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2006年07月

JKボイス-私はこう使っています:ジャパンナレッジ なぜ“数え方”にこだわるのか

飯田 朝子さん
(いいだあさこ)
中央大学助教授
今回登場いただいたのは、ものの名称から数え方を引くことができる、画期的な辞典「数え方の辞典」(小学館・刊)の著者・飯田朝子さん。ジャパンナレッジに6月19日に登場した新コーナー「日本語力を鍛える」では飯田さんの数え方(助数詞)に関するコラム集の公開を開始しました。なぜ“数え方”にこだわるのか。日本語の面白さに目覚めたきっかけから、辞典誕生に至る秘話までを存分にお聞きした。

「日本語の面白さに気づいた落語体験」

 高校では落語研究会に入っていました。単に面白そうだなという軽い気持ちからです。前座名は「三流亭ちどり」といいます(笑)。落語は、それまで祖父や祖母と一緒にテレビでたまに楽しんでいた程度でした。ところが、落研というのは、落語を見るんじゃなくて、演じるところだったのです(笑)。演じるということは、つまり話者として自分で何人も違う人物を演じ分けなくてはいけない。それには江戸時代の言葉使いや作法や習慣なども知らなくてはいけないし、着物の着付けも自分でやらなくてはいけない。つまり、大げさにいうと江戸の文化を学ばなければ落語は演じられないわけです。この体験は、結果的に私にとって大きな意義がありました。

 数え方に関する印象深い思い出がこの落研時代にあります。落語に「位牌屋」という噺があるのですが、このなかに位牌の数え方が出てくるんですよ。位牌って、一柱(ひとはしら)二柱と数えるんです。当時は高校生ですから、とくに数え方に興味があったわけではありません。ですが、位牌のように細長いものをどうして「1本、2本」じゃなくて、「柱」と数えるのだろうと疑問に思い、当時国語辞典を引いて調べたのを覚えています。そうしたら、「柱」は、おもに神や神体や神像、遺骨などを数える助数詞で、魂が宿るもの、尊いものの数え方だと出ていて驚きました。日本語の奥深さの一端を知った思いでした。

 また、落語に出てくる単位はいわゆる尺貫法ですよね。例えば、何貫の荷物だと何キロの重さがあるのか分からないとその重さの演技というか仕草ができないわけです。だから演じるには、尺貫法も体感しなくちゃいけない。「時そば」に出てきますが時間の単位もそうです。それまで日常生活では尺貫法でものを考えたことなんかなかったですからね。高校生が戸惑うのも仕方ありません。このように落語には日本語の数え方だけでなく、単位や文化がぎゅっとつまっていることに気がついたのです。

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ジャパンナレッジ「数え方の辞典」の「位牌」項目

「数え方に着目したきっかけ」

 大学院生だった10年ほど前、まだPCが今のように普及していない時代のことです。文学部の共有パソコンを操作していたら、突然、隣でPCを操作している方に声を掛けられたんですよ。その方が中国からの留学生で、私に尋ねたのが日本語の数え方についてでした。その方が疑問に思ったのは、1本2本の「本」ってなんだろう? ということでした。電車の1本と柔道の1本とビールの「1本」は同じですか? こんなこと、考えたことありますか? 日本語を母語とする人なら、まずないと思います。日本語の助数詞では、細長いものは「本」と数えるといいながら、細長くないものも「本」と数える例が実際あるわけです。外国人の方に、私たちが普段使い分けている言葉に対する自分の直感や認識がいかにあやふやで、客観的な説明が難しいものなのかを教えられました。そのときですね、日本語の数え方が出ている辞典があったらいいのになって思ったのは。だから、「数え方の辞典」はじつは私が一番欲しかった辞典なんです。誰か作って下さい、と待っていたのですが、待ってても誰も作ってくれないので、待ちくたびれて自分で作っちゃいました(笑)。

「日本と中国、同じ数だけある数え方の不思議」

 日本語の数え方って、何種類くらいあるかご存知ですか? 最初は漠然と200か300くらいかなと予想していましたが、最終的に辞典にまとまったときに数えたら500ありました。じつは中国語には数え方辞典が存在しているのですが(日本でいう助数詞を中国語では「量詞」と呼びます)、これにも数え方が約500あるんです。偶然か必然かわかりませんが、もしかしたら人間の頭の中で使い分けられる数え方の限界が500なのかもしれません。中国語の数え方と日本語の数え方は3割くらいが似ています。もともと中国から日本に伝わった数え方もありますからね。中国の留学生の方に聞くと、似て非なるものが気になるみたいですね。例えば、日本では鳥を「1羽(わ)2羽」と数えますが、「羽」というのは、中国では文字通り「ハネ」を数えるときの言葉で、「1羽の鳥」というのは、「羽が1本しか生えてない鳥」の意味になるそうです(笑)。逆に日本人が中国語の数え方を引いたら、同じように疑問に感じる数え方に突き当たる可能性も十分にありますよね。

「数え方を通して世界を見る」

 英語の数え方は、基本的に「複数形」を持っている言語なのでそう多くはありません。ユニークな例では、キリンの群れを<a tower of giraffe>と表したり、ライオンの群れを<a pride of lion>と表わしたりします。なかなか面白い表現ですよね。また、「情報」<inspanation>という言葉を使って「私はふたつの情報を持っている」という英作文を学生に出題すると、だいたいが「two inspanations」と書きます。そんなときには、<two pieces of inspanation>が正解で、<inspanations>という複数形はないんですよ、と学生に教えるわけですが、でも、なんでpieceなんだろうって教師である私自身考え込んでしまいます。英語圏の方に尋ねると、pieceはたとえて言うならシグソーパズルの一部分、まさに1ピースで、それらが合わさると物事の全体像が見えてくる、そんなイメージなのだそうです。同様に、「家具」<furniture>という語も複数形がありません。これも、家具それぞれが部屋に収まった完成形がジグソーパズルの絵だとすると、やはり単体の家具はその一部分なのです。彼らは物理的に複数形にできないものを、そういったpieceという言葉を使いながら、概念を捉えているわけです。

 最近、様々な国々の言語を研究している方々とお会いする機会がありました。そのときに、数え方が発達する言語の分布でみると、稲作文化の発達した国が豊富な数え方表現を持っているという説を聞きました。数え方表現の豊富さと稲作文化の分布図が地理的に一致するというわけです。稲作文化ということで、とくに東南アジアが盛んですよね。だから、ベトナム、インドネシア、タイといった国々には豊富な数え方表現があるようです。興味深いのは、アジアから続いてネパールまであった数え方文化が、稲作地域の終わりと地理的に歩調をあわせるように途絶えるという事実です。とても面白い現象だと思いました。稲作文化と数え方文化には、なにか因果関係があるんじゃないかと推理できますね。

 ネパールといえば、そのそばにネワール人たちが住む地域(カトマンズ盆地)があって、ネワール語というのがあるのですが、その研究をされている方に面白いお話をお聞きしました。ネワール語は、数え方表現が発達していて、例えば「動くもの」用の数え方があるんだそうです。だからネワール語では、人間も動物も虫もバクテリアも動くので同じ数え方をするらしいですよ。そこから派生して、人間の形をした人形も「動くもの」の一種として数えるそうです。この人形もいつか動くかもしれないということなのかな(笑)。それからネワール語では、レンガとパンが同じ数え方らしいんです。これは、「同じような形をしているからですか?」と聞きましたら、そうではなく、どちらも「焼いて作るもの」だからとのことでした。この発想にはびっくりしました。ほんと言葉や文化の基準によって、ずいぶん数え方表現も違うんだなと驚嘆しました。私は最近、世界のいろんな言語を研究している方々ともっとお話する機会があるといいなとよく考えるんですよ。「数え方学会」というと偉そうですが、「世界数え方研究会」みたいなことができたらいいなと夢想しています。きっと、それらの国々ならではのユニークな数え方と、そこにある独自の文化的な背景が見えてくると思うんですよ。

「大好きな相撲の世界と日本語表現の懐の深さ(?)」

 私は大の相撲ファン。これは、相撲好きだった祖母の影響です。私が幼稚園くらいのころは北の湖、輪島の全盛期でした。祖母のご贔屓は、強すぎる横綱より、先代の貴乃花、黒姫山、鷲羽山といった個性的な力士たちでした。テレビ観戦しながら、祖母に「ほら、いまマワシを取ったでしょ」とか、ポイントを教えてもらいながら、相撲の楽しみ方を知らず知らずのうちに覚えていった感じです。その後の若貴ブームのときは、むしろ相撲とは離れていたのですが、大学院生時代に国技館で生の大相撲を見てからですね、夢中になったのは。相撲取りや行司の流れるような所作や力士の肉のぶつかる音、相撲の神様がそこにいるような神聖な感覚と格闘技的な迫力が溶け合って、テレビでは味わうことができない、生きた相撲の強さと美しさに魅了されました。

 相撲を見ていると、さきほどの落語と同じように日本語の奥深さや日本文化について、いろいろ楽しい発見があります。相撲表現のなかで、私たちが普段使う日本語に定着したものが結構ありますよね。「痛み分け」、「懐が深い」、「土が付く」などがいい例です。「痛み分け」は、いまは双方が傷を負って引き分けみたいな意味ですが、もともとはどちらかの力士が傷を負い、血を流すことで不浄となったので、取り組みをやめることを意味していて、決して引き分けるという意味はありませんでした。「懐が深い」も一般用語としては良いイメージの言葉ですよね。度量が大きくて、心が広い人物という意味で使われていますが、相撲の世界ではむしろ「イヤな力士」という意味だそうです。相手にマワシを取らせない力士って、これほどイヤな取り組み相手はいないわけです。リーチが長い力士は、相手を自分の懐に入れないわけです。立場によって意味が全然違ってくるんですね。「土が付く」という表現もありますね。実際には土俵には土はありませんが、土は敗北の象徴なのです。本来負けないはずの力士が負けると「土が付く」といいます。例えば、連勝中の横綱が負けたときなどに使いますね。ところが、稽古場では「土が付く」とはいいません。「砂が付く」です。相撲表現のなかに、「土俵の砂で男を磨く」というのがあります。これは、稽古を重ねて精進し成長したという意味です。力士の身体にくっついたのが土と砂では意味としては大きな違いになるわけです。そんな所にも相撲の美学が垣間見ることができます。

 というように、様々な発見に満ちた相撲観戦は、日本語を研究する身としては2度楽しい趣味です(笑)。

どうでしょうか。飯田さんの”言葉”と”知の世界”への強い好奇心が、私たちが利用している「数え方の辞典」を生み出したことがよくわかります。そういう目で見ると数え方の辞典も、また飯田さんのコラム集も行間に埋もれているものが浮かび上がってくるような気がします。コラムは2週おきに新しい記事が公開されます。どうぞご期待ください。

 
<お知らせ>
※飯田さんの『目からウロコ!「数え方の謎」をめぐるコラム集』は、ジャパンナレッジのトップページ「日本語力を鍛える」のコーナーよりご覧いただけます。