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日本歴史地名大系
粟ノ巣古戦場跡
あわのすこせんじようあと

[現]二本松市沖

天正一三年(一五八五)一〇月に畠山氏と伊達氏の戦いがあり、畠山義継と伊達輝宗がともに死亡した所。塩松しおのまつを支配下に置いた伊達政宗と講和するため畠山義継は小浜上おばまかみ(現岩代町)で輝宗に対面するが、流言にまどわされて輝宗を捕らえ二本松に帰る途上であった。粟ノ巣での戦いについて「伊達治家記録」には「奥州安達郡高田原ニ於テ不図卒セラル」と輝宗の死が記されるだけで、それ以上の記述はない。「政宗記」には「高田と申処迄御共申候(中略)、然処に取捲参候内より鉄砲一うち候、打果可申由申者も無之候得共惣之者共懸候而(中略)、輝宗公も御生害被成候」とあり、「山口道斎物語」には「大平村の内粟の巣といふ所まで往しに、此所にて伊達方より鉄砲を一度に二放打候へば、誰が下知ともなく其儘ばたばたと討果候」とある。「仙道記」には「正宗下知に、親ともに討取候様にと被申候故、義継・輝宗を差殺自害被仕候」とあり、「会津旧事雑考」「奥陽仙道表鑑」「相生集」「積達古館弁」等はほとんど「仙道記」の説を踏襲している。しかし「政宗記」および「山口道斎物語」の記述は、当事者またはそれに最も近い者の記録として重視する必要があろう。この場所には「生害場」の呼び名が伝えられている。なお各種記録をみると、村名が大平おおだいら村・平石ひらいし村・鈴石すずいし村などと混同しており、「栗之巣」と誤記したものもある。明治の地租改正以降「粟ノ須」と表記されていたが、新町名に改正されて消滅した。

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