戦国時代の越後(えちご)(新潟県)の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩(よねざわはん)の祖。本姓は平姓長尾(ながお)氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城(くびき)春日山城(かすがやまじょう)(上越市)の城主長尾為景(ためかげ)、母はその一族で古志(こし)栖吉城(すよしじょう)(長岡市)の城主長尾顕吉(あきよし)の娘である。享禄(きょうろく)3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅(とら)年にちなんで虎千代(とらちよ)、ついで平三景虎(へいぞうかげとら)といい、のち政虎、輝虎と名を変え、また道号は初め宗心、1570年(元亀1)から不識庵(ふしきあん)謙信という。
1507年(永正4)父為景は守護上杉房能(ふさよし)を殺し、上杉一族の上条定実(じょうじょうさだざね)を傀儡(かいらい)守護にたてて、実質的な越後国主となったことから、典型的な下剋上(げこくじょう)の人として知られる。1536年(天文5)その死後は嫡子(ちゃくし)晴景が後を継ぐが、国内は各地に分立対抗する長尾一族の勢力ごとに分裂し戦乱が続いた。弟の景虎は春日山城下の臨済宗(りんざいしゅう)林泉寺(上越市)の天室光育(てんしつこういく)に預けられるが、のち母方の古志長尾家を頼って栃尾城(とちおじょう)(長岡(ながおか)市栃尾地区)に移り、中越地方のなかばを掌握して、中越魚沼(うおぬま)地方の上田坂戸城(さかどじょう)(南魚沼市)にいる義兄の長尾政景や、上越地方を押さえる実兄晴景の勢力を圧倒する。1548年末には兄の養子となる形で春日山城に入り、1551年には政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現し、政景の子喜平次(きへいじ)(上杉景勝(かげかつ))を養子にすると、その勢威で下越揚北衆(あがきたしゅう)といわれた豪族領主たちをも率いて、以後、多方面にわたる外征に転ずる。まず1552年、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)に追われた関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)を助けて関東に兵を出し、上洛(じょうらく)して後奈良天皇(ごならてんのう)から従五位下(じゅごいげ)、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられたのち、越山といわれた関東出兵は、1569年(永禄12)まで17年間にわたって続けられ、また、甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に追われた小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)らを助けた北信濃(きたしなの)出兵は、川中島(かわなかじま)(長野市)の戦いといわれ、1564年まで繰り返された。とくに1561年9月の川中島八幡原(はちまんばら)での謙信・信玄両雄激突は戦史に有名であるが、戦後処理で信玄はこの地方を知行地(ちぎょうち)として家臣に分配する宛行状(あてがいじょう)を出しているのに、謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎないという事実からみると、勝利は信玄のものであったと推定される。
1559年上洛し将軍足利義輝(あしかがよしてる)に会い、1560年からは北陸にも進出し、一向一揆(いっこういっき)との戦いが始まる。1561年北条氏を小田原の本城まで追い詰めるが破れず、帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を受け継ぐ儀式を挙行して上杉政虎と称し、足利藤氏を鎌倉公方(くぼう)に擁し厩橋城(うまやばしじょう)(群馬県前橋市)を北関東制圧の拠点とした。1569年には北条氏康に請われて上野(こうずけ)一国(群馬県)の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣(にゅうし)(上杉景虎)を条件に講和し、武田信玄を共同の敵とするが、1573年(天正1)信玄の死後は、北陸から朝倉義景(よしかげ)や一向一揆を滅ぼして国境に迫った織田信長軍との対決が大きな課題となる。天正(てんしょう)6年3月13日中気(脳溢血(のういっけつ))により春日山城中で没した。49歳であった。軍事的行動半径の広さや神仏信仰、名分の重視などによって知られる。法名は不識院殿真光謙信、高野山(こうやさん)清浄心院に葬る。
終生妻をめとらず、死の直後から2人の養子、春日山城に拠(よ)った景勝、府内御館(おたて)に拠った景虎の間で越後を二分した抗争3年にわたる御館の乱が続き、かつての豪族連合的な謙信の支配の形は一変し、争乱に勝った景勝の下で、その実家上田長尾家の勢力と新参の北信衆を中心とした独裁が実現する。
越後国の戦国大名,関東管領。父は守護代長尾為景。幼名虎千代,元服後は平三景虎。1543年(天文12)父為景の死後,古志郡栃尾城に移り,48年末兄晴景に代わって越後守護代,事実上の国主の座につく。当初,一族長尾政景と抗争したがこれと和し,越後統治の障害を除いた。52年弾正少弼に任じられ,翌年春上洛,このころ入道して宗心と称した。武田信玄に追われた北信濃の村上,高梨氏らから救援要請をうけると,信濃川中島に出兵した。武田信玄との対陣は以後5回におよぶが,川中島の戦として有名なのは,4回目のもので,このときだけ両軍の衝突がおこった。信濃出兵は,概して信玄の老練な外交戦にふりまわされ,所期の成果をあげることなく終わり,北信深く武田氏の進出を許す結果となった。また,後北条氏の圧迫によって52年関東管領上杉憲政が越後に逃れて来ると,その後は関東方面にも兵を送らねばならなくなった。61年,関東越後の軍兵をひきいて長駆小田原に北条氏康を攻囲したが,事態の変化のないまま囲みをといて鎌倉にひき返し,鶴岡八幡宮で憲政から譲られた上杉姓と関東管領職をつぎ,名を上杉政虎と改めた。帰国後に前述の第4次川中島合戦を戦い,年末には再び関東に出て北条氏康と戦って越年したが,このころから室町将軍足利義輝の偏諱(へんき)をうけて輝虎と称する。これ以後は連年関東に出て後北条,武田両氏とせめぎあいを続けるが,関東管領の威令を示しえないまま後北条氏勢力の拡大を許す結果となった。68年(永禄11)越後村上の本庄繁長が武田信玄に誘われて籠城,翌年下すが,この間に信玄の攻撃をうけた北条氏康の要請をいれて,70年には越相同盟を結んだ。このころから謙信を称するようになる。越相同盟は氏康の死によって2年後には破れてしまった。この時期から,越中への出陣が多くなり,信玄と結ぶ一向一揆と戦うが,73年(天正1)信玄の死により戦局を打開し,越中から能登に進んで七尾城を落とし,織田信長と北陸で接するようになるが,77年には織田軍を加賀で打ち破った。数年ぶりの関東出陣を目前にした78年,謙信は春日山城内で急死した。越後国内は養子景勝,景虎の2人の間に御館(おたて)の乱とよばれる跡目争いの戦乱がくりひろげられ,謙信の領国は一時的に崩壊することになる。
謙信の領国統治をみると,前代の統治方式,すなわち幕府・関東管領・守護体制の枠内にとどまるもので,他の戦国大名のように分国法制定や領内検地という独自の政策を実施していない。家臣団の編制の面では,知行給与と一定の軍役徴収は晩年になるまでみられず,知行安堵・新恩給与の事例がほとんどなかった。越後では,家臣=国人の独立性が強かったこともあるが,春日山城中での席次序列や,名字付与のような家礼上の厚遇,親疎関係をのぞけば,家臣団編制,統制上の特徴はみられなかった。このことは,連年の戦陣における謙信の動員した軍事力にも影響し,動員軍は,一門と旗本衆のほか謙信擁立地域の古志・蒲原郡を中心とした兵農未分離の半農兵を用い,国人層の動員は必ずしも多くなかった。領国化した地域の統治も,晩年の越中や能登では旗本衆の在番支配をうち出すが,それまでは従来の領主支配をそのまま承認したから,謙信の撤退後は旧に復してしまう例が多かった。総じて,上洛,関東管領就任にみられるように,幕府体制に依存する姿勢が強かったとみられる。信仰の面では,早く出家し禅宗への接近もみられたが,むしろ,武田晴信打倒祈願の願文や毘沙門天信仰にみられるように現世利益的傾向も強かった。
新版 日本架空伝承人名事典
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