第5回 「辞書"力"」は辞書の見出しとして登録できるか? |
やや下火になってきたものの、依然として「○○力」という、接尾語的に「力」を付け加えたことばをよく見かける。先日の衆議院選挙でも、ある政党が「責任力」という語を使っていた。確かに「力」を付けると、何となく主体的、積極的な面をアピールするという効果はあるのかもしれない。しかし、「責任」と「力」という組み合わせに対する違和感は、最後まで無くならなかった。“力”を入れないと責任は果たせないということだったのだろうか、なんて思ったりもしたものだ。
「○○力」ということばが広まったのは、10年ほど前に刊行された赤瀬川原平氏の『老人力』以降のことのようだが、昔から「○○力」ということばがなかったわけではない。
『日国』にも「○力」「○○力」ということばは数多く登録されている。ちなみに、「ジャパンナレッジ」の『日本国語大辞典』の個別検索で、
検索語:「力」/範囲:見出し/条件:後方一致
AND
検索語:「りょく」/範囲:見出し/ 条件:部分一致
で検索してみると 513件の「○力」「○○力」が見つかる。物理学用語も多数含まれているのだが、それはそれでけっこう面白い。
たとえば、これは筆者個人の語感かもしれないが、「勉強力」などという語は、「責任力」並みとは言わないまでも、組み合わせがちょっと不自然に感じられる語のひとつである。2つある用例がどちらも日本人が西欧の学問を必死になって「勉強」した明治期の用例(『花柳春話』『舞姫』)だというところが象徴的である。もちろんこの語は現在も教育の現場や書名などでよく見かける語だが、「勉強」自体に努力して困難に立ち向かうといった意味があるので、屋上屋を架した語のような気がしてならない。筆者自身に「勉強・力」がないのでそう思うだけなのかもしれないが。
『日国』には載っていないのだが、やはり教育の現場や書名などで「辞書力」ということばをしばしば目にする。この語が使われるのはもっぱら外国語の辞典に対してであるところも興味深いのだが、「辞書力」っていったいどのような意味なのだろうか。「辞書」が本来持っている力? それは、語彙数のこと? それとも語釈のわかりやすさ? 詳しさ? それなら『日国』は手前味噌ながら多少は自信がある。辞書が世の中に及ぼす影響力? まったく無いとは言えないが、でもそれほど自慢できるものではなさそうだ。辞書を早く引く能力? まさかそんなことはないであろう。この語で表現しようとしている内容はもちろんわかっているのだが、ついよけいなことを言ってみたくなる。
辞書は言語現象の後追いしかできないので、「力」語が文学作品や評論、新聞記事などに多く登場していると確認できれば、見出し語として登録せざるを得なくなる。しかし、「力」語の氾濫を見るに付け、できればそのような語を追いかけることに“力”を注ぎたくはないと思うのである。