定して作られた堤防。従来の堤防に比べると、堤幅がかなり広く(堤高の30倍が基準)、このため堤の勾配が緩やかで(3%勾配)、たとえ溢水したとしても、被害を最小限にとどめる構造となっている。柴又地区では、柴又公園と一体となった整備が行われた。
    9.  

    10. 千円でベロベロに酔うまで飲める居酒屋、の意味で用いられる。
2010年6月04日

五感で味わう《葛飾》の魅力 その2

前回は葛飾の入門コースともいうべき、柴又しばまた界隈をご紹介しました。今回は柴又や堀切ほりきり亀有かめありは知っているが、もっともっと「葛飾を極めたい」という人に是非おすすめしたいコースです。それは立石たていし界隈。京成押上おしあげ線立石駅前のアーケード街は、東京下町を代表する商店街のひとつ。小浅草とも呼ぶべきアーケード街の風景も近年は買い物空間から飲食空間へと様変わりしつつありますが……。
この地域の魅力は、今目にする風景の面白さだけではなく、古代・中世・近世、そして近・現代へと、時代とともに変貌する、その時々の歴史が地域に刻まれていることにあります。歴史的なことは追々紹介するとして、ただ、この地域の景観を理解するうえで注意していただきたいことがあります。それは、大正13年(1924)に通水して一応の完成をみた荒川放水路aの存在。首都東京を水害から守るという治水面からの目線だけでなく、放水路の開削前と開削後では、景観がいかに変わったのか? そして、放水路がこの地域の開発とどのようにかかわったのか? などについても頭の片隅に置いて歩いてみると、思わぬ発見があるかもしれません。まずは出発地点である京成押上線四ツ木駅へ向かいましょう。



コースガイド (歩行時間合計65分)


スタート 四ツ木駅
(徒歩 10分)
見どころ1 西光寺・清重塚
(徒歩 5分)
見どころ2 荒川土手
荷風が杖を曳いた道
(徒歩 20分)
見どころ3 浄光寺
(徒歩 10分)
見どころ4 水道みち
(徒歩 15分)
見どころ5 立石大通り
(徒歩 5分)
ゴール 立石仲見世のアーケード街

※歩行時間<はあくまでも目安です。
※見学・休憩などの時間は含まれていません。





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見どころガイド
(写真をクリックすると、拡大表示されます)

スタート  四ツ木駅

四ツ木駅界隈は、昭和50年代まで、荒川放水路の左岸では有数の繁華街でした。ただし、駅のホームに立って、対岸の墨田区荒川駅(平成6年に改称し、現在は八広やひろ駅)やその周りを見渡すと、視界を遮るもののない荒涼とした景観が広がっていました。目立つものといえば工場や銭湯の煙突くらいで、墨田区と葛飾区の境界に立ちはだかるものといえば、眼下を流れる荒川放水路だけ。しかし、昭和50年代後半から荒川放水路左岸(東岸)の四つ木側に首都高速道路が建設されます。車社会にとって大きな利便性をもたらしましたが、高速道路が大きな壁となって、かつて駅のホームから見渡せた渺茫びょうぼうとした景観は損なわれてしまいました。これはホームからの視点だけではなく、また四つ木界隈に限定されるものでもありません。放水路の左岸に位置する葛飾区にとって、東京都心部がある西方向への視界を大きく遮る構造物となったのです。四ツ木駅自体も近年、近代的な駅舎に建替えられ、さらに昔の景観が薄れてしまいました。
加えて四つ木の商店街から、かつてのような賑わいが消えてしまったことは、昔を知る者にとって寂しい限りです。


見どころ1  西光寺・清重塚

四ツ木駅から荒川土手に出る前に、少し寄り道をして超越山西光寺さいこうじに足を向けましょう。駅の北口を出て、商店街に沿って東に進むと、道が大きく右へカーブするところに信号があります。その信号のところを逆に左に直角に折れると、すぐに西光寺の山門が見えます。鎌倉御家人葛西清重かさいきよしげゆかりの寺で、境内は清重の館跡とも伝えられます。清重は源頼朝の側近くに仕え、平家追討や奥州藤原氏攻めに従軍して武功をなし、鎌倉幕府創設に尽力した鎌倉武士。境内はけっして広くはないのですが、手入れは行き届いており、本堂の屋根の勾配も美しく、清楚な佇まいをみせています。親鸞聖人が逗留したという伝承もあって、浄土宗寺院として創建されましたが、江戸時代頃に天台宗寺院となりました。
西光寺の山門を出て右(寺に向かっては左)に、寺の塀沿いに100メートルほど行くと、葛西清重の墓所といわれる清重塚があります。墓所に向って左手の墓石は明治時代になって日本初の国語辞書『言海』を編纂した大槻文彦博士が建立したもの。

超越山西光寺 清重塚
左/西光寺、上/清重塚。ちなみに葛西氏の祖は秩父氏、清重の義理の伯父筋は千葉氏。桓武平氏良文流で固めたファミリーです。


見どころ2  荒川土手・荷風が杖を曳いた道

清重塚に参拝したら、北に進み水戸街道に出ましょう。前述した高速道路が見える西の方へ進むと、綾瀬あやせ川にぶつかります。このあたりでは、綾瀬川(東側)と荒川放水路(西側)が並行して流れていて(もう少し下流に行くと、中川が綾瀬川を合わせ、中川と荒川放水路が並流するようになります)、綾瀬川と荒川放水路との間には中土手とよばれる堤があります。この土手の道は見晴らしも良く、広々とした景観は開放感があって心地よいものです。建設中のスカイツリーも大きく見えます。中土手は永井荷風が杖を曳いて逍遥した道筋で、随筆『放水路』には、戦前の荒川放水路沿いの風景描写がされているので、歩く前にあらかじめ目を通しておくと、その変貌に思いいたり、面白味がますことでしょう。
中土手を南に進み、京成線の鉄橋の下をくぐり、左手に玉子家(四つ木地区の三ツ星レストランとよぶ人もいます)の看板を見ながら木根川きねがわ橋を通り過ぎると、綾瀬川だけに架かる橋(荒川放水路には架かっていない)があります。これを渡って東四つ木地区へと入って行きます。なお、お腹が空いた人は、先ほどの玉子家まで戻って名物の親子丼(20食限定の「うな丼」を推す人も多い)を頬張って、腹ごしらえをしておきましょう。
橋を渡りきったあたりは、豊田正子の『綴方教室b』の舞台となったところで、東宝で映画化されました。監督はグルメでも知られた山本嘉次郎、正子役は高峰秀子、父親役が徳川夢声、母親役は清川虹子が演じておりました。

綾瀬川の中土手
写真中央にある中土手の向こう側を荒川放水路が流れる。左に見えるのは、首都高速中央環状線・平井大橋。


見どころ3  浄光寺 

土手下の道を下流に進むと「きねがわ薬師c」の名でも親しまれる青龍山浄光寺じょうこうじがあります。伝教大師(最澄)の作といわれる秘仏薬師如来木像を安置する天台宗の古刹で、多くの文化財を伝えています(薬師如来像は「ご開帳」のとき以外は未公開)。江戸時代には徳川将軍家の祈願所として、また将軍鷹狩りの際にはご膳所ともなった名刹。実はこの浄光寺は元々この場所にあったのではありません。元々あったところが荒川放水路の開削工事予定地になってしまったため、大正8年(1919)に現在の場所へ移転してきました。ここにも放水路開発の影響を見ることができます。旧境内地は、江戸近在では唯一のカキツバタの名所として知られ、多くの人々の目を楽しませました。また将軍徳川吉宗お手植えの「とみの松」や西郷隆盛を顕彰して勝海舟が私費で建立した「西郷南州留魂碑」などがありました。しかし、残念なことに移転に伴って「西郷南州留魂碑」は大田区の洗足池せんぞくいけ公園の池畔に移されるなど、かつての伽藍や境内の面影は失われました。現在、境内に茂る「とみの松」は代替わりしたもの。でも、その根元に建つ碑の文字は勝海舟の書ですし、ほかにも日本の女優養成に尽力した「加藤ひな子の碑」や、復元修復された金剛力士像が納まる仁王門など、見るべきものは多々あります。
「きねがわ」にまつわる話はいくつかありますが、ここでは音楽家さだまさしのことを少し紹介しておきます。さだまさしの初期の曲に「木根川橋」というのがあります。葛飾区立中川なかがわ中学に通っていた頃の情景を歌にしたもので、荷風の随筆と同様、あらかじめ、この曲を聴くなり、歌詞を確認しておくと、曲のイメージと現在の風景との比較ができて面白いでしょう。
中川中学は浄光寺のすぐ東側にありますが、浄光寺や中川中学が所在する一画に注目してください。このあたりは北側を大きく湾曲した道路によって画されていますが、この湾曲した道路も放水路開削とかかわっています。じつは放水路が中川を分断することになっため、中川の付替・改修が行われ、現在のように浄光寺や中川中学の南側を流れる姿になったのです。大きく湾曲する道は、かつての中川の流路跡を埋め立てたものでした。

浄光寺
浄光寺 本堂


見どころ4  水道みち

浄光寺をあとにしたら、高速道路が大きく立ちはだかる荒川土手下の道を北(上流)に向かいましょう。しばらく行くと、祠のある信号があり、これをやり過ごしてさらに北に行くともうひとつ信号があり、ここから北東方向へ細い直線的な道が貫いています。この通りを地元では「水道道=すいどうみち」とよんでいます。昭和元年(1926)から給水を始めた金町浄水場の水道管(幹線)が埋設されていることから付けられた名前です。金町浄水場の給水先は、葛飾・江戸川・墨田・江東・足立・荒川・台東・北・中央各区の大部分と千代田区の一部で、東京都東部の重要なライフラインとなっています。ところで、この水道みちは、従来から通じていた東西、南北に走る道に対して、ちょうど斜め45度方向に走っていますので、この道を歩くと、いたるところで5叉路、6叉路、7叉路、はたまた8叉路にまで出くわすことになります。
この水道みちを立石駅方面に歩いて行きます。時間に余裕のある方は、客人まろうど大権現の名で知られる白髭しらひげ神社に立ち寄ってください。水道みちから少し北側に入ったところ(東四つ木4-36)にあり、江戸の遊郭関係者や徳川七代将軍家継の生母左京局dなども厚く信仰したといわれる神社です。再び水道みちを北東方に行き、平和橋通りとの交差点(8叉路)を過ぎてまもなく、左手に広がるのが渋江しぶえ公園(東立石3-3)。この公園には大正時代から昭和20年代にかけて、葛飾地域で繁栄したセルロイド工業を顕彰する「葛飾セルロイド工業発祥記念碑」が建っています。


見どころ5  立石大通り

水道みちをさらに北東に進むと、正面に区立本田ほんでん小学校が見え、立石大通り(奥戸おくど街道)にぶつかります(5叉路)。この本田小学校は、先ほど話題にした『綴方教室』の作者豊田正子の通った学校。水道みちを歩くのはここでおしまいです。立石大通りを渡った小学校側の歩道を東(右手)に進みます。ひとつ目の信号のある交差点に注目しましょう。歩道のところに「大道橋」と刻まれた橋の親柱が残っています。この立石大通りは、墨田区の隅田から葛飾区四つ木・立石・奥戸・細田ほそだ鎌倉かまくら、そして江戸川区小岩こいわに至る幹線道路で、このルートは古代の東海道と推定されています。そのことを裏付ける資料のひとつが「大道」という呼称です。古代の官道e沿いには、その遺称として「大道」地名が多く残されることは知られています。また地域名である「立石」という地名も「大道」と同様に古代の官道沿いに多く残る地名で、葛飾区立石の地名起源となった「立石様f」は古代東海道の道しるべではなかったかといわれています。立石大通りは、まさに古代と現代が折り重なった通りなのです。

大道橋
「大道」は「だいどう」もしく「おおみち」と読みます。


ゴール  立石仲見世のアーケード街

橋の親柱をあとにして、さらに進むと、賑わいが増してきます。一帯は、漫画家つげ義春の原風景の世界。つげ義春は、本田小学校に通い、メッキ工場で働くなど、この界隈で暮らしていました。立石駅が近づくと、左手に駅に通じるアーケードが見えてきます。立石商店街は、大きなアーケードの立石駅通り商店会、小さなアーケードの立石仲見世共盛会、さらに立石大通り商店会、立石中央通り商店会、立石駅北側の区役所通り商店会があり、これらを合わせて立石商店連合会といっています。
まずは立石仲見世のアーケード街に入ってみましょう。敵は本能寺、いよいよ今回のウォーキング・コースの本丸に突入です。ここでは、今まで思いを馳せてきた古代や中世の歴史はひとまず忘れ、匂いや音、そして味を堪能してもらいたいのです。浅草との関係をうかがわせる和菓子の店など、どことなく浅草的な雰囲気があります。「小浅草」とでもよんでみたいのですが、ここ2、3年の変化で、日常生活を支える食料品・衣料品や日用雑貨を扱う店が少なくなり、一方で居酒屋や飲食店が増えました。「小浅草」というよりはむしろ、浅草でも屋台風の居酒屋などが軒を並べる「六区」のような雰囲気が強まる傾向がみえます。それはさておき、懐かしい昭和の風景を備えたアーケード街であることは間違いありません。店の人とお客さんが交わすやり取りを楽しみ、さまざまな食物の匂いを嗅ぎ分け、そして、もちろん舌で楽しむのです。百聞は一見にしかず、是非、足を踏み入れてください。
立石駅周辺は、もつ焼屋(葛飾の夜の名物は「もつ焼とハイボール」だ!)をはじめ数々の名店が所在します。駅北側の呑んべ横丁も古き時代の面影を十分に伝えており、立石駅の周辺は、四つ木から立石まで歩いた、今日一日の疲れを癒すには最適なスポットといえます。もちろん、飲めない方も、商店街でお茶うけに甘いものを求めたり、好きな惣菜をセレクトしながら、夕食の献立を充実させるなど、耳、鼻、舌を存分に働かせて、買い物などを楽しんではいかがでしょうか。

立石の夜の名物
たいがいのウォーキングの最終目的地は、こうなることが多い……、ですよね。ぜひご自身で行って、ご堪能ください!


おわりに

この葛飾ウォークでは、皆さんに五感を通して葛飾という地域を満喫していただきたい、という思いを込めてコースを設定しました。さらに、その効果を高めるために、是非、「葛飾区郷土と天文の博物館」にご来館いただければと思います。街歩きを始める前に、葛飾の歴史や地理的特徴を学習することによって、地域に刻まれた歴史が、これから目にするであろう景観の深みとなり、ウォーキングを終えたあと「葛飾ならではの余韻」を感じていただけるのでは、と思っています。
最後にもう一つ。これからの街歩きの楽しみ方として、2011年12月に竣工するスカイツリーから眺望する東京下町の大パノラマも見逃せないのでは? という提案です。これから歩こうと思う地域を事前に眺めてチェックする、あるいは歩いた後でも、スカイツリーから俯瞰することで、改めて発見できることもあるでしょう。きっと今まで以上に街歩きを楽しくさせてくれるはずです。街歩きによる細かな観察と、スカイツリーから俯瞰する大きな視野、この二つを組み合わせた景観観察にはもってこいの条件が整っている地域、これは新しい葛飾の魅力になるのではないでしょうか。

脚注

    1. 荒川は甲武信(こぶし)岳を源流に、秩父盆地を通って関東平野に流出し、東京下町を抜けて東京湾に注いでいる。荒川が江戸・東京を襲った洪水は数えきれず「荒れ川」の異名を欲しいままにしていた。流路もたびたび移動したが、のち、現在の隅田川が荒川の流れを一手に引受け、水害苦難の歴史を繰り返してきた。明治43年(1910)の大水害によって改修工事が急がれ、隅田川の東側に新たな迂回水路(荒川放水路)を開削することで、明治44年に用地買収が始まった。計画は北区岩淵に水門を造り、中川の河口まで直線的な放水路を設けるもので、大正2年(1913)から本格的に着工、大正13年に一応の通水式を迎え、昭和5年(1930)に全面完成する。延長24キロ、幅員450―580メートル、中央常水路の幅員110―260メートル。この放水路の完成以後、東京下町の堤防決壊による水害は皆無となった。昭和40年(1965)の河川法の改正で、行政取扱上では隅田川と区別され、岩渕水門以下の荒川放水路が荒川の本流となった。

       

    2. 昭和12年(1937)に出版され、ベストセラーとなった書籍。鈴木三重吉が主導した生活綴方運動の影響を受けた本田小学校の教師、大木顕一郎の指導、編集のもとで、当時4年生だった豊田正子が書いた綴方26編が収められた。子供の視点で下町の庶民の暮らし振りが活写されていて評判をよんだ。幾度か映画化、テレビ化されたが、高峰秀子が主役の少女役を演じたのは1938年制作の作品。
    3. 「きねがわ」は現在は「木下川」または「木根川」と記されることが多い。古くは「木下川」または「木毛河」と書かれた資料があるので、あるいは「きけがわ」とよんでいたかもしれない。

       

    4. 6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍家継の生母。諱は輝子。甲府藩主時代の徳川綱豊(のちの家宣)に仕え、宝永6年(1709)家宣が将軍に就いたあとに家継を生んだ。正徳2年(1712)の家宣没後は落飾して月光院を名乗った。絵島生島事件で名高い大奥老女絵島は月光院に仕えていた。

       

    5. 官道は一般には国の費用で設備、監理している道路をいう。古代の官道は、律令制下で中央政府と各国を結ぶ道として整備された。立石大通りのルートに想定される古代官道は、東海道が武蔵国から下総国に向かう道で、8世紀中葉頃に付替・整備されたものと考えられる。
    6.  

    7. 葛飾区立石八丁目にある奇石。現在は児童遊園内に祀られている。材質は房州石。江戸時代から「活蘇石」「根有り石」とよばれて信仰を集め、地元では立石様とよばれ親しまれた。『江戸名所図会』では石が地上に露呈している様子がうかがえるが、現在では四角い石囲いのなかで、地表に少し顔を出しているにすぎない。石質は柴又八幡神社古墳の石室石材と同じ房州石である。立石の性格については諸説あるが、東京低地やその周辺部では古墳時代後期に古墳の石材として房州石が運び込まれており、立石も古墳の石室を造る目的で運ばれてきたものであろう。その後、古代官道を整備する時に、古墳に用いた石材を官道(東海道)の標識として転用した可能性が考えられる。(JK版「日本歴史地名大系」など)