日本人が古来地名に並々ならぬ関心をよせてきたことは、記紀や風土記にみるおびただしい地名起源説話がそれを物語っている。地名はたんなる記号や名辞ではなく、土地の精霊を冒涜することなしには、みだりに改変することが許されないものとされてきた。地名はその土地に生死した人々の歴史、生活・精神史の貴重な索引であるといえよう。なぜなら、地名には土地と結びついた言語・民俗・生産・地理・信仰・文化など、往時の人々の姿と心がその中に包まれて今に伝えられ、はるか彼方からの時間が腐蝕に耐えて凝縮されているからである。地名は、地中に埋もれた貝殻の化石や土器と同様に、過去を知るための堅固な資料である。
地名事典の類は戦前から幾度も刊行されているが、大部の歴史地名事典としてはわずかに吉田東伍博士著「大日本地名辞書」があるにすぎない。この地名辞書は今なお多くの人々に利用されているものの、刊行後すでに70年を経過し、それ以後の学問、とくに戦後の日本史・考古学・民俗学・言語学・国文学などの研究の進歩には著しいものがある。加えて近来、地方および地方史に対する関心がたかまり、数多くの文献も刊行されて、これらの成果を盛りこんだ新しい歴史地名事典の出版が各界から要望されている。
他方、今日の日本は保持伝承されてきた地名を尊重せず、戦後頻々と行われた行政区画整理は歴史的意味をもつ地名に大きな変化を加えてきた。旧町村・大字・小字・旧道、あるいは社寺・伝説・伝統産業などに縁由する地名の多くは消えさろうとし、そのうえ、地名の特徴を微妙に弁別しその由来を把握する古老たちもきわめて数少なくなっている。歴史地名の記録や解説は、今日が最後の機会といえよう。
しかしながら、地方の資料はその歴史風土から切り離しては生き生きとした意味が失われ、また一地方に限定されてはその姿を的確にとらえることはできない。小社はこの編集事業が、遠大な展望と綿密な準備を要することを配慮し、在地の研究者を中心に各都道府県別に編集委員会を結成して、全力をあげて都道府県別の「日本歴史地名大系」の刊行を期する次第である。