神前に奏される歌舞。神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは神遊(かみあそび)とも称した。神楽の語源は、神座(かむくら)の約音とするのが定説である。神楽の起源説話として有名なのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あめのいわと)に隠れたとき、天岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして舞ったとする伝承(『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』)であるが、これは天鈿女命の子孫の猿女(さるめ)が行った鎮魂術の本縁で、猿女は宮中の鎮魂祭の呪術(じゅじゅつ)をつかさどった氏族である。鎮魂祭は毎年新嘗(にいなめ)祭の前日(11月寅(とら)の日)に行われた。
神楽は宮中の御神楽(みかぐら)すなわち内侍所御神楽(ないしどころのみかぐら)と、民間に行われる里神楽に大別される。
宮中の内侍所御神楽は、天皇即位の辰(たつ)・巳(み)の夜に催される清暑堂の御神楽や、鎮魂祭、園并韓神(そのならびからかみ)祭の神楽、賀茂臨時祭還立(かえりだち)の神楽(勅使が宮中に帰参して催す神楽)、石清水八幡(いわしみずはちまん)臨時祭の神楽などの古神楽が母胎となり、整理、統一されたものである。内侍所は宮中の温明殿賢所(うんめいでんかしこどころ)の別名で、三種の神器の一つである神鏡を奉安し、内侍(女官)がこれを守護したところである。御神楽の創始は、一条(いちじょう)天皇の長保(ちょうほう)4年(1002)とも寛弘(かんこう)2年(1005)とも伝えられているが、初めは隔年、のちに毎年12月の恒例行事となった。12月恒例の神楽に対し、夏や秋にも行われ、夏神楽、秋神楽とよばれた。1281年(弘安4)の弘安(こうあん)の役には異賊征討の祈願による臨時神楽が催され、室町時代には天皇の病気平癒の祈祷(きとう)のため、あるいはその願果たしの臨時神楽などもあった。これらの臨時神楽はしばしば三夜に及ぶこともあった。内侍所御神楽は結局のところ天皇の鎮魂を目的としたもので、その意味で祈祷性、神事性の濃いものであったが、芸能内容は、神楽歌を歌うことが主体となっていた。12月の吉日を選び、公卿(くぎょう)・殿上人(てんじょうびと)・地下(じげ)が召され、雅楽寮の楽人(がくにん)も加わって夜通し行われた。明治以後は楽部の楽人のみで奉仕するようになった。
今日でも御神楽は簡略化されてはいるが、毎年12月中旬、宮中の賢所の庭上に庭燎(にわび)を焚(た)いて行われている。内侍所に天皇が出御されると、人長(にんじょう)(楽人長)の統率のもとに神楽が始まる。庭燎を正面として、向かって左方に本方(もとかた)、右方に末方(すえかた)の楽人たちが座につく。笏拍子(しゃくびょうし)、笛、篳篥(ひちりき)、和琴(わごん)の伴奏にあわせて神楽歌を歌う。まず試楽にあたる人長式(庭燎・阿知女作法(あちめのわざ))があり、次に採物(とりもの)、大前張(おおさいばり)、小前張、雑歌(ぞうか)の4部からなる次第が奏される。採物は、舞うときに手に採る物の意で、本来は神座である。榊(さかき)、幣(みてぐら)、杖(つえ)、篠(ささ)、弓、剣(つるぎ)、鉾(ほこ)、杓(ひさご)、葛(かずら)の9種があり、これら採物にちなむ歌や神徳を賛美する歌が歌われる。今日では榊の歌を選んで歌う。次に「韓神(からかみ)」の歌があり、このとき人長が輪をつけた榊の枝を持って庭燎の前に進み出て、庭燎にこれをかざすようにして舞う。次に中入りになり、酒宴となる。平安時代には倭舞(やまとまい)が舞われたり、才(ざい)の男(おのこ)による滑稽(こっけい)な芸(陪従(べいじゅう)による即興的な散楽(さんがく))などが行われた。中入りのあと、大前張の部(宮人(みやびと)・難波潟(なにわがた)など)、小前張の部(薦枕(こもまくら)・閑野(しずや)など)、雑歌(ぞうか)の部(千歳(せんざい)・早歌(そうか)・朝倉(あさくら)・其駒(そのこま)など)の順に、御神楽成立当時の民謡から出た神楽歌が歌われる。「其駒」のときにも人長が出て、「韓神」と同様に榊の枝をとって舞う。神楽が終わると、人長は採物として舞った榊の枝と輪を天皇に献上する。
宮中の御神楽に対して、民間で奏される神楽をいう。古くは石清水、賀茂(かも)、祇園(ぎおん)、北野(きたの)、大原野(おおはらの)、春日(かすが)、住吉(すみよし)などの諸社において、宮廷の楽人が奏した神楽も里神楽と称した。民間の神楽は全国各地に分布し多種多様であるが、里神楽の語は東京を中心に関東地方の出雲流(いずもりゅう)神楽に用いられている。民間の神楽はその形態のうえから、巫女(みこ)神楽、出雲流神楽、伊勢流(いせりゅう)神楽、獅子(しし)神楽の4種に分類されている。
(1)巫女神楽 神に仕える巫女が舞う。単に巫女舞ともいう。もとは巫女が神がかりする前に舞う清めの舞が洗練され様式化したもの。手に鈴、扇あるいは榊の枝などを持ち、順めぐり・逆めぐりに旋回して舞う。石清水八幡宮、住吉・伊勢・出雲などの諸大社に伝来する巫女舞は、社頭の祈願や奉納の舞として舞われ、神がかりによる巫女の託宣を伝える所はまれであるが、秋田県の保呂羽山(ほろわさん)霜月神楽などに形式的に残る。
(2)出雲流神楽 島根県松江市佐太(さだ)神社の七座の採物舞と神能(しんのう)(仮面の舞)に代表される神楽。佐太の御座(ござ)替え祭の七座の神事は、剣舞(けんまい)、清目(きよめ)、散供(さんぐ)、御座、勧請(かんじょう)、祝詞(のりと)、手草(たぐさ)の7曲からなる素面の採物舞で、神事性の濃いもの。これに対して神能は、神話や神社の縁起を能風に仕組んだ余興的な仮面の舞である。この採物舞と仮面の舞とをあわせて演じる神楽は全国各地に広まっており、地方色をもって行われている。中国地方の大元(おおもと)神楽、荒神(こうじん)神楽、九州の岩戸神楽、夜(よ)神楽、中部・関東地方の太々(だいだい)神楽など。とくに岩戸開きや大蛇(おろち)退治などの曲はもっともポピュラーな曲として知られている。太々神楽は、神楽を奉納するときの報賽(ほうさい)(神楽料)の大小により、小・大・大々などの等級を設けた区別の名称で、のちには奉納神楽の美称ともなった。もと伊勢の奉納神楽に始まったが、いち早く諸方に取り入れられた。内容的には出雲流神楽であることが多い。関東の里神楽は採物の舞や神歌を省略し、能風の黙劇を演じている。
(3)伊勢流神楽 伊勢神宮に行われた湯立(ゆだて)神楽に代表される神楽。湯立は湯釜(ゆがま)に湯をたぎらせ、その湯を振りかけることによって穢(けがれ)を祓(はら)い清める呪法であるが、神楽のなかに取り入れられて祈祷化された。伊勢のものは明治維新のおりに絶えたが、湯立を中心にした神楽は全国的に広く流布している。奥羽では霜月神楽の名でよばれ、秋田県横手市大森町保呂羽山とその周辺に行われる。湯立と湯清めの舞が主で、余興的な芸能の要素は少ない。一方、愛知・長野・静岡県下山間部の花祭、冬祭、遠山祭、お潔(きよ)め祭などでは、湯立を中心に、翁(おきな)、鬼、山の神、獅子(しし)、道化など仮面をつけた者が登場して古風な能を演じる。
(4)獅子神楽 権現(ごんげん)としての獅子頭(がしら)を回しながら悪魔祓い、火伏せや息災延命を祈祷する神楽。奥羽地方の山伏神楽、番楽(ばんがく)や伊勢の太(だい)神楽など。山伏神楽の名はもと山伏修験(しゅげん)が携わったところから出ているが、いまは民間の神楽組によって伝承されている。太平洋側では山伏神楽、権現舞(ごんげんまい)、能舞(のうまい)、日本海側では番楽、獅子舞の名でよばれる。獅子を回すだけでなく一種の能も演じる。伊勢の太神楽は伊勢のお祓いと称して各地を巡回し、散楽風な曲芸や狂言を演じた。現在、全国的に分布する二人立ての獅子舞の多くはこの太神楽の系統である。
これらの神楽の担い手は明治以前、山伏修験の徒や神職、巫女などであったが、明治以後は民間の者も携わるようになった。神仏混淆(こんこう)が著しい古風な神楽になると、舞処には種々の切紙飾りを下げ、天井の中央に白蓋(びゃっかい)、玉蓋(ぎょっかい)、大乗(だいじょう)、くもなどとよぶ一種の天蓋(てんがい)を下げる。島根県の大元(おおもと)神楽のように、これを揺り動かす作法や神がかりの古儀を伝える所もある。
神楽は人間の長命を祈る鎮魂の行事であるが、死者の霊や祖霊を祭る要素も残っている。秋田県保呂羽(ほろは)山の周辺に行われた御霊(みたま)祭・後生(ごしょう)神楽・菩提(ぼだい)神楽や、大分県中津市の植野神楽での年回神楽などである。出雲、伊勢、獅子の各流に行われる仮面の舞には、能が大成される以前の古い形式が残っており、芸能史的にも貴重である。
神前で神をまつるために演じられる神事芸能で,奏楽,唱歌,舞踊,演劇などさまざまな芸態がある。〈かぐら〉というよみ方については,神座(かむくら)の音韻転化とする説(折口信夫)が定説化している。神楽の字の用例は《万葉集》の諸歌に〈神楽波(ささなみ)の滋賀〉などとあり,〈ささ〉とよむこともあった。これには鎮魂の呪具たる採物(とりもの)の笹の葉ずれの音(本居宣長)とか,鈴の音(本田安次)などの説があるが,神事芸能を内容とする初見は807年(大同2)撰の《古語拾遺》の〈猨女(さるめ)君氏,供神楽之事〉である。しかし神楽の文字が使われ出すのは石清水(いわしみず)八幡宮の初卯の神楽や,賀茂神社臨時祭の還立(かえりだち)の神楽のように9世紀末から10世紀初頭にかけてである。宮中では先行神事芸能としての琴歌神宴が行われており,10世紀に入って御遊(ぎよゆう)ないし御神楽(みかぐら)が清暑堂において行われ,1002年(長保4)に内侍所(ないしどころ)御神楽が成立した。この宮中における神楽については〈御神楽〉の項目を参照されたい。
神楽は本質的には招魂の鎮魂(たましずめ)作法であり,歌舞を演ずる楽(あそび)の形式をとった。神遊(かみあそび)の歌(《古今集》)の用例もあり神楽を〈かみあそび〉(《神楽歌考》)と呼んだ可能性もある。招魂思想には天の岩屋戸(あまのいわやど)神話の天鈿女命(あめのうずめのみこと)の作法(わざ)を唱導した猿女氏のもの,平安以降宮中鎮魂祭の主体となった天饒速日命(あめのにぎはやびのみこと)の降臨神話による物部氏のもの,神功皇后の新羅攻めの説話にちなむ阿度部磯良(あどべのいそら)の安曇(あずみ)氏のものなどがあるが,内侍所御神楽の基本となったのは石清水八幡宮を経た八幡系の安曇氏の鎮魂作法だったようである。
→神楽歌
御神楽以外の民間の神楽を里神楽と総称するが,別して江戸で発達した神楽を1874年(明治7)から郷(里)神楽と呼ぶようになった。民間の神楽は全国津々浦々に散在し,おびただしい数にのぼる。そしてあたかも猿(猨)女君氏の唱導であるかのように岩戸神楽や神代神楽の名を冠するものが多い。しかしなお民間の神楽には踏鎮めによる悪霊の鎮魂作法をもつ修験道の参画をみたものが少なくない。こうして民間の神楽は複雑になり,西角井正慶,本田安次,三隅治雄らによってそれぞれ分類法が示された。それらを統合して考えると,巫女神楽,採物神楽,能神楽,湯立神楽,獅子神楽に大別されよう。
(1)巫女は舞による神懸りで託宣に及ぶもので,天鈿女命にその原型を見るが,今日の巫女舞は静かで優雅な舞が多い。春日大社の社伝の神楽,美保神社の朝神楽・夕神楽の巫女舞などが代表的なものである。(2)採物神楽と能神楽は対になっている場合が多く,その最も古い典型が出雲の佐陀(さだ)神社の七座の神事と神能(佐陀神能)で,この形式のものを出雲流と呼び,中世末から近世初頭の初発である。この流派が最も広く分布しているが,高千穂神楽では採物神楽に傾き,江戸の里神楽では神話のことごとくを黙劇に仕組むというように能に傾いている。(3)湯立神楽は神聖な湯花に触れて祝福を得ようとするもので,伊勢神宮外宮(げくう)の御師(おし)と呼ぶ外勤神職団によって広められ,伊勢流と呼ばれているが,今は伊勢になく,秋田県横手市の保呂羽山波宇志別神社の霜月神楽や愛知県の花祭などに残されている。湯釜をすえて神々を勧請(かんじよう)し,数々の潔(きよ)めの舞を舞い,ときには見物人に湯花を振りかけるのである。(4)獅子神楽は獅子頭(ししがしら)を権現(神の仮託した姿)とあがめ,潔め鎮(しず)めの獅子舞を舞わせたのち,数々の余興を演ずる。岩手県の山伏神楽などでは能楽大成以前と目されるような古風な能舞や狂言を演じ,伊勢大神楽などのいわゆる太(だい)神楽では散楽系の曲芸や滑稽を演じてみせる。太々(だいだい)神楽,代々神楽の名称には規模の大きさ,美称,代参(信者講中の参加者による)などさまざまな意味が含まれている。
神楽人は本来神職が演じることが多かったが,明治維新以後は在来の神事舞太夫の列に加わって民間人が演じているところが多い。神楽の舞台は拝殿,神楽殿などのほか仮設の舞台,民家の座敷・土間などさまざまであるが,出雲流の岡山県の備中神楽や広島県の備後神楽では神殿(こうどの)と呼ぶ特設の舞処を設け,天蓋(てんがい)飾をつける。天蓋飾は高千穂神楽や花祭にも顕著で,陰陽道,修験道の影響を色濃く宿している。
→神楽面
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