うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第三回 ありがたきもの

2011.07.12

めったにないもの――軽妙な筆の間に光る涙

 まず、「ありがたきもの」ということばの意味が現代の使われ方とはちがうことを、しっかりと頭に入れておこう。
 この時代の「ありがたし」は、文字どおり「()(がた)し」で、存在することがむつかしい、というのが原義である。つまり、なかなかありそうにない、めったにないという意味なのである。
 (しゆうと)にほめられる婿(むこ)さんがめったにない、というのは、男が女の(もと)に通うという、当時の一般の結婚風習から考えてみると、よくわかることである。同性は同性に反発するのが、世の常。夜な夜な(まな)(むすめ)のところに通ってくる男をチェックする男親の目は、当然、きびしいものだったろう。
 ほめられる婿さんなんて、()()だったはずだ。
 男と女が深い仲になった後、女が男の家に住むこともあった。こうなるとまた、女どうしの反発がはじまり、(しゆうとめ)に愛される嫁さんが希少価値的存在ということになる。
 舅にほめられる婿、姑にかわいがられる嫁。それがなかなかありそうもないのは、現代だってまったく同様だ。この人間関係のむつかしさをキッパリ言い切った清女の筆は、あざやかである。
 その次に急に出てくるのが、銀の毛抜きとなると、おや、と思ってしまう。
 だが、ここもまた、清女の筆の巧みさなのだ。人間関係ばかり続くと、人間くさくて、重くなりすぎる。
 そこでパッと銀の毛抜き。人から物に変わっておもしろいし、銀色の光も目に映えるようで、文に立体的な彫りも出てくる。
 「考えてみれば、人間も毛抜きもおなじかも。銀の毛抜きは、きれいで作りも凝っているけど、毛はよく抜けないもんね。鉄の毛抜きのほうは実用的だけど、()()がわるいし……」
 外見も内容もいいってことは、ほんとうにむつかしいこと。と、清女は言いたいのだ。人間だって、そう。こちらのメガネにぴったりかなう相手なんて、そうそういないのよ。お舅さんだって、お姑さんだって、無理は言いっこなし。こう(つな)がるのだ。
 そして、毛抜きは、主人のわる口を言う家来にも微妙に(つな)がっていく。ご主人だって、完璧な人はいない。家来だっておなじ。だから、主人のわる口は、格好のストレス解消になるのだ。
 まったく(くせ)のない人もめったにいない。無くて七癖というもの。まったく癖のない人間がいたら、かえって不気味なのではなかろうか、と、清女は書きたいくらいだろう。
 容貌も心も、人にすぐれてすばらしく、長い人づきあいの間でも、まったくボロを出さない人も、めったにいやしない。
 女どうしのつきあいでも、このことは言える。おなじ局のおなじ部屋に住む女房が、おたがいに尊敬を忘れず、まったくすきを見せないようにと神経を使いつづけ、最後の最後まで、すきを見せない―そんな間柄なんて、これも、めったにない。そんな間柄があったとしたら、心底疲れるだろうなあ、という(こう)(ふん)も感じられる筆だ。
 そこで、読む人を疲れさせないためにも、筆はまた人から物に、ふっと移る。銀の毛抜きとおなじ手法だ。
 物語や歌集を、もとの本から書き写すとき、その本に墨をつけない、ということも、めったにない。なにしろ、人から借りてきた大事な本だ。紙も()じようも凝った美しい本などの場合、汚すまい、汚すまいと緊張すればするほど、かえってかならずといっていいほど、墨で汚してしまうのは、なぜだろう。
 さて、男女の仲についても、最後まで愛をまっとうして、いささかの汚点もないすてきな本のような仲があろうか。
 いや、このことについては、私はもういまさら言いたくはない。言うもおろか、そんな仲など、この世には存在しないもの。あちこちに墨がべったりつき、中には紙も破れ、綴じ目もバラバラという本がいっぱい―ああ、もう、それ以上は言いたくない。男女の仲を見つめる、清女の目はさめきっている。
 女どうしの仲についても、「いつまでも、この友情をつづけましょうね」と、おたがいにかたく約束しあっていても、そのことばどおり、最後まで結ばれあっている仲よし、というのもめったにない。
 と、清女はここで、女性どうしの信頼に繋がれた愛についても、一応悲観的である。
 だが、彼女の心の奥底には、このむつかしい、稀有の女どうしの愛をつらぬいてみせたい、という、かたい志があった、と、私は思いたい。
 「かかる人こそは世におはしましけれ」と、初宮仕えの日に仰ぎ見た中宮様への敬慕の思いは、終生ゆるがなかったはずだ。
 この最後の行に、清女がこめた悲願のようなものを、私たちは()みとりたい。
 人間関係ってこんなもの、と、わりきって、サバサバ書いたように見えるこの章の最後には、彼女の涙もキラリと光っているのだ。

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