江戸中期の学者、詩人、政治家。名は君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。明暦(めいれき)3年2月10日江戸に生まれる。父正済(まさなり)(1597―1678)は久留里(くるり)(千葉県君津(きみつ)市)2万1000石の譜代(ふだい)大名土屋利直(つちやとしなお)(1607―1675)の家臣で目付の職にあったが、白石もこれに仕えて利直の寵愛(ちょうあい)を得た。1677年(延宝5)21歳のとき土屋家の内争に連座して追放禁錮(きんこ)の処分を受けたが、1679年土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)26歳に至り大老堀田正俊(ほったまさとし)へ出仕した。ところが1684年(貞享1)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたった。1693年、師木下順庵(きのしたじゅんあん)の推薦により甲府綱豊(こうふつなとよ)へ出仕し、侍講として儒教経典および歴史の講義を担当した。この時期の歴史編纂(へんさん)物が有名な『藩翰譜(はんかんぷ)』である。やがて1704年(宝永1)甲府綱豊が5代将軍綱吉(つなよし)の世継ぎとなり、家宣(いえのぶ)と改名して西の丸に入るや、白石も召されて西の丸寄合(よりあい)となった。いままで同様、経書、史書の講義を担当したが、のち家宣の求めにより政治上の意見書をも提出するようになり、1709年(宝永6)綱吉の死により家宣が将軍となってからは、幕府政治に深く参加することとなった。身分についていうと、この年500石の領地を与えられて旗本の列に加えられ、のち1711年(正徳1)には従(じゅ)五位下・筑後守(ちくごのかみ)に叙任されるとともに、加増されて1000石の領主となる。幕政への参加のなかでも重要な意味をもつのは、金銀貨の改良、日朝外交の修正(将軍書翰(しょかん)様式や朝鮮使節応対などの変更)、海舶互市新例(かいはくごししんれい)(外国貿易制限)の実施などである。そのほか皇子皇女の出家廃止の建議、潜入宣教師シドッチの処分案上呈(シドッチ取調べの結果生まれたのが『采覧異言(さいらんいげん)』『西洋紀聞(せいようきぶん)』)、宝永武家諸法度(ほうえいぶけしょはっと)の草案作成などがあり、大小のむずかしい裁判にも参加して数々の名判決を出させてもいる。1712年(正徳2)10月家宣が没したため、二大事業ともいうべき金銀貨改良、外国貿易制限はともに次の7代将軍家継(いえつぐ)の代まで持ち越されるが、これらは8代将軍吉宗(よしむね)の時代にも継続された政策として史的意義が深い。この6、7両代にわたる善政がいわゆる「正徳(しょうとく)の治」である。
白石は系統をいえば朱子学派に属する儒学者であるが、哲学、倫理学よりは歴史学を得意としたのであり、その業績には『藩翰譜』のほか、将軍への進講録『読史余論(とくしよろん)』、古代史としての『古史通(こしつう)』『古史通或問(わくもん)』があり、自叙伝『折たく柴の記』も当時の現代史としての内容を備えている。上記のほか、最晩年に心血を注いで完成した作品に『史疑(しぎ)』があるが、これはいまは伝わらず、わずかに『白石遺文(いぶん)』中の古代史関係論文がそのおもかげを伝えるのみである。なお、学者白石としての業績は哲学、倫理学、史学のほか、地理学、言語学(とくに国語学)、文学(詩)、民俗学、考古学、宗教学、武学(兵法武器)、植物学(本草学)など広範囲にわたっており、国語学の『東雅(とうが)』は国語辞典の先駆として、国学者賀茂真淵(かもまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)に大いに利用された。文学の『白石詩草』は近世漢詩集の代表として、北海道・千島およびアイヌ研究書の『蝦夷志(えぞし)』、沖縄についての最初の体系的解説書の『南島志(なんとうし)』は民俗学上の傑作として、それぞれ高く評価されている。『采覧異言』『西洋紀聞』の史的役割の大きいことは改めていうまでもない。この学問の領域の広い点では、ボルテールやディドロ、ルソーらフランス18世紀の百科全書派(アンシクロペディスト)に比肩するとされる。
白石は近世後期、18世紀ごろからは荻生徂徠(おぎゅうそらい)にかわって第一級の学者として評価されるが、在世当時およびそれに近い時期においてはむしろ詩人として、日本最高の詩人として尊敬されていたのである。前記『白石詩草』は朝鮮、琉球(りゅうきゅう)、中国清(しん)朝にも伝わって絶賛を博したし、国内でも荻生徂徠が一目置いたほか、服部南郭(はっとりなんかく)や頼山陽(らいさんよう)によって仰ぎ見られたのである。近代になると、その洋学と合理主義史学とによって学界でとくに尊重され、相次いで著書、全集の刊行が行われるが、その代表著は翻訳されて欧米でも広く読まれている。享保(きょうほう)10年5月19日没、浅草報恩寺に葬る(墓は現在、中野区高徳寺にある)。
2016年4月18日
江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人,天爵堂など。新井家はもと常陸国下妻城主多賀谷氏に仕えたが,関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う。父正済(まさなり)は江戸へ出奔し,当時流行のかぶき者のような生活を送った。やがて上総国久留里土屋利直に仕え,信任を得て目付を務めたが,お家騒動にまきこまれ,1677年(延宝5)父子ともに土屋家を追い出され,他家への奉公も禁ぜられた。牢人中豪商角倉了仁や河村瑞賢から縁組の話があったが,白石はこれに応ぜず,土屋家が断絶して他家へ仕官も可能となったので,82年(天和2)大老堀田正俊に仕えた。正俊の死後,91年(元禄4)堀田家を去り,再び牢人生活に入った。彼は青年時代まで独学ですごしてきたが,1686年(貞享3)木下順庵に入門し,高弟として木門の五先生または十哲の一人に数えられるに至った。93年順庵の推挙により甲府藩主徳川綱豊(6代将軍徳川家宣)の侍講となり,1704年(宝永1)家宣が叔父5代将軍綱吉の養子となったとき,彼も幕臣として寄合に列せられた。09年家宣が将軍となると,その厚い信任のもとに幕府政治に発言の場を得,幕政の改善につとめた。彼は家宣を中国古代の聖人のような理想的君主にしようと講義につとめ,政治上の実践として礼楽振興に力を尽くし,仁愛の精神をもって人民に臨むことを主張した。11年(正徳1)従五位下筑後守に叙任,知行地1000石を与えられた。翌12年家宣の死後も側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍家継を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などに努力した。その活躍の時期は〈正徳の治〉とも称される。しかし彼の政治論はあまり理想にすぎ,彼の性格は圭角多く他人と妥協するところがなかったので,しだいに間部詮房とともに孤立の状態となり,16年(享保1)吉宗が将軍となると政治上の地位を失い,晩年は不遇の中に著述にはげんだ。
白石は朱子学派に属するが,漢籍ばかりでなく日本の文献にも豊かな知識をもち,それに合理的・実証的見解を加えたところに独自性がある。歴史では各大名家の事跡を系譜的に述べた《藩翰譜》,摂関政治から家康制覇に至る間の政治の変転を論じた《読史余論》,神話に合理的解釈を試みた《古史通》があり,地誌には蝦夷地,琉球の最初の地誌というべき《蝦夷志》《南島志》《琉球国事略》のほか,イタリア人宣教師シドッチの尋問によって得た知識に基づく《西洋紀聞》《采覧異言》は,鎖国下に世界事情を紹介した著書として早期に属する。彼は言語・文字の研究でも先駆者で,《東雅》は国語の名詞の語源とその変遷の考証,《東音譜》は五十音の音韻の研究,《同文通考》は漢字の起源と日本の神代文字,かな,国字などを論じた著述である。白石の文章はとくに和文の叙述に特色があり,その代表作というべき自叙伝《折たく柴の記》は,また同時代の幕政その他についての貴重な史料でもある。25年5月19日死去,墓は浅草の報恩寺にあったが,現在は中野上高田の高徳寺に移されている。
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