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  11. 鳥羽・伏見の戦

鳥羽・伏見の戦

ジャパンナレッジで閲覧できる『鳥羽・伏見の戦』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

鳥羽・伏見の戦い
とばふしみのたたかい

戊辰 (ぼしん)戦争最初の内乱。王政復古後、新政府内部において、討幕派は公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜 (よしのぶ)に辞官納地を命じた。慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱 (かくらん)工作にのり、江戸薩摩 (さつま)藩邸を焼打ちし、1868年(慶応4)1月2日、旧幕側は、幕兵、会津・桑名両藩兵ら1万5000人を北上させた。新政府も、薩摩・長州両藩兵ら4500人を出し、1月3日、両軍は、京都郊外の鳥羽と伏見で衝突し、数では3分の1に満たないものの、装備と士気に勝る新政府軍が幕府軍を1日で退却させ、6日に戦いが終了し、慶喜は海路、江戸へ逃れた。この結果、新政府内での討幕派の主導権が確定し、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かうこととなった。

[井上勝生]



世界大百科事典

鳥羽・伏見の戦
とばふしみのたたかい

戊辰戦争最初の内乱。王政復古ののち,西郷隆盛や大久保利通らの討幕派は,公議政体派を抑え,将軍徳川慶喜に辞官納地を命じた。これを受諾しない慶喜は大坂に退いて主導権回復を策し,また新政府内部でも慶喜と妥協する公議政体派が勢力を回復しつつあった。危機感を強くした西郷らは,関東で挑発を工作し,これにのった幕府は,江戸の薩摩藩邸を焼討ちし,挙兵入京を決め,1868年1月26日(慶応4年1月2日),幕兵,会津・桑名両藩兵ら1万5000人を鳥羽伏見街道から北上させた。新政府も大久保らの強硬論によって4000人の薩摩・長州両藩を中心とする兵を出した。両軍は,1月27日に鳥羽と伏見で衝突し,装備にまさる新政府軍が幕府軍を1日で退却させ,淀藩や津藩の寝返りによって,30日には戦闘が終了した。この結果,新政府内での討幕派の主導権が確立し,西国の大名や大坂の豪商らが新政府支持に踏み切った。
[井上 勝生]



国史大辞典

鳥羽・伏見の戦
とば・ふしみのたたかい
明治元年(一八六八)、京都南郊の鳥羽・伏見において新政府側と旧幕府側との間で展開され、戊辰戦争の発端となった戦闘。討幕派による王政復古クーデターは成功した。しかしその後の政局の争点となった徳川慶喜の辞官・納地問題で朝議は紛糾し、その過程で尾・越・土ら公議政体派がまき返し、岩倉具視も彼らの意見に傾き、慶喜の朝議への参加さえ可能となるような途も開けつつあり、薩長討幕派はむしろ少数派となりつつあった。二条城から大坂城に退去した慶喜は、諸外国代表との会見で王政復古政変の不法と依然として幕府が日本の政府であると強気の主張をしつつも、主戦派を抑えて武力対決を避け、公議政体派の周旋に期待をよせていた。しかしながら慶応三年(一八六七)十二月二十五日薩摩藩の江戸擾乱工作にたまりかねた幕府が江戸薩摩藩邸を焼打するに及んで局面は一転した。江戸から幕府勢が大挙上坂し、慶喜も彼らの勢いを制し得なくなった。晦日から元日にかけ伏見において薩摩藩を主体とする討幕軍と会津藩を中心とする幕軍がにらみ合う状況となった。明治元年正月二日午前中、朝議はまだ慶喜問題を論じていたが、この時幕兵進軍の報が入った。大久保利通は岩倉具視に決断をせまり、薩長兵を鳥羽と伏見に増強配備して決戦態勢を整えた。三日午後五時ごろ「討薩の表」を携える先鋒の旧幕府大目付滝川具挙は、鳥羽口赤池付近を守備する薩藩兵に通行を求めるが阻止され、強硬突破しようとして、開戦の機を窺っていた薩藩兵の砲撃にあった。鳥羽方面からの銃砲声を聞いた伏見でもまもなく戦闘が始まった。鳥羽・伏見戦争の開始である。この時の両軍の戦力は、鳥羽方面の討幕軍が、薩藩の小銃隊五隊と砲四門および長州藩一小隊で約千名、これに対し幕軍は歩兵四大隊砲六門を擁する幕兵と桑名・松山両藩兵で約五千の兵力。伏見方面では、討幕軍が薩藩が小銃隊五隊と砲九門および長州藩歩兵二中隊それに後から参加した土佐藩四小隊で約二千余、一方幕軍は、幕府歩兵三大隊、会津・高松・浜田各藩兵に砲八門で計約五千というのが三日段階での兵力であった。三日夜伏見の戦闘で、会津藩兵は白兵戦に出たが銃撃戦をとる討幕軍に敗れ夜半過ぎには中書島まで後退、翌四日の戦闘でも幕府勢は劣勢で同日夕刻には淀まで全軍が後退し、淀城に入って討幕軍の進攻を食い止めようとした。しかし譜代の淀藩は入城を拒否した。この日の朝、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に就任し、天皇から錦旗と節刀を渡された。ここに官軍すなわち政府軍が成立し、幕府勢は賊軍とされた。それまで討幕派と幕府との私戦であると見ていた諸藩は、幕府軍の劣勢を見て政府軍支持となった。たとえば、六日昼ごろ、淀川を間にはさんだ対岸の山崎の関門を当初幕府側勢力として固めていた津藩が、突如幕府勢に銃砲を浴びせた。すでに五日に津藩は朝廷政府に帰順していたのである。初戦から徐々に後退していた幕軍は重要なポイントで、淀・津両藩の転身攻撃にあってついに潰走し大坂城に引きあげた。かくて鳥羽・伏見戦争は軍事的にはもちろん、政治的にも政府軍の圧勝に結果したのであった。六日夜、徳川慶喜は会津藩主松平容保・老中板倉勝静らわずか数名の側近を連れただけで、戦闘中のほとんどの将兵を見捨て大坂城を脱出し、十二日江戸城に帰った。すでに七日に政府は徳川慶喜追討令を出していた。→戊辰戦争(ぼしんせんそう)
[参考文献]
原口清『戊辰戦争』(『塙選書』二九)、佐々木克『戊辰戦争』(『中公新書』四五五)、石井孝『戊辰戦争論』
(佐々木 克)
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1. とば・ふしみのたたかい【鳥羽・伏見の戦】
国史大辞典
明治元年(一八六八)、京都南郊の鳥羽・伏見において新政府側と旧幕府側との間で展開され、戊辰戦争の発端となった戦闘。討幕派による王政復古クーデターは成功した。し
2. 鳥羽・伏見の戦
日本史年表
1868年〈慶応4明治元(9・8) 戊辰④〉 1・3( 1・27 ) 鳥羽・伏見の戦 ( 戊辰戦争開始 )、旧幕府軍敗退。
3. 鳥羽・伏見の戦
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戊辰戦争最初の内乱。王政復古ののち,西郷隆盛や大久保利通らの討幕派は,公議政体派を抑え,将軍徳川慶喜に辞官納地を命じた。これを受諾しない慶喜は大坂に退いて主導権
4. 鳥羽・伏見の戦い
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戊辰ぼしん戦争最初の内乱。王政復古後、新政府内部において、討幕派は公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜よしのぶに辞官納地を命じた。慶喜は大坂に退いて主導権回復を策し
5. あいづこてつ【会津小鉄】
日本架空伝承人名事典
嘩に明け暮れ、七〇余りの傷を負い、左手は親指と人差し指しかなかったともいう。その一方で、鳥羽・伏見の戦での敗者の遺体を懇ろに葬るなど、彼の義侠心を物語るエピソー
6. 会津戦争
世界大百科事典
1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命
7. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
王政復古の大号令によって京都守護職は廃止され、五年余の禁門警備の任務は解かれた。翌明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦に始まった戊辰戦争では、江戸城明渡し後も東
8. 青木周蔵自伝 59ページ
東洋文庫
転に処すること能はず、自ら困窮の苦域に陥りし者甚だ少なからず。且、曩日、京畿、北陸の役〔鳥羽・伏見の戦い、北陸戦争)、生民の困苦奮に塗炭のみならず、甚しきは、不
9. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
」の文字を削除した沙汰書作成など、朝幕の融和をめざしたが、明治元年(一八六八)正月三日の鳥羽・伏見の戦、同七日の討幕大号令で、慶勝の政治路線は完全にくずれ去り、
10. あこうじょうあと【赤穂城跡】兵庫県:赤穂市/赤穂城下
日本歴史地名大系
)を招く(村上家文書)。しかしこれも藩政の改革にはつながらず、慶応四年(一八六八)正月に鳥羽・伏見の戦が始まると、藩は一月一二日朝廷に恭順、同一五日の岡山藩など
11. あさのながこと【浅野長勲】
国史大辞典
議定に任じて小御所会議に出席、山内豊信の慶喜擁護論に与したが岩倉具視に説得された。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦後、議定を辞そうとしたが許されず、会計事
12. あんどう-とうじ【安藤藤二】
日本人名大辞典
元治(げんじ)元年大筒組頭。翌年京都におもむき,西郷隆盛,大久保利通らとまじわる。慶応4年軍制調懸となり,鳥羽・伏見の戦い,奥羽戦争に出陣。晩年は平戸で学塾をひ
13. あんらくじゅいん【安楽寿院】画像
国史大辞典
薩来迎図(いずれも藤原時代、重要文化財)などによって往時の偉観をしのぶにすぎない。なお、鳥羽・伏見の戦には、当院は薩摩・長州軍の本営となった。 (熱田 公) 安
14. いぐち-しんすけ【井口新助】
日本人名大辞典
慶応3年竜馬は中岡慎太郎とともに見廻組に暗殺された。以後も尊攘(そんじょう)派に肩入れし,鳥羽・伏見の戦いでは軍資金・糧食を提供した。明治43年死去。74歳。
15. いけだ-まさかた【池田政礼】
日本人名大辞典
池田政和の次男。安政2年備中(びっちゅう)岡山新田(生坂(いくさか))藩主池田家8代となる。鳥羽・伏見の戦いでは本藩とともに京都を警護。明治17年子爵。明治40
16. いけだもちまさ【池田茂政】
国史大辞典
慶応二年(一八六六)七月実弟の浜田藩主松平武聡の援兵派遣の要求にも応じなかった。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦には大津表を守り、桑名・備中松山藩の討伐に
17. いけだ-やすまさ【池田安正】
日本人名大辞典
。河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)藩士。蘭学と洋式兵学をまなぶ。坂本竜馬らと交流。鳥羽・伏見の戦いで京都警護につく。のち陸軍中佐。明治12年5月死去。47
18. いけだよしのり【池田慶徳】
国史大辞典
維新の際は尊王と敬幕とを両立させようと努力し、大政奉還論をとなえた。明治元年(一八六八)鳥羽・伏見の戦では勅命によって伏見を守り、戊辰戦争には関東・奥羽に藩兵を
19. いしかわ-あさのすけ【石川厚狭介】
日本人名大辞典
隊に入る。慶応2年の幕長戦争では,中隊司令として石見(いわみ)(島根県)の浜田城を攻略。鳥羽・伏見の戦いで,慶応4年1月5日戦死。26歳。名は正臣。通称ははじめ
20. いしかわ-とよたろう【石川豊太郎】
日本人名大辞典
因幡(いなば)鳥取藩士。江戸に出,斎藤弥九郎(やくろう),千葉一胤(かずたね)に剣術をまなぶ。鳥羽・伏見の戦いでは,藩の命令をまたず,薩長軍とともに幕府軍をうち
21. いしかわ-ふさかね【石川総管】
日本人名大辞典
(しもだて)藩主石川家9代となる。慶応2年講武所奉行。3年若年寄となり陸軍奉行をかねた。鳥羽・伏見の戦い後,幕府の職をしりぞき,旧幕府軍につくか新政府軍に帰順す
22. いじゅういん-よいち【伊集院与一】
日本人名大辞典
尊王運動にくわわる。慶応3年藩主島津忠義にしたがって京都に出,禁裏の常御所(つねのごしょ)警備にあたった。鳥羽・伏見の戦いに出陣し,4年1月5日淀川堤で戦死。3
23. いずものくに【出雲国】島根県
日本歴史地名大系
しかし長州戦争などを通じて幕府の命を奉じた松江藩は一貫してこれを拒否し、慶応四年(一八六八)一月三日の鳥羽・伏見の戦においても、京都の松江藩兵は幕府軍への参加を
24. いちき-かんべえ【市来勘兵衛】
日本人名大辞典
薩摩(さつま)鹿児島藩士。元治(げんじ)元年禁門の変に斥候(せっこう)長として活躍した。鳥羽・伏見の戦いに従軍,慶応4年1月5日戦死。30歳。名は政武。
25. いながき-ながゆき【稲垣長行】
日本人名大辞典
4日生まれ。稲垣長明(ながあき)の長男。慶応2年志摩(三重県)鳥羽藩主稲垣家7代となる。鳥羽・伏見の戦いでは藩ははじめ幕府側に属した。慶応4年8月14日死去。1
26. いなばまさくに【稲葉正邦】
国史大辞典
を廃して、上下の議事所を開き公議世論にもとづいて国是を定めるべきであると主張した。しかし鳥羽・伏見の戦がおこると、淀藩は直ちに政府軍に加担し、正邦は明治十七年(
27. いなば-まさくに【稲葉正邦】
日本人名大辞典
んじょう)派に対した。老中にすすみ,国内事務総裁をかね,将軍徳川慶喜(よしのぶ)を補佐。鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言し,新政府軍勝利の一因となった。明治17年
28. いぬい-たてお【乾楯雄】
日本人名大辞典
の郷士。京都でイギリス式軍事教練をうけ,侍従鷲尾隆聚(わしお-たかつむ)に属して慶応4年鳥羽・伏見の戦いに,明治2年五稜郭(ごりょうかく)の戦いにくわわった。6
29. 伊庭八郎
世界大百科事典
講武所から幕府奥詰となり,心形刀流の跡目を継ぐことになったが,幕末騒乱の中,幕府の遊撃隊を率いて鳥羽・伏見の戦(1868)に参加,その後官軍の東征に対する箱根で
30. いば-はちろう【伊庭八郎】
日本人名大辞典
なり,宗家(10代)をつぐ。講武所から奥詰勤務となり,将軍の護衛役として京坂におもむく。鳥羽・伏見の戦いで負傷,箱根戦争で左腕をうしない,江戸にもどり彰義隊には
31. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
押えて慶喜処分を決した。岩倉はこの日、新政府の参与、ついで議定となった。明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦の後、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相とな
32. ウィリス(William Willis)
世界大百科事典
公使館付医官として赴任したが,イギリス人医師の来日としては最も早い時期に属する。68年の鳥羽・伏見の戦で薩摩藩に招かれ戦傷兵の治療にあたったほか,横浜の軍陣病院
33. ウィリス【William Willis】
国史大辞典
活躍、これが機縁となって鹿児島藩と密接な関係を結ぶこととなり、明治元年(一八六八)正月の鳥羽・伏見の戦に際しては同藩の依頼に応じて京都相国寺の鹿児島藩軍陣病院で
34. うえすぎなりのり【上杉斉憲】
国史大辞典
慶応二年(一八六六)六月屋代郷三万七千石を加封されて十八万七千余石となった。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦がおこるや、秋田藩主佐竹義堯・盛岡藩主南部利剛
35. うえだ-そうじ【上田宗児】
日本人名大辞典
と)(山口県)萩(はぎ)藩にのがれ,幕長戦争では遊撃隊長としてたたかう。慶応4年1月3日鳥羽・伏見の戦いで戦死した。27歳。名は則正。変名は後藤深蔵(造)。
36. うどの-だんじろう【鵜殿団次郎】
日本人名大辞典
航海術などに通じ,文久2年幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授。慶応3年目付となり,鳥羽・伏見の戦いののち勝海舟とともに恭順論をとなえた。明治元年12月9日
37. えだくにみち【江田国通】
国史大辞典
慶応三年(一八六七)島津久光の上洛に従い、禁闕守衛の任にあたった。翌明治元年(一八六八)正月の鳥羽・伏見の戦にあたって砲戦隊に属して鳥羽の戦闘に参加、以後戊辰戦
38. 江戸開城
世界大百科事典
1868年(明治1),新政府が江戸城を接収した事件。鳥羽・伏見の戦の後,徳川慶喜は,上野寛永寺に閉居し,恭順の意を表した。江戸に迫った東征大総督有栖川宮熾仁(た
39. えどかいじょう【江戸開城】
国史大辞典
明治元年(一八六八)、江戸城が旧幕府側から新政府の手に接収されたことをいう。明治元年正月の鳥羽・伏見の戦の後、新政府は徳川慶喜追討の軍をおこし、大総督有栖川宮熾
40. えどじようあと【江戸城跡】東京都:江戸・東京/東京地図
日本歴史地名大系
将軍徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、江戸幕府は終焉の時を迎えた。同四年旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。これを追討する新政府軍は江戸城
41. えのきちょう【榎町】京都市:伏見区/伏見町/第二区地図
日本歴史地名大系
安永八年(一七七九)刊「伏見鑑」に初めて「榎町」の町名を記して「俗に馬責場といふ」と注記する。悟真寺境内に鳥羽・伏見の戦で戦死した幕府軍会津藩将兵の招魂碑がある
42. えばらそろく【江原素六】
国史大辞典
講武所教授方・歩兵指図役頭取並・砲兵指図役頭取並を経て撒兵頭となる。明治元年(一八六八)鳥羽・伏見の戦に従軍、同年四月江戸を脱走、下総船橋方面に転戦して負傷、駿
43. おうせいふっこ【王政復古】 : 文久・慶応期
国史大辞典
ついで大坂城に拠った。翌慶応四年(明治元、一八六八)正月二日、徳川軍は北上を始め、翌日、鳥羽・伏見の戦に敗北した。七日、朝廷は慶喜追討令を発した。徳川軍は敗走を
44. 近江国
世界大百科事典
年(万延1)桜田門外で倒れた。彦根藩は10万石を減封され,この後藩内では勤王派が台頭し,鳥羽・伏見の戦では官軍に属した。膳所藩,水口藩などでも,家中は勤王派,佐
45. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
自刃、今も同地の海津正行院に碑が残っている。慶応三年の大政奉還・王政復古に続いて、翌年の鳥羽・伏見の戦で薩摩・長州軍は旧幕府軍を破り、討幕派の主導権が確立したが
46. おおえだ-てつじろう【大枝鉄次郎】
日本人名大辞典
弘化(こうか)4年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。四国艦隊下関砲撃事件,幕長戦争に参加。鳥羽・伏見の戦いのあと奥羽各地を転戦し,出羽(でわ)金山
47. おおがきし【大垣市】岐阜県
日本歴史地名大系
通して軍制改革の必要性を感じ、慶応二年(一八六六)には軍制、翌三年には藩制を改革した。同四年の鳥羽・伏見の戦には幕府軍として参加したが、のちに藩論が勤皇に統一さ
48. おおがきはん【大垣藩】
国史大辞典
を預かり、寛延三年(一七五〇)以降次第に増加した預所四万五千石余を幕末まで支配してきた。鳥羽・伏見の戦に幕軍として参加した大垣藩は、鉄心を中心に藩論を勤王に決定
49. おおこうちし【大河内氏】画像
国史大辞典
(一七〇三)上総大多喜に転じた。以後子孫うけ継いで廃藩に至った。最後の藩主で老中の正質は鳥羽・伏見の戦に参加、佐倉藩に幽閉され、領地は吉田藩に保管された。雁間詰
50. おおこうちまさただ【大河内正質】
国史大辞典
計画、ついで慶喜に従って二条城より大坂城に退き、老中格に進んだ。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦がおこるや、老中と連署して六ヵ国公使に局外中立を要求した。
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