第14回 嵐は「夜」に吹くのか、「夜半(よわ)」に吹くのか?─親鸞歌の謎─ |
浄土真宗の開祖親鸞が慈円(後の天台座主(ざす))の寺坊で出家した折りに詠んだとされる有名な歌がある。
明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹(ふか)ぬものかは
という歌である。出典は『親鸞聖人絵詞伝』で、この本の成立自体は寛政12年(1800年)と比較的新しい。
『日国』では「あすありとおもう」「あだざくら」の2項目で『親鸞聖人絵詞伝』のこの歌を引用している。これについて読者から自分が記憶している歌と少し違う部分があるのだがなぜかという質問を受けた。『日国』で引用した歌は以下のようになっている。
あすありと思ふ心のあだ桜 夜(よる)は嵐の 吹(ふか)ぬものかは
つまり、「夜半(よわ)に」が『日国』では「夜(よる)は」になっているのだ。
『日国』では、用例文はすべて底本に当たった上で採録しているのだが、確認ミスの可能性も否定できない。そこで、同書の底本とした享和元年(1801)刊の板本(実際に使用したのは弘化3年(1846)版)を改めて確認してみた。すると、間違いなく「夜は嵐の吹ぬものかは」となっている。念のために同書の活字本である、「大日本風教叢書 第3輯」(1918年)を確認してみる。すると、そちらも「夜は嵐の」となっているではないか。「夜半」は「夜中」の意味なので、「夜半」でも「夜」でも意味的にはあまり違いはないのだが、歌では1文字でも異なると違いは大きい。ところが手元の国語辞典やことわざ辞典を見てもすべて「夜半に」になっていて、「夜は」としているものは皆無である。
なぜこのような違いが生じたのか。
その謎を解く鍵は『日国』の同じ「あすありとおもう」の項目で引用している、歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)』(1856年初演)にあるのではないかとにらんでいる。『蔦紅葉宇都谷峠』と聞いてピンと来ない方も、通称「文彌(ぶんや)殺し」と言えばおわかりいただけるのではないだろうか。その例とは
「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半(よわ)の暴風(あらし)もこの身にあたる私へ、お経文をお授け下さるとは有難い結縁と存じまする」
というものである。ここでは「夜」ではなく「夜半」になっている。たびたび上演され人口に膾炙(かいしゃ)した歌舞伎の台詞が、元来「夜」だった親鸞の歌を「夜半」に変えてしまったのではないか。あくまでも推測の域を出ないのだが、その辺の事情をご存じの方がいらっしゃったら、ぜひご教示いただきたい。