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  11. アレクサンドロス

アレクサンドロス

ジャパンナレッジで閲覧できる『アレクサンドロス』の日本大百科全書・岩波 世界人名大辞典・デジタル版 集英社世界文学大事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

アレクサンドロス
あれくさんどろす
Alexandros Ⅲ Alexander the Great
[前356―前323]

マケドニア王(在位前336~前323)。「大王」(マグヌスMagnus)とよばれたのは、ローマ共和政末期の軍人や政治家が彼らの業績の大きさをアレクサンドロスのそれに対比させたことに始まる。父はフィリッポス2世、母はマケドニアの西エペイロスの王族の娘オリンピアス。

[井上 一]

王となるまで

父のフィリッポスは、その兄がマケドニア北西のイリリア人の侵入により戦死したため、兄の子アミュンタス4世の摂政となり(前359)、ついでこれにかわり軍隊に推されて王となった。農民の生活基盤を安定させ、彼らを重装歩兵隊に組織し、小貴族を騎兵隊に組織して軍事力を強化、新戦術をもって指揮し、領土を拡大した。金山の開発、植民などにより国を固め、ギリシア世界にもその影響力を浸透させた。紀元前357年のオリンピアスとの結婚は、彼女のほかに周辺有力者の娘5人を妻としているところからみて政略結婚の一環である。フィリッポスはアレクサンドロスの天性を愛し、前343年、当時の最高の知識人アリストテレスを招いて、アレクサンドロスとその同年輩の貴族の少年たちを教育させた。後年のアレクサンドロスとその周囲のギリシア文化尊重はここで培われたといえる。武技、戦術の教育も受け、前338年夏のフィリッポスとギリシアとの最終決戦、すなわちカイロネイアの戦いに、アレクサンドロスはマケドニア軍左翼の騎兵隊を指揮し、ギリシア最強といわれたテーベ軍を粉砕した。

 この秋(前338)フィリッポスはコリントにギリシア諸国の代表を招集し、ギリシア連合(ヘラス連盟またはコリント同盟という)の盟主となり、前337年初めギリシアの宿敵ペルシアへの復讐 (ふくしゅう)戦実行が決定、先発遠征軍が派遣された。しかしこの年にフィリッポスはマケドニア人の大貴族パルメニオンと縁続きの娘を妻とした。このため、エペイロス人の母をもつアレクサンドロスとその母の王室内の地位に影がさし、父と不和になったアレクサンドロスは母とともに国外に出奔した。フィリッポスは彼らと和解するため、エペイロス王(オリンピアスの兄弟)とアレクサンドロスの妹との結婚を策したが、前336年この結婚式の席上で、彼に恨みをもつマケドニア貴族によって暗殺された。この暗殺にアレクサンドロスかその母の加担があったと考える人もある。

[井上 一]

ペルシア遠征

アレクサンドロスは父の死後、国の慣習に従って軍隊に推されて王となったが、父の時代からの有力大貴族の支持もあった。秋には父の占めたギリシア連合の盟主の地位を確認された。前335年北方ドナウ川に至る遠征によりトラキア人を、さらに西方に転じてイリリア人を討ち、国の周辺を固めた。このとき彼の戦死のうわさが流れてギリシア諸国に反乱が起こった。彼はギリシアに急行し、反マケドニアの一中心テーベを徹底的に破壊したが、もう一つの中心アテネには寛大であった。

 ギリシアを鎮圧したアレクサンドロスは、前334年春、マケドニア軍、ギリシア同盟軍、傭兵 (ようへい)らをあわせて歩兵約3万、騎兵約5000、同盟軍提供の160隻の艦隊を率いてペルシア遠征に出発した。ヘレスポントス(ダーダネルス)海峡を越えて小アジア(アナトリア)に渡り、トロヤのアキレウスの墓に詣 (もう)でて戦勝を祈り、5月にはグラニコス河畔で小アジア各地の総督たちの率いるペルシア軍を撃破し、戦利品をアテネに送った。内陸のリディアの旧都サルディスを占領し、海岸に出て南進、夏から冬までに沿岸のギリシア人植民市をペルシア支配から解放して民主政治を回復させた。夏ミレトス攻略後、同盟艦隊をむしろ重荷になるとして解散し、前333年5月小アジア中央部フリギアの旧都ゴルディオンを占領した(ここでゴルディオンの結び目を解いたという有名なエピソードがある)。

 このころ、小アジアやエーゲ海で活躍したペルシア軍の提督メムノンが病死し、後顧の憂いは減少した。小アジアからシリアに入り、11月イッソスで、ペルシア王ダレイオス(ダリウス)3世自ら率いる数的にはるかに勝るペルシア軍を大敗させ、王の家族を捕虜とした。南進してフェニキアの諸都市を前332年の秋ごろまでに苦戦ののち占領し、ペルシア艦隊から根拠地を奪った。この間ダレイオスから和議申し入れがあったが一蹴 (いっしゅう)した。遠征の後背地を固めるため、アレクサンドロスはフェニキアからエジプトに入り、エジプト人にペルシア人からの解放者として迎えられ、旧都メンフィスでファラオの後継者として戴冠 (たいかん)した。前331年初めナイル河口のファロス島に面する場所に彼の名を冠したアレクサンドリアを建設し、ヘレニズム時代の繁栄の種をまいた。ついで西方のリビアに入り、砂漠を越え南下してアモン神殿に詣で、神官に神の子という神託を受けた。これはアレクサンドロスの神格化と密接に関係する。

 アレクサンドロスは、エジプトからふたたびシリアを経てメソポタミアに入り、前331年10月ニネベの北東ガウガメラで、ダレイオスの率いる数、装備に勝るペルシア軍に決定的な打撃を与え、ダレイオスはメディアに逃れた。11月バビロンに入り、その儀式にのっとって守護神マルドゥクに犠牲を捧 (ささ)げた。12月ペルシア帝国の首都スーサを占領、莫大 (ばくだい)な財貨を入手した。この年の夏ギリシアでは、ギリシア連合に加わらなかったスパルタの王が反マケドニア戦争を企てたが、アレクサンドロスが後事を託したアンティパトロスによって秋までに鎮圧された。

 ガウガメラの戦いののち、マケドニア本国から兵員の補充を受け、前330年初めペルシアの旧都ペルセポリスを占領し、ペルシアへの復讐 (ふくしゅう)のしるしとしてその宮殿を炎上させた。春ダレイオスを追ってメディアに入り、エクバタナで対ペルシア復讐戦終了を宣言、同盟軍を解散した。ダレイオスは7月バクトリア総督ベッソスに殺害され、アレクサンドロスはいまやペルシア帝国の支配者としてマケドニア軍とギリシア人志願兵を率いてパルティアからバクトリアへと向かう。この間アレクサンドロスが帝国支配者としてペルシア式服装、儀式を採用したため、マケドニア人との摩擦も始まり、老将パルメニオン父子がその犠牲となった。

 前329年、ヒンドゥー・クシ山脈を越えてバクトリアに入り、アルタクセルクセス4世を称していたベッソスを捕らえ、ペルシアの慣習に従い極刑に処した。さらに北のソグディアナに侵入、ヤクサルテス(シルダリヤ)河畔にアレクサンドリア・エスカテ(さいはてのアレクサンドリアの意)を建て、北方民族に備えた。この地方で現地人の頑強な抵抗に悩まされたアレクサンドロスは、彼の東方化政策に対するマケドニア人、ギリシア人の激しい反発に直面する。前328年夏マラカンダ(サマルカンド)において、グラニコス河畔の戦闘でアレクサンドロスの命を救ったクレイトスが、酒宴の席上王の東方化政策に抗弁し、王によって殺されるという事件が起こった。前327年春アレクサンドロスはバクトリア豪族の娘ロクサネーと結婚し、東方人にマケドニア式軍事訓練を施すなど帝国支配のための方策をたてるが、これと前後して、マケドニア貴族の子弟からなる小姓団のなかに王殺害の企ても生まれ、これに関係ありとして処刑されたのがアリストテレスの甥 (おい)カリステネスである。彼は東征に加わって王の業績録を巧妙につくっていたが、王にペルシア風の跪拝 (きはい)の礼をとらず、疑われて死に至った。

[井上 一]

インド侵入と死

前327年夏、ヒンドゥー・クシ山脈を南に越えインドに侵入したアレクサンドロスは、前326年インダス本流を渡ってパンジャーブに入り、7月その東支流ヒュダスペス河畔でその地方の王ポロスを降伏させ、さらに東ヒュパシス川に進んだが、兵士たちはそれ以上の進軍を拒否した。アレクサンドロスはヒュダスペス川まで軍を戻し、前325年春この川を下り、途中、クラテロスが率いて西進する隊と分かれ、インダス河口近くでネアルコスの率いる船隊と分かれ、ともに西に向かった。その間とくにアレクサンドロスの率いる隊は多大の人員を失いながら、三つの隊は再会した。その後西に帰る間に、彼の不在を利用して不正を行った高官たちを処罰した。前324年1月、帝国の財務を託したハルパロスが危険を察してアテネに逃れた。この年の春スーサに入り、マケドニア人とペルシア婦人の間の結婚を大掛りに行い、アレクサンドロスはダレイオス3世の娘スタテイラと結婚した。夏にはギリシア諸国に、各国の内紛の結果国外追放となった者を受け入れることと、王自身を神として祀 (まつ)ることを要請した。スーサからメソポタミアのオピスに到着し、アレクサンドロスは老兵を故国に帰還させる命令を発したが、兵士はこれを彼らへの不信ととり、騒擾 (そうじょう)を起こした。アレクサンドロスは東方人の兵士をもってマケドニア兵にかえ、マケドニア兵は結局王に屈服した。前323年初めにはバビロンに入った。春には王を神として祀ることを決めたギリシア諸国の使節を引見、以後軍の編成やアラビアへの遠征計画を練ったが、5月末日熱病にかかり、翌6月10日に死去した。

[井上 一]

後世への影響

アレクサンドロスの死後、彼の征服した領域は、部下の将軍たち、いわゆるディアドコイ(後継者)の争奪の的となり、彼らに分割されてしまう。しかし、彼らのある者は、アレクサンドロスの遺骸 (いがい)を自分の手元に奪取し、ある者はアレクサンドロスの肖像を刻印した貨幣を発行するなど、彼らの権力の正統性をうたうため、彼を利用した。同時代人によるアレクサンドロス関係の記録はローマ共和政期の政治家に影響を及ぼしたが、ローマ帝政期に編集されたいくつかのアレクサンドロスの伝記は、現代まで古典として広く読まれている。

 アレクサンドロスは、彼の東征の間に征服地に70以上の都市を建設し、ギリシア人、マケドニア人を住まわせ、オリエントの在来の都市にも同様の措置をとった。このことが、ギリシア文化とオリエント文化との混交を盛んにして、いわゆるヘレニズム文化を生んだ。その例としてギリシア美術・建築様式の東漸があげられる。さらに忘れてならないものに、彼の東征がオリエントの精神界に及ぼした影響がある。『旧約聖書』「ダニエル書」は、彼の東征をユダヤ人の苦難の新しい始まりといっている。逆に彼を恩恵者とする伝説も諸民族のなかに生まれ、ユダヤに生まれたこの種の伝説は、イスラム世界や中世ヨーロッパ世界にも受け継がれた。

[井上 一]



アレクサンドロス[百科マルチメディア]
アレクサンドロス[百科マルチメディア]

紀元前325~319ころ 銀 直径約2.8cmメトロポリタン美術館所蔵


アレクサンドロス大王の帝国[百科マルチメディア]
アレクサンドロス大王の帝国[百科マルチメディア]

©Shogakukan


岩波 世界人名大辞典

アレクサンドロス3(大王)
Ἀλέξανδρος (ὁ Μέγας)(Alexandros III (ho Megas))
〔ラ〕Alexander III
前356~23

マケドニア王 [前336/23].

東方遠征によりペルシアを征服して大帝国を建設した.フィリッポス2世オリュンピアスの子.少年時代にアリストテレスに師事し,ギリシア文化を深く身につける.父王の暗殺を受けて即位し [前336],王国内外の反乱を鎮圧してテバイを破壊.コリントス同盟の総帥として,ペルシア戦争への報復と小アジアのギリシア人解放という大義名分を掲げ,総兵力4万7000余を率いて東方遠征に出発した [前334].小アジアに上陸してグラニコスの会戦で勝利,イッソスでダレイオス3世のペルシア軍を破る [前333].フェニキア都市で唯一反抗したテュロスを包囲戦の末に陥し,エジプトを獲得して東地中海一帯を平定 [前332].ガウガメラの会戦で再度ダレイオス軍に勝利し [前331],バビロン,スーサ,ペルセポリスの都を次々と占領,アケメネス朝ペルシアを滅ぼして [前330]アジアの王を名のった.中央アジアでは住民の激しい抵抗に遭う [前329-28]が,平定後,バクトリア豪族の娘ロクサネと結婚 [前327].さらにインドへ侵攻してインダス川を越え,ポーロス(Pōros)王の軍を破る [前326].しかしヒュファシス川で将兵から前進を拒否されたため反転を決意,インダス川を下ってから西に向かい,ゲドロシア砂漠を踏破してスーサに帰還 [前324].アラビア半島周航を企てたが,バビロンで熱病に倒れ,後継者を指名しないまま死去した.彼の大帝国は半世紀に及ぶ後継者戦争を経て,セレウコス朝シリア,プトレマイオス朝エジプト,アンティゴノス朝マケドニアの3つの王国に継承された.アレクサンドロスの遠征はギリシアとオリエントの歴史を大きく変え,以後の300年間はヘレニズム時代と呼ばれる.遠征の初期からアケメネス朝の行政組織を受け継ぎ,バビロン占領以降はペルシア人を総督に任命して,旧支配層との協調路線をとった.中央アジア侵攻後はアジアの王として君臨するため,ペルシア風の服装や跪拝礼のような宮廷儀礼を採用し,これに反対する側近たちを粛清した.遠征からの帰還後は,マケドニア人古参兵に代わって3万人の東方人を軍隊に採用.スーサでは側近80人とペルシア系女性との集団結婚式を行い,自身も旧アケメネス王家の女性を娶った.また遠征途上で各地に都市を建設し,〈アレクサンドリア〉と名づけた.これらはしばしば東西融合政策と言われるが,彼の目的はあくまでも戦争と征服であって,そこに高邁な政治理念を見出すことはできない.軍の再編も集団結婚式も帝国統治の必要からなされた施策であり,新しい都市の大半も軍事拠点で,都市として発展するのはセレウコス朝時代である.ヘレニズム時代の東方への広範なギリシア文化の伝播は,彼の死後における意図せざる結果であった.



デジタル版 集英社世界文学大事典

アレクサンドロス大王伝説
[英]Alexander romances,[フランス]légende d'Alexandre
フランス
前4世紀後半にアジアに遠征したギリシャのアレクサンドロス大王をめぐり,世界各地に伝えられた英雄伝説。アレクサンドロス大王は死後直ちに伝説中の人物となり,その事績は中世から近代の初頭に至るまで,ヨーロッパばかりでなくイスラーム諸国やロシア,モンゴルといった地域で語り継がれた。これはもちろん,前代未聞の広大な版図を征服した大王の事業が,古代以来,魅力的な祖型として各種の建国神話に利用されたからである。しかしその一方で,ペルシャからインダス川流域に至る大王の遠征が,すでにそれ自体で神話的雰囲気をたたえ,また異国趣味とも極めて馴染(なじ)みやすく,そのため,破天荒の筋立てをもくろむ多くの物語作者に格好の枠組みを提供した点も,指摘しておかなければならないであろう。
 伝説の起源には,アリストテレスの甥(おい)で遠征に同行した歴史家カッリステネスの筆に擬された『アレクサンドロス物語』(湮滅(いんめつ))が位置している。この物語は,史実にさまざまな伝承を交え,それをさらに脚色したもので,巨人の国,無頭人の国,託宣を下す樹木さえ現れる。ただし大王がエジプト王の実子に設定され,ギリシャからエジプトに渡り太陽神の神殿で祝福を受けてから遠征の途に就くことからも推測できるように,プトレマイオス朝のエジプトで前3世紀~前2世紀に成立した作品と考えられている。それをラテン語世界に紹介したのは,3~4世紀のユリウス・ウァレリウスによる翻訳であり,さらにカロリング期にはその簡約版が作られ,これが中世ヨーロッパ諸国にアレクサンドロス伝説を広めることになった。
 例えばフランスでは12世紀初頭から『アレクサンドロス大王物語』の名の下にフランス語の一大作品群が形成される。最も重要なものは,アレクサンドル・ド・パリの作品で,武勲詩宮廷風恋愛といった同時代文学の影響を受けているが,大王の海底潜水旅行や天空飛行の逸話を差し挟み,東方諸国の珍しい神秘を描いた点に独自の生彩が発揮されている。また,この作品が12音節詩句で書かれていたために,フランスでは以後12音節詩句を〈アレクサンドラン〉と称するのだが,これなどは大王の伝説がいかに好評をもって迎えられたかを物語るものであろう。事情はドイツでも同じで,やはり12世紀の後半になると『アレクサンダーの歌』という叙事詩が作られ,大王は敬虔(けいけん)なキリスト教徒であると同時に,ミンネを解する雅(みやび)な騎士としても描かれている。またスペインでも,13世紀に,フランスの古代物語の諸作品の影響下に『アレクサンドレの書』という大王伝説の物語が作られている。
 ところでカッリステネスの筆に擬された『アレクサンドロス物語』は,早くから東方諸国語にも翻訳され,また実際にアレクサンドロスが遠征した地域に残る口碑伝承とも交じり合った形で伝播(でんぱ)した。例えばアラビア語訳本(湮滅)では,大王はメッカに巡礼したイスラームの戦士であり宣教者として描かれているが,どうやら征服者としての側面が強調されていたらしく,この系統の伝説は南はエチオピア,東はジャワ,セレベス,北はロシア,モンゴルにまで伝播し,各国の建国神話に好んで利用された。
 現存の文学作品としては,12世紀のペルシャの詩人ガンジャのネザーミーによる叙事詩『アレクサンドロスの書』が有名であるが,これは14世紀になってオスマン朝トルコのアフメディーの手でトルコ語に翻訳され,世界史の知識と教訓的な逸話を盛り込んだ詩編として中央アジア方面に伝えられた。モンゴルの英雄叙事詩『ゲセル・ハーン物語』は,こうして伝承された大王伝説の影響下に生まれたと考えられる。また,マレーの古典文学作品『スジャラ・ムラユ』(マラッカ王国の建国物語)においても,アレクサンドロスの事績が言及されている。
(月村辰雄)
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1. アレクサンドロス(Alexandros)
世界大百科事典
250ころ-328 アレクサンドリア主教(312-328)。319年ころキリストの真の神性を危うくするアリウスの教えに接し,321年ころアレクサンドリアの主教会
2. アレクサンドロス
日本国語大辞典
(Aleksandros )マケドニア王。フィリッポス二世の子。少年時代アリストテレスの教えを受け、二〇歳で王となる。ギリシア諸都市を平定した後ペルシアに遠征し
3. アレクサンドロス(Alexandros)
世界人名大辞典
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4. アレクサンドロス(Alexandros)
世界人名大辞典
31〕 モロッソイの王[前342/31].父はネオプトレモス(Neoptolemos).アレクサンドロス3世(大王)の母オリュンピアスの弟.少年時代をマケドニア
5. アレクサンドロス(アイトリアの)(Alexandros ho Aitōlos)
世界人名大辞典
〔ラ〕Alexander Aetolus〔前315頃~?〕 ギリシアの詩人,文法家.アイトリア地方に生まれる.いわゆるアレクサンドリアの〈悲劇詩人の七星(プレイ
6. アレクサンドロス(アフロディシアスの)(Alexandros Aphrodisieus)
世界人名大辞典
〔ラ〕Alexander Aphrodisiensis 2-3世紀のペリパトス派の哲学者.メッセナのアリストクレス(Aristoklēs)らに師事してアテナイで
7. アレクサンドロス(トラレスの)(Alexandros ho Trallianos)
世界人名大辞典
〔ラ〕Alexander Trallianus 6世紀の東ローマ帝国の医学者.リュディアのトラレス(Tralles)の人.古代の医学諸理論を互いに比較し,自己の
8. アレクサンドロス(マケドニア王)画像
日本大百科全書
フィリッポスはアレクサンドロスの天性を愛し、前343年、当時の最高の知識人アリストテレスを招いて、アレクサンドロスとその同年輩の貴族の少年たちを教育させた。後年
9. アレクサンドロス(古代ギリシアの哲学者)
日本大百科全書
生没年不詳。200年ごろのアリストテレス学者。数世紀にわたりもっとも権威あるアリストテレスの注釈家と考えられた。アリストテレスの『霊魂論』に従って、人間の知的能
10. アレクサンドロス[大王](Alexandros)
世界大百科事典
,憧憬を織りまぜた〈世界征服者アレクサンドロス〉の伝奇物語(アレクサンダー・ロマンス)を各地に成立させた。→ヘレニズム →マケドニア大牟田 章 アレクサンドロス
11. アレクサンドロス[百科マルチメディア]画像
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12. アレクサンドロス(アプロディシアスの)
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13. アレクサンドロス(イギリスの哲学者)
日本大百科全書
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14. アレクサンドロス1世(Alexandros I)
世界人名大辞典
〔ラ〕Alexander I マケドニア王[前495頃/52頃].父王アミュンタス(Amyntas)の政策を受け継いでアケメネス朝ペルシアに服属.ペルシア戦争で
15. アレクサンドロス3(大王)(Alexandros III (ho Megas))
世界人名大辞典
経て,セレウコス朝シリア,プトレマイオス朝エジプト,アンティゴノス朝マケドニアの3つの王国に継承された.アレクサンドロスの遠征はギリシアとオリエントの歴史を大き
16. アレクサンドロス4世(Alexandros IV)
世界人名大辞典
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17. アレクサンドロス大王
文庫クセジュ
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18. アレクサンドロス大王伝説
世界文学大事典
前4世紀後半にアジアに遠征したギリシャのアレクサンドロス大王をめぐり,世界各地に伝えられた英雄伝説。アレクサンドロス大王は死後直ちに伝説中の人物となり,その事績
19. アレクサンドロス大王の帝国[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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20. 『アレクサンドロス大王物語』
世界文学大事典
武勲詩の技法と騎士道物語の興趣をもってアレクサンドロスの事跡を記した,中世フランスの古代物語の一つ。12世紀以降,何人もの作者によって書き継がれ,書き換えられて
21. アレクサンドロス・ポリュイストル(Alexandros Polyistōr)
世界人名大辞典
〔ラ〕Alexander Polyhistor〔前105頃~40頃〕 ギリシアの著述家.ミレトスの生まれ.ヒュギヌス①の師.博学の故に〈ポリュイストル(博学者)
22. 『アレクサンドロス物語』
世界文学大事典
て王妃オリュンピアスを誘惑。アレクサンドロスの実父となる。一方エジプトでは,出国した王が将来若い姿で戻り,ペルシャを打ち破る,との神託が下る。のちアレクサンドロ
23. パパジアマンディス アレクサンドロス
世界文学大事典
ギリシャの作家。スキャソス島生まれ。司祭の子として厳格な宗教的環境の中で育つ。最初,歴史小説,冒険小説を書いたが,のちにはもっぱらギリシャの田舎の風景やそこの純
24. ランガヴィス アレクサンドロス・リゾス
世界文学大事典
ギリシャの詩人,文人。イスタンブル生まれ。ファナリオティス(ギリシャ系新興貴族層)の出身。ドイツの陸軍士官学校に学ぶ。ギリシャに戻ってから,大学教授,政府高官,
25. 偽カッリステネス
世界文学大事典
→ 『アレクサンドロス物語』
26. アイリアノス クラウディオス
世界文学大事典
41),アッシリア女王セミラミス(7.1),キュロスの愛妾アスパシアの一代記(12.1),アレクサンドロス大王の死をめぐる話(12.64),女傑アタランテ物語(
27. アウグストゥスの世紀 17ページ
文庫クセジュ
復讐のはずだった。しかし、この戦争はまた、数世紀来ローマ人の念頭から離れなかった大冒険、アレクサンドロス大王をインドの入口まで導いた凱旋行進を復活させるはずだっ
28. アウグストゥスの世紀 21ページ
文庫クセジュ
残ると思われる唯一の戦争は、遠征、それも英雄が名を馳せる新たな「トロイア戦争」だけだろう。ウェルギリウスもアレクサンドロス大王の夢を思い浮かべなかったとは考えら
29. アウグストゥスの世紀 26ページ
文庫クセジュ
。わずかな慰めとしては、アントニウスがメディア王と友好関係を保ち、クレオパトラ所生の実子アレクサンドロス・ヘリオスとメディア王女の婚約を成立させたことである。こ
30. アウグストゥスの世紀 53ページ
文庫クセジュ
ヘレニズム時代の征服者やアレクサンドロス大王のまねをした。アキレウスの栄光も、ホメロスが不朽のものとしなかったならば、はかないものであっただろうことを、アレクサ
31. アウグストゥスの世紀 61ページ
文庫クセジュ
官〕やメネラオス〔アガメムノンの弟、ヘレネの夫〕は、フィロポイメン〔アカイア同盟の長〕やアレクサンドロス大王同様、史実であった。ウェルギリウスの叙事詩は、これら
32. アウグストゥスの世紀 101ページ
文庫クセジュ
絶えず執拗に攻撃し、どんな反乱の企ても歓迎していた。カエサルの考えは、パルティアを降伏させて、アレクサンドロス大王の偉業を再開することだった。世論がアウグストゥ
33. アウグストゥスの世紀 104ページ
文庫クセジュ
こうすることによって、ローマは東方では、一つの文明を他の文明に置き換えることはしなかった。ギリシア化は、アレクサンドロス大王の時代に開始され、ヘレニズム諸国の王
34. アウグストゥスの世紀 125ページ
文庫クセジュ
アルキロコス(前7世紀中頃) 95 アルミニウス 147 アレクサンドロス大王(前356~前323年) 27, 32, 74, 86, 136, 139 アレク
35. アギス3世(Agis III)
世界人名大辞典
ダモス3世の子.マケドニアの支配を拒否してコリントス同盟には参加せず,外交的孤立を貫く.アレクサンドロス3世(大王)が東方遠征を始めると,ペルシア人提督から船と
36. アクシオニコス
世界文学大事典
アリストパネスなどの古喜劇とメナンドロスなどの新喜劇の間に位置する,いわゆる中期喜劇の作者。現存断片に,アレクサンドロス大王麾下の将軍の関係者の名が見られるため
37. アケメネス朝
世界大百科事典
めぐる争いがおこり,王統は傍系のダレイオス1世に移った。約200年にわたる帝国支配ののち,アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。アケメネス朝に対する回想はその
38. アケメネス‐ちょう[‥テウ]【─朝】
日本国語大辞典
立してペルシア帝国を築く。ダレイオス一世の時に、勢力はほぼ全オリエントに及ぶ。前三三一年アレクサンドロス大王に滅ぼされた。アケメネスチョー
39. アスカロン
日本大百科全書
有名であったが、エジプト、アッシリア、バビロニアの侵入を受けることが多く、前332年にはアレクサンドロス大王にも占領された。ユダヤのヘロデ大王の出生地とされてい
40. アストランプシュコス
世界文学大事典
古代ギリシャの占術家。アレクサンドロス大王以前にこの名のペルシャの高名なマゴス僧がいたことはディオゲネス・ラエルティオスの記述からうかがえる。しかし彼の名で伝わ
41. アゼルバイジャン
日本大百科全書
滅ぼしたが、前6世紀にはアケメネス朝ペルシアがこの地域全体を征服した。前4世紀ペルシアがアレクサンドロス大王に倒されたあと、この地域にアトロパテン(火の国)とい
42. アタナシウス
日本大百科全書
古代キリスト教会の教父。アレクサンドリアの司教。聖人。325年ニカイア公会議には助祭として司教アレクサンドロスAlexandros(250ころ―328)に随行し
43. アタナシオス(Athanasios)
世界大百科事典
守ったアレクサンドリア主教(328-373)。若くしてアレクサンドリア主教アレクサンドロスの秘書となり,ニカエア公会議に参加。328年,アレクサンドロスの死にと
44. アダナ
日本大百科全書
ルコ領となった。市内には2世紀につくられた石造橋などの遺跡がある。東75キロメートルに、アレクサンドロス大王がペルシアのダリウス3世を破ったイッソスの戦いの跡が
45. アッリアノス フラウィオス
世界文学大事典
経たのち,故郷に引退,その地で没した。 普通『アナバシス』Anabasis(7巻)の題で伝わる書は,アレクサンドロス大王の即位から死に至るまでを,遠征を中心に描
46. アテネ画像
世界大百科事典
いる。総じて,ギリシア古典文化はポリスの産物であった。 ヘレニズム時代以後 前323年,アレクサンドロスが死去すると,アテナイは他のギリシア諸市とともにマケドニ
47. アテネ(ポリス)
日本大百科全書
ろう。それは奴隷制社会と規定してよい社会であった。太田秀通ヘレニズム時代以後マケドニアのアレクサンドロス大王による征服以来、ギリシア人は多数マケドニア人とともに
48. アナクサルコス(Anaxarchos)
世界人名大辞典
オゲネス(Diogenēs)やキオスのメトロドロスに学んでデモクリトス流の原子論を唱え,アレクサンドロス3世(大王)の宮廷に伺候して東征にも随行した.大王の死後
49. アバイ・クナンバーエフ
世界文学大事典
1886),『冬』Зима(88),『秋』Осень(89),『春』Весна(90),アレクサンドロス大王をテーマにした叙事詩『イスカンデル』Искандер
50. アフガニスタン画像
世界大百科事典
なすアム・ダリヤなどがある。ヒンドゥークシュ山脈を南北に越えるおもな峠としては,カーブル寄りには,アレクサンドロス大王や玄奘が通ったハーワークKhāwak峠(3
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ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
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