NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 白河天皇

白河天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『白河天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
白河天皇
しらかわてんのう
一〇五三 - 一一二九
一〇七二―八六在位。諱は貞仁。天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し、治暦四年(一〇六八)父後三条天皇の即位後ようやく親王となり、翌延久元年(一〇六九)立太子。延久四年十二月八日、父帝の禅りを受けて践祚し、同日源基子を母とする異母弟実仁親王を皇太子に立てた。父帝の意向によるものである。しかし応徳二年(一〇八五)皇太子が病没すると、翌年十一月二十六日、皇子善仁親王を皇太子に立て、即日譲位した。ただ新帝堀河天皇はまだ八歳の幼少であったため、おのずから上皇の庇護後見を必要とし、さらに嘉承二年(一一〇七)、鳥羽天皇が五歳の幼弱で践祚するに及び、上皇の執政はいよいよ本格化した。ついで元永二年(一一一九)鳥羽天皇の第一皇子顕仁親王が生まれると、上皇はやがてこの曾孫の皇子を皇位につけた。崇徳天皇である。一方、保安元年(一一二〇)関白藤原忠実が上皇の怒に触れて失脚すると、摂関の勢威はいちだんと低落した。こうして上皇は院中にあって政治の実権をにぎり、後世から院政と名づけられる政治形態を創始することになった。多年上皇の側近に仕えた藤原宗忠は、その日記『中右記』に上皇の治政を評して大要次のように述べている。「法皇は天下の政をとること五十七年、意にまかせ、法にかかわらず除目叙位を行なった。その威権は四海に満ち、天下これに帰服した。理非は果断、賞罰は分明、愛悪は掲焉、貧富の差別も顕著で、男女の殊寵が多かったので、天下の品秩が破れ、上下衆人も心力に堪えなかった」と。一面、上皇は仏教に帰依し、在位中白河の地に法勝寺を建てたのをはじめ、尊勝寺・最勝寺・円勝寺をつぎつぎに建立し、また永長元年(一〇九六)最愛の皇女郁芳門院の死をいたんで落飾した(ただし受戒せず、法号も定めなかったとする記録と、ひそかに受戒し、融観と号したとする記録が並存)。ことに晩年はしきりに殺生禁断の令を下し、次第に浄土信仰に傾斜していったが、大治四年(一一二九)七月六日、にわかに病に倒れ、翌七日、平癒祈願の仏事もとどめ、西方浄土を念じつつ、七十七年の生涯を閉じた。追号は、深い愛着をもつ白河の地に因んで、生前に白河院と定められていた。
[参考文献]
橋本義彦「白河法皇」(『人物・日本の歴史』三所収)
(橋本 義彦)

成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)

京都市伏見区竹田浄菩提院町にある白河天皇陵。白河天皇は天仁元年(一一〇八)鳥羽に三重塔の寿陵建立を計画し、天永二年(一一一一)八月落成、ここに納骨するよう遺詔して崩じた。遺骸は大治四年(一一二九)七月十五日に、衣笠山の東麓(京都市北区衣笠西馬場町、火葬塚)で火葬されたが、遺骨は、遺詔の納骨塔が凶方にあたるため、吉方になるまで香隆寺に仮安置した。天承元年(一一三一)鳥羽に成菩提院を建立し、その落慶供養の翌日七月九日遺骨を香隆寺から三重塔に移し埋納した。納骨状態は『長秋記』によると、塔下に約一・二メートル四方の石筒を設けて、これに骨壺を納め、その上に、銅板経を納めた銅筥と、金胎両界の阿弥陀仏像を納めた銅小塔とを安置して石蓋をし土で埋めている。この塔は建長元年(一二四九)に焼失し、以後所伝が失われた。元禄十年(一六九七)の諸陵探索以後は、この三重塔に現鳥羽天皇陵をあて、申伝えなしとし、現陵は近衛天皇陵としてきた。元治元年(一八六四)塔の壇と称された現陵に改定し、修補を行なった。現状はこの修補で整形したもので、幅三・五メートルの堀に囲まれた、一六メートル四方の石垣積み方形区画に、高さ一・五メートルの方丘が載り、東面に拝所がある。昭和五十五年(一九八〇)―五十九年度に、宮内庁書陵部や京都市埋蔵文化財研究所が行なった陵外周部の発掘調査で、現在の堀の外側一二~一三メートルのところに、幅八・五メートル、長さ東西・南北各七〇メートルの堀が、当初は存在したことが判明し、堀内から三重塔の調度品かと思われる螺鈿金平塵の燈台台座残欠が出土している。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』下、谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、京都市埋蔵文化財調査研究所編『鳥羽離宮跡発掘調査概報』、福尾正彦「成菩提院陵駐車場整備工事区域の調査」(『書陵部紀要』三三)
(石田 茂輔)


日本大百科全書(ニッポニカ)
白河天皇
しらかわてんのう
[1053―1129]

平安後期の天皇(在位1072~86)。名は貞仁(さだひと)。天喜(てんき)元年6月20日生まれ。後三条(ごさんじょう)天皇の第1皇子。母は藤原能信(よしのぶ)の娘茂子(藤原公成(きんなり)の養女となる)。父から譲位され即位、第1皇子の夭逝(ようせつ)後、第2皇子善仁(たるひと)親王8歳のときに位を譲り(堀河(ほりかわ)天皇)、院政を行った。親政、院政期を通じて、1075年(承保2)、99年(康和1)、1107年(嘉承2)、27年(大治2)などに荘園(しょうえん)整理令を発し、父の政治路線を引き継いだ。また、叙位、任官について独裁的な発言力をもち、受領(ずりょう)を優遇した。院の武力として北面(ほくめん)の武士を創設し、新興の源・平氏をこれにあてた。仏教への傾倒も著しく、1096年(永長1)出家して法皇となり、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた法勝寺(ほっしょうじ)などを建立した。堀河天皇の死後、5歳の宗仁(むねひと)親王を即位させ(鳥羽(とば)天皇)、さらに譲位させ、鳥羽の皇子顕仁(あきひと)親王を皇位につけた(崇徳(すとく)天皇)。3代の天皇の在位期間を通じて「治天の君(ちてんのきみ)」の地位にあり、親政時代を含めると半世紀を超えて権力を握っていた。とくにその後半は絶対的な専制政治を行ったことによって「天下三不如意(てんかさんふにょい)」(賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほうし))の話が生まれた。藤原宗忠(むねただ)は彼が死んだとき、「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」とその日記『中右記(ちゅうゆうき)』に評した。大治(だいじ)4年7月7日死去。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田浄菩提院(じょうぼだいいん)町の成菩提院陵。
[川島茂裕]



世界大百科事典
白河天皇
しらかわてんのう
1053-1129(天喜1-大治4)

第72代に数えられる天皇。在位1072-86年。後三条天皇第1皇子。母は藤原公成女(同能信養女)茂子。諱(いみな)は貞仁。1065年(治暦1)元服。69年(延久1)東宮。72年12月即位。翌年父上皇没。また摂関家の重鎮であった前関白藤原頼通,上東門院彰子が翌74年(承保1)に,75年には関白教通が没,関白は頼通の子師実が継いだ。そして摂関家の衰勢に対し,先朝以来の村上源氏の進出が目だつが,同氏は本来摂関家と姻戚関係が深く,両者は必ずしも対立的ではなかった。白河即位に当たり,東宮には後三条の意志で女御源基子所生の2歳の異母弟実仁親王が立つが,これは摂関家が外戚となるのを排したためといわれる。しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。院政が開始された背景には古代以来存在した太上天皇の権威や,直接には師実が完全な外戚となりえず,上皇や村上源氏と協調的であったという事情のほか,貴族社会の婚姻形態の変化から,母系より父系が優位となった傾向も関係があるらしい。上皇は96年(永長1)出家して法皇となり,その間天皇も1107年(嘉承2)堀河が没し,鳥羽が即位した。23年(保安4)鳥羽譲位,崇徳即位と変わるが,法皇は没年まで〈治天の君〉として君臨,ことに鳥羽即位以後がその専制の時期といわれる。摂関家では師実の後を継いだ師通が没し,その子忠実のときになると政治的な発言力は一段と低下する。法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。

彼は在位中より,後三条天皇の荘園整理の方針をうけついだが,院の近臣団の構成員である受領の要望に合致する。また後三条とは逆に受領等の成功(じようごう)は積極的に受け入れ,その収入は法勝寺(ほつしようじ)をはじめとする盛大な造寺造仏や鳥羽殿の造営などに投入された。たび重なる熊野・高野参詣や,殺生禁断なども治世中の特色といえる。また《後拾遺和歌集》《金葉和歌集》を勅撰させた。院政を支える近臣団には受領層や,葉室顕隆など院との個人的関係ことに乳母関係や寵幸等によって抜擢された中・下級の貴族や実務官僚たちがあり,また源氏,平氏等の武士があった。院直属の武力の〈北面の武士〉は白河院のときにはじまる。院が自己の武力を必要としたのは,父の意に反して皇位継承から排除した輔仁親王をめぐる勢力への警戒心や,延暦寺,興福寺等武力を背景にはなはだしくなった嗷訴の防御もその理由とされる。源氏は奥州での戦い以来増大した義家の勢力が警戒され,院の一族分裂策によって衰退し,代わって伊勢平氏の正盛・忠盛が受領歴任や対宋貿易等で蓄えた富力と,院や貴族への奉仕により勢力を得た。陵は成菩提院陵(京都市伏見区)。
[黒板 伸夫]

[索引語]
村上源氏 実仁親王 輔仁親王 堀河天皇 院政 天下三不如意 北面の武士
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


白河天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1026
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 貞仁親王・白河天皇・白河上皇・白河法皇
日本史年表
12・8 後三条天皇 譲位 、 貞仁親王(白河天皇) 受禅、 実仁親王 を皇太子とする(扶桑略記)。 1072年〈延久4 壬子⑦〉 12・29 白河天皇 即位( ...
2. 白河天皇
日本大百科全書
平安後期の天皇(在位1072~86)。名は貞仁(さだひと)。天喜(てんき)元年6月20日生まれ。後三条(ごさんじょう)天皇の第1皇子。母は藤原能信(よしのぶ)の ...
3. 白河天皇
世界大百科事典
1053-1129(天喜1-大治4) 第72代に数えられる天皇。在位1072-86年。後三条天皇第1皇子。母は藤原公成女(同能信養女)茂子。諱(いみな)は貞仁。 ...
4. しらかわ‐てんのう[しらかはテンワウ]【白河天皇】
日本国語大辞典
第七二代天皇。後三条天皇の第一皇子。母は藤原茂子。名は貞仁。延久四年(一〇七二)即位。応徳三年(一〇八六)幼少の堀河天皇に譲位の後も、上皇として院政をはじめ、堀 ...
5. しらかわてんのう【白河天皇】
国史大辞典
(橋本 義彦) 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 京都市伏見区竹田浄菩提院町にある白河天皇陵。白河天皇は天仁元年(一一〇八)鳥羽に三重塔の寿陵建立を計 ...
6. 白河天皇(しらかわてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 24ページ ...
7. しらかわてんのう【白河天皇】
日本人名大辞典
1053−1129 平安時代中期-後期,第72代天皇。在位1073*-87*。天喜(てんぎ)元年6月19日生まれ。後三条天皇の第1皇子。母は藤原茂子。父の譲位を ...
8. 白河天皇[文献目録]
日本人物文献目録
後拾遺集の撰集下命をめぐって』橋本不美男『白河上皇呪詛事件に関する一考察 祇園女御の素生』吉村茂樹『白河天皇論』生田目経徳『白河法皇の仏教政策』西光義遵『創始期 ...
9. 白河天皇出家 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 883ページ ...
10. 白河天皇國忌 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1280ページ ...
11. 白河天皇建萬壽寺 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 962ページ ...
12. 白河天皇建法勝寺 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 683ページ ...
13. 白河天皇建證金剛院 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 985ページ ...
14. 白河天皇禁斷殺生 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 229ページ ...
15. 白河天皇遊覽御幸 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 738ページ ...
16. 納白河天皇遺骨於香龍寺 (見出し語:白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 994ページ ...
17. ごしらかはてんわう【後白河天皇】
全文全訳古語辞典
[人名]第七十七代天皇。一一五五年(久寿二)即位したが三年で譲位したものの、その後平清盛による幽閉期間を挟み、三十余年にわたって院政を行う。保元・平治の乱から源 ...
18. 後白河天皇画像
日本大百科全書
父である後白河天皇を即位させたのである。このことは皇位継承についての崇徳(すとく)上皇の望みを完全に断つものであった。そのため翌1156年鳥羽法皇が没すると、崇 ...
19. 後白河天皇[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「後白河天皇画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写 ©東京大学史料編纂所 ...
20. 後白河天皇
世界大百科事典
契機に,皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み,武士をとりこむ形で保元の乱が勃発する。勝利をおさめた後白河天皇側は崇徳上皇を配流し,信西を中心に天皇親政の体制をかため ...
21. ごしらかわ‐てんのう[ゴしらかはテンワウ]【後白河天皇】
日本国語大辞典
第七七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院璋子。名は雅仁。法名、行真。久寿二年(一一五五)即位。保元三年(一一五八)譲位し、天皇五代、三四年の間、院政を行な ...
22. ごしらかわてんのう【後白河天皇】画像
国史大辞典
不満とし、兄忠通と対立していた左大臣藤原頼長に接近した。保元元年(一一五六)鳥羽法皇の没後、後白河天皇・忠通方は、平清盛・源義朝らの武力によって、崇徳上皇・頼長 ...
23. 後白河天皇(ごしらかわてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 25ページ ...
24. ごしらかわてんのう【後白河天皇】
日本人名大辞典
1127−1192 平安時代後期,第77代天皇。在位1155-58。大治(だいじ)2年9月11日生まれ。鳥羽(とば)天皇の第4皇子。母は藤原璋子(待賢門院)。異 ...
25. ごしらかわてんのう【後白河天皇】
日本架空伝承人名事典
第七七代に数えられる天皇。天皇としての在位期間は、一一五五年(久寿二)から五八年(保元三)までのわずか三年に過ぎないが、その後に上皇・法皇として二条・六条・高倉 ...
26. 後白河天皇[文献目録]
日本人物文献目録
1』-『後白河上皇時代の公家新制』水戸部正男『後白河上皇の御所「法住寺殿」に就いて』太田静六『後白河天皇の皇位継承に就いて』古賀彦次郎『後白河法皇』粟野秀穂『後 ...
27. 後白河天皇 所領一覧1[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
28. 後白河天皇 所領一覧2[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
29. 後白河天皇 所領一覧3[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
30. ごしらかわてんのうほうじゅうじりょう【後白河天皇法住寺陵】京都市:東山区/大仏廻り/三十三間堂廻り町地図
日本歴史地名大系
後白河院の院御所、法住寺殿の跡地にあたる。陵内に法華堂が建ち、伝運慶作の上皇木像坐像を安置する。後白河天皇(一一二七―九二)は、鳥羽天皇を父とし、母は待賢門院璋 ...
31. 雅仁親王・後白河天皇・後白河上皇・後白河法皇
日本史年表
乙亥〉 7・24 雅仁親王(後白河天皇) 践祚、 藤原忠通 を関白とし、同 頼長 の内覧を止める(百練抄)。 1155年〈久寿2 乙亥〉 10・23 後白河天皇 ...
32. 後白河天皇於園城寺灌頂 (見出し語:園城寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 418ページ ...
33. 後白河天皇出家 (見出し語:後白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 865ページ ...
34. 後白河天皇即位 (見出し語:後白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 256ページ ...
35. 後白河天皇善今樣 (見出し語:後白河天皇)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第1巻 309ページ ...
36. 後白河天皇國忌 (見出し語:後白河天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1281ページ ...
37. 後白河天皇山陵 (見出し語:後白河天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 996ページ ...
38. 愛染明王画像
世界大百科事典
正之 愛染明王は諸仏の中でも霊験いちじるしいとして息災延命,増長福寿の信仰があった。平安時代には白河天皇が25歳の重厄に際して延寿命法として愛染王法を修したが, ...
39. あいぜん‐みょうおう[‥ミャウワウ]【愛染明王】画像
日本国語大辞典
の修法の本尊とされ、仏・菩薩と違って一般人の信仰対象にはならなかった。後三条天皇の即位祈願・白河天皇の病気平癒祈願の折の本尊で、院政期頃からこれを本尊とする堂塔 ...
40. あいぜんみょうおうほう【愛染明王法】
国史大辞典
本尊として敬愛・調伏を祈る法をいう。日本におけるこの法のはじめは文献上では承暦四年(一〇八〇)四月に白河天皇の厄年の祈願のために範俊が修した例が最初である。この ...
41. あいはらかわかみてんまんぐう【鮎原河上天満宮】兵庫県:津名郡/五色町/南谷村
日本歴史地名大系
「延喜式」神名帳記載の津名郡の小社「河上神社」を当社に比定する説がある。承暦四年(一〇八〇)六月、白河天皇の不例が諸神の過穢による祟りであるとの卜奏があり、淡路 ...
42. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
牒が美濃国司と東大寺宛にそれぞれ出された。このとき確認された四至はさきに示したとおりである。白河天皇の代になって庄園整理令が承保二年(一〇七五)に出され、官使・ ...
43. あきづのしょう【秋津庄】和歌山県:田辺市/下秋津村
日本歴史地名大系
件庄延久六年献中宮了、但上座之間者定不令取放給歟」とある。これによれば当庄は、延久六年(一〇七四)白河天皇の中宮にたてられた雅実の妹藤原賢子に献上されているが、 ...
44. あくみぐん【飽海郡】
国史大辞典
当時の現地の管掌者は藤原基衡であった。保元の乱で頼長の敗死したのちは、同国大曾禰・屋代両荘とともに後白河天皇の後院領になった。中世には南北朝の争乱期に、北畠氏が ...
45. あさひほんしょう【上日本庄】石川県:鹿島郡/鹿島町/浅井村
日本歴史地名大系
久安二年(一一四六)に立券状を得て立庄され、公田数は三〇町とある。長講堂領が宣陽門院覲子(後白河天皇皇女)に伝領され、貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門 ...
46. 足利義康
世界大百科事典
院へ足利荘を寄進し,在京して父とともに北面の武士として上皇に仕え,保元の乱(1156)では後白河天皇方に属し義朝らとともに活躍,この功により蔵人となり昇殿を許さ ...
47. あしかがよしやす【足利義康】
国史大辞典
り、在京して鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり、左衛門尉・検非違使に任ぜられた。保元の乱には後白河天皇方として活躍、平清盛の三百騎、源義朝の二百騎についで百騎を従 ...
48. あしかが-よしやす【足利義康】
日本人名大辞典
鳥羽(とば)上皇につかえて北面の武士となり,検非違使(けびいし)に任じられる。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方で活躍,その功により昇殿をゆるされた。保元2年 ...
49. 排蘆小船(近世随想集) 369ページ
日本古典文学全集
『詠歌大概』「詞は三代集の先達の用ゆる所を出づべからず」。きわめて大事なこと。第四番目の勅撰集。二〇巻。白河天皇の命により藤原通俊が撰定し、平安後期の応徳三年に ...
50. あじおかのしょう【味岡庄】愛知県:小牧市
日本歴史地名大系
執行させる旨の中宮職庁下文(朝野群載)に「味岡荘」とあるのを初見とする。当時の堀河天皇中宮は後三条皇女篤子で、白河天皇の妹である。後に室町院(後堀河皇女暉子)領 ...
「白河天皇」の情報だけではなく、「白河天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

白河天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「白河天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
天皇に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶