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長州征伐

ジャパンナレッジで閲覧できる『長州征伐』の日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書
長州征伐
ちょうしゅうせいばつ

1864年(元治1)、1865~66年(慶応1~2)にかけて行われた幕府による征長出兵。長州藩では第二次征長を四境(しきょう)戦争とよぶ。
[吉本一雄]

第一次

1864年7月の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)によって長州藩追討の名目を得た幕府は、尊攘(そんじょう)派に打撃を与える意図もあって、征長を表明し出軍した。征長総督には尾張(おわり)藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)、副将に越前(えちぜん)藩主松平茂昭(まつだいらもちあき)があたり、西郷隆盛(さいごうたかもり)が参謀として、長州藩に謝罪降伏せしめるべく画策した。
長州藩では、禁門の変に敗退し、また四か国連合艦隊の下関(しものせき)砲撃にも敗れたことから、尊攘派にかわって保守俗論派が政権を握り、幕府に恭順の意を示した。その証(あかし)として、まず禁門の変の責任者として福原越後(えちご)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の3家老と4参謀の処刑、藩主毛利敬親(もうりたかちか)父子の謝罪、山口城の破却、八月十八日の政変(1863)後に長州藩に身を寄せていた三条実美(さんじょうさねとみ)以下5卿(きょう)の引き渡しなどの要求に応じた。これによって幕府は、出軍の目的を達したとして、同年12月に撤兵令を発した。
[吉本一雄]

第二次

翌1865年(慶応1)になると、長州藩では保守俗論派に対して、高杉晋作(たかすぎしんさく)が下関で挙兵し、諸隊の力を得て美祢(みね)郡大田・絵堂の内訌(ないこう)戦を戦い、俗論派にかわって正義派が政権を握り、藩論を武備恭順へと転換した。この方針に従って、大村益次郎(おおむらますじろう)を登用して軍制改革を実行し、特別資金であった撫育方(ぶいくかた)の貯蓄金を放出して銃器や艦船を購入し、装備の洋式化を図り、幕府の再征に備えた。
一方幕府は、こうした長州藩の態度を詰問して、将軍家茂(いえもち)自ら江戸城を発して上洛(じょうらく)の途につき、1866年5月には10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したが、長州藩は応ぜず、6月7日の大島口での戦闘を手始めに、6月14日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口(こくらぐち)と、いわゆる四境で幕府軍と長州軍の戦闘が開始された。結果は幕府軍の敗走に終わり、7月に家茂が大坂城で死去したことを契機に撤兵した。以降、幕府はその権威を失墜し大政奉還へと向かった。
[吉本一雄]



改訂新版・世界大百科事典
長州征伐
ちょうしゅうせいばつ

幕末期,江戸幕府が長州藩攻撃のために起こした戦争で,第1次は未発,第2次は倒幕運動の拠点長州との全面的な軍事対決となった。第1次征長,第2次征長ともいい,この第2次征長戦を長州側では四境戦争と呼ぶ。

第1次

1864年(元治1)7月18日の禁門の変(蛤御門の変ともいう)による長州軍の皇居内への発砲は,7月23日の長州追討の朝命となり,翌日,幕府は中国・四国・九州の21藩に出兵を命じ,また,その他の諸藩には京畿守備を命じた。そして,幕府は征長総督徳川慶勝(前尾州藩主)の指揮のもとに諸大名の部署を決め,征長軍を進めようとした。しかし,その足並みは必ずしもそろわなかった。一方,長州藩内では幕府への恭順を唱える保守派が台頭し,また,4国連合艦隊による下関砲撃などがなされ,この内憂外患のなかで藩内事情は複雑な様相を呈していた。この情況をみて征長軍の参謀・薩摩藩士西郷隆盛は,長州を死地に追い込むことを避け,長州藩の本・支藩の離間策や藩内の分裂化をすすめることによって,手を下さずして制圧することを主張した。西郷は一面では尊攘派の拠点長州をたたき,他面では幕府の権威回復を妨げようと意図していたのである。対する長州藩内の保守派は,支族吉川(きつかわ)経幹の周旋で,福原越後,益田右衛門介,国司(くにし)信濃の3家老と4参謀(宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎)を斬って幕府へ恭順の意を表した。そこで,幕府軍は戦わずして12月27日,撤兵令を下した。

第2次

長州藩が在長州の三条実美ら5卿を幕府側へ引き渡すことは征長軍撤兵の一要件であったが,それは実行されなかった。加えるに長州藩内では,1864年(元治1)末から翌65年(慶応1)初めにかけて高杉晋作らが馬関(下関)に決起し,藩の主導権を奪い,奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた(1865年3月)。これをみた幕府は,長州藩が容易ならざる企てをし,外国商人との取引をしているなどの理由で長州再征を上奏し,65年9月勅許を得た。しかし,朝廷および諸藩には再征反対の空気が強く,とくに薩摩藩は出兵を拒否した。時あたかもイギリス,アメリカ,フランス,オランダの4国は,連合艦隊を兵庫沖に来航させ,兵庫の先期開港・条約勅許を要求した(10月,条約は勅許,兵庫先期開港は不許可)。66年6月,幕府軍と長州軍との戦闘は開始された。長州藩は,このときすでに薩長同盟を結んでいた(1866年1月)。また,藩内では高杉や木戸孝允らによって挙藩軍事体制が固められ,諸隊や農商兵を活用し,密輸入した近代兵器によって幕府軍に対処しようとしていた。芸州口での戦闘は一進一退であったが,石州口や小倉口方面では長州軍が幕府軍を圧倒した。しかも,幕府軍はその背後を大坂,江戸の打ちこわしや百姓一揆に脅かされていた。物価騰貴と民衆の負担の増大は開港以来の傾向であったが,第2次征長戦はそれに拍車をかけ,社会的矛盾をさらに激化させたのである。幕府の敗北は決定づけられた。そこで幕府は,第14代将軍徳川家茂の大坂城での病没を機として,66年8月,休戦の朝議を得て,9月2日,長州藩と休戦協定を結んだ。同年12月の孝明天皇の急死を機会に解兵の沙汰書を得て,天下に布告した。この第2次征長の失敗は幕府の権威失墜の決定的要因となり,以後,幕府支配の崩壊は時間の問題となった。
[田中 彰]

[索引語]
第1次征長 第2次征長 四境戦争 徳川慶勝 西郷隆盛
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東洋文庫
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8. 安芸国
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紀初頭安芸国内の諸宗寺院総数602ヵ寺中,真宗寺は351を数えたほどである。幕末広島は再度の長州征伐で征討軍の基地となるが,藩はむしろ中立を持し,幕末の政局では ...
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日本歴史地名大系
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10. あきのくにひろしまはんりょうけいおうさんねんいっき【安芸国広島藩領慶応三年一揆】
国史大辞典
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12. 浅野長勲[文献目録]
日本人物文献目録
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世界大百科事典
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24. いぎさんえんさい【伊木三猿斎】
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