日本大百科全書(ニッポニカ)

スコットランド独立問題
すこっとらんどどくりつもんだい

グレート・ブリテン島北部のスコットランドが、イギリスから独立するための運動を展開することに伴って生ずる諸問題の総称。

スコットランドの独自性

スコットランドは1707年にイングランドと合併し、連合王国を形成するまでは独立国であった歴史的な経緯が物語るように、イングランドとは異なる特質を有している。たとえば、現在も教会、司法、教育などの分野で独自の制度が維持されているし、市民の多くが強い地域アイデンティティをもっている。サッカーのワールドカップ出場も、国家単位ではなく、イングランドとは別に、ウェールズ、北アイルランドとともに、別個にチームを編成し、参加する。しかしながら、スコットランドにおける地域アイデンティティは、他国の独立運動が盛んな地域にみられるような異民族支配に対する抵抗や少数言語を用いる権利の主張に由来するものではなく、イングランドと異なる形で発達した社会制度に基づいている。さらに、こうした歴史に由来する独自性から単線的に今日のスコットランド独立運動が導かれるわけではないことに留意する必要がある。
 スコットランドのアイデンティティを強調する運動は19世紀末ごろより顕在化した。当時は文化的な次元での独自性を志向する性格が強く、また、アイルランド自治運動に影響を受け、アイルランド自治をモデルに、連合王国の枠内でスコットランドに自治権を認めることを主張していた。スコットランドの独自性の主張に対して、全国政府は1885年、スコットランド域内の行政を特別に行うための全国政府の行政組織としてスコットランド省Scottish Officeを設置するなど、これを柔軟に許容する対応をしてきた。スコットランド省は、その後、担当大臣が全国政府の閣僚となり、また、担当する政策分野の拡大や、業務拠点のエジンバラへの移転など、体制の強化が図られた。
[山崎幹根]

「民主主義の欠陥」を是正するための議会開設へ

1960~1970年代

今日のスコットランド独立運動に連なる動向は、1960年代後半に地域アイデンティティが政治的な性格を強め、独立を志向するナショナリズムが高揚するとともに、スコットランド独立を党是とするスコットランド国民党(SNP:Scottish National Party)が躍進した時期にさかのぼることができる。1967年のイギリス下院補欠選挙でSNPが議席を獲得したことが大きな衝撃を与えた。SNPは、1974年2月の総選挙では7議席、同年10月の総選挙では11議席を獲得し、既成政党にとっても無視できない政治勢力となった。SNPが躍進した背景には、大英帝国の国際的な地位の低下に伴い、スコットランドがイギリスの一員として享受する利益も減少したこと、スコットランドとイングランドとの経済的格差の存在、そして、スコットランドにおける政策課題やナショナリズムの高まりに対し、全国政党である保守党と労働党が対応する能力の限界を露呈させたことがあった。さらに、SNPは当時発見された北海油田を「スコットランドの石油」として主張し、戦略的に強調した。
 SNPの躍進に対応するために全国政府は王立委員会を設置し、その最終報告書を受けて、スコットランドに議会を設置する法案を議会に提出、1978年に可決された。ところが、これを実施するために1979年3月にスコットランドで行われた住民投票では、約52%の賛成が得られたたものの、特別な条件として付された有権者総数40%の絶対得票率を確保できず、権限移譲改革は見送られた。その後、同年5月の総選挙で保守党が勝利しサッチャー政権が登場して以降、SNPの党勢のみならず、議会設置を求める運動も停滞した。
[山崎幹根]

1980~1990年代

スコットランドの地域アイデンティティがふたたび強まり、独立を志向するSNPが党勢を回復したのは、1980年代から1990年代の保守党政権によるスコットランド統治の経験によるところが大きい。とくにサッチャー政権は重厚長大型の産業構造を解体し、競争原理を導入する形で行政改革を推し進め、スコットランドに大きな打撃を与えた。そして1989年にはイングランドよりも1年早く人頭税(正式名称はコミュニティ・チャージ)が導入され、各地で抗議運動が起こった。こうして、スコットランド市民が総選挙で多数の支持を与えていなかった保守党政権が、スコットランドに大きな影響を与える政策を一方的に押し付ける構図が「民主主義の欠陥(a democratic deficit)」と認識されるようになった。1980年代末より、こうした状況を打破し、スコットランドに自己決定権を確立するために、市民グループ、労働組合、地方自治体、宗教界の指導者らによって超党派のスコットランド憲政会議Scottish Constitutional Conventionが設立され、スコットランド議会の設置を求める運動が広がった。この運動には労働党、自由民主党が参加し、独立を標榜(ひょうぼう)するSNPは参加しなかったが議会設置に対しては積極的な立場であった。
 1997年に労働党政権が発足した後、同年9月にスコットランド議会の設置を問う住民投票がスコットランドで行われ、賛成多数により、所得税の税率変更権を有するスコットランド議会の設置が認められた。スコットランド議会は小選挙区の73議席と、八つの区域からそれぞれ7名が選出される比例代表制の56議席が選出される。この比例代表制は、小選挙区で議席を得られなかった政党が優先的に議席を獲得できる方式を採用しているため、スコットランド議会はつねに多党制であり、連立政権や少数与党政権が常態化している。こうした選挙制度により、下院選挙では議席拡大に限界があったSNPは、スコットランド議会では一定の議席数を確保することに成功した。そして2007年には、SNPは少数与党ながらも政権党となり、2011年には単独過半数を獲得した。この間、SNPは漸進的、現実的な独立を志向し、社会民主主義を基本理念とするとともに、統治能力を誇示することに成功した。
[山崎幹根]

独立を問う初めての住民投票(2014年)

2011年にSNPがスコットランド議会で過半数を獲得したことから、独立を問う住民投票の実施が現実味を帯び、2012年10月には全国政府の首相キャメロンとスコットランド自治政府の首相サモンドAlex Salmond(1954― )との間で、住民投票の実施に関する合意が形成された。2014年9月18日、スコットランドで連合王国からの独立を問う住民投票が行われた。投票率は約85%に達し、結果は反対が約55%、賛成が約45%となり、独立は実現しなかった。女性よりも男性、労働者階層、55歳以下の年齢層が独立賛成を支持した。また、グラスゴーやダンディーなど、経済的に低迷している地域を多く抱える四つの自治体では賛成多数となった。
 スコットランド独立の是非に関する最大の争点は通貨政策であり、賛成派は独立後のスコットランドが引き続きイングランド、ウェールズ、北アイルランドとともにポンドを使用する通貨同盟構想を主張した。これに対して、独立反対派の保守党、自由民主党、労働党は、通貨同盟の可能性を否定した。また、北海油田から産出される石油・ガスから得られる税収の見通しも大きな争点になった。賛成派は税収のほとんどがスコットランドの独自財源となることの利点を強調する一方、反対派は、賛成派の試算が楽観的な予測によっていると批判、スコットランドは連合王国にとどまることによって多くの財政資源の配分を得られていると主張した。独立したスコットランドのヨーロッパ連合(EU)加盟に関しても、賛成派は円滑に加盟が行われるとする一方、反対派は一から加盟申請を行う必要があり多くの困難を伴うと批判した。また、スコットランドには核兵器を搭載した原子力潜水艦の基地があるが、賛成派はこれを撤去し、スコットランドを非核地域にすると主張、反対派はこれに異議を唱えた。これらの争点に関して、両派は自らの主張の正しさを訴え続ける一方、議論は平行線をたどった。
 住民投票では独立反対が多数となる結果に終わったものの、従来独立を唱えていたSNP支持者にとどまらず、当初の予想を上回る賛成票が集まった。その背景には、多くの市民が民主主義的価値に共鳴したという事情がある。賛成派は、スコットランドでは多数の支持を得られていない政党が全国レベルで政権党となり、スコットランドを統治するという「民主主義の欠陥」を是正することが独立運動の大義であると主張し、広範な共感を得た。そして、ロンドンの全国政府・議会のコントロールを離れ、独自の福祉政策や経済政策を実行することが公正な社会、平和な社会の実現を可能にすると訴えた。
[山崎幹根]

今後のゆくえ(2016年~ )

住民投票の後もSNPの党勢は拡大し、党員数も急増、各種選挙で堅調に議席を確保している。また、世論調査によれば独立賛成は約40%の水準を維持している。2016年6月、イギリスのEU離脱(ブレグジット)を問う国民投票が行われ、イギリス全体では離脱が多数となったのに対し、スコットランドでは残留が多数を占めるという対照的な結果となり、スコットランドとイングランドとの差異がいっそう明白になった。こうした状況を背景に、SNP政権は二度目のスコットランド独立を問う住民投票の実施を主張したが、全国政府の首相メイはこれを退けた。今後、全国政府がどのような条件の下でEUから離脱するのかが具体化するなかで、ふたたび独立を求める運動が盛り上がる可能性がある。
[山崎幹根]