江戸末期の幕府の大老。彦根(ひこね)藩第13代藩主。日米修好通商条約を違勅調印し、安政(あんせい)の大獄の中心人物。桜田門外で暗殺された。文化(ぶんか)12年12月29日、彦根藩35万石の第11代城主直中(なおなか)の十四男として彦根城内に生まれる。母は側室お富の方(江戸麹町隼(こうじまちはやぶさ)町伊勢屋(いせや)十兵衛の女(むすめ))。父50歳、母31歳のときの子で、直中はすでに家督を直亮(なおあき)(三男、第12代藩主)に譲っていたから、両親の愛を一身に集めて成長した。1831年(天保2)17歳の直弼は、井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持(あてがいぶち)をもらい、彦根城中の槻(けやき)御殿を出て、第三郭の尾末町(おすえまち)の北の御屋敷に移った。この北の御屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。この埋木舎は「これ世を厭(いと)ふにもあらず、はた世を貪(むさぼ)るごときかよわき心しおかざれば、望み願ふこともあらず、たゞうもれ木の籠(こも)り居て、なすべき業(わざ)をなさましとおもひ設け」(埋木舎の記)たものであった。この埋木舎時代に「なすべき業」として、直弼は禅、居合(いあい)、兵学、茶道(代表作『茶湯一会集(いちえしゅう)』あり)など教養を積んだ。さらに国学者長野義言(よしとき)(通称主馬(しゅめ)、のち主膳(しゅぜん)、号を桃廼舎(もものや))に師事し、国学、歌道、古学などを学び、また彼を重用した。
1850年(嘉永3)直亮の死去により直弼は彦根藩を襲封、掃部頭(かもんのかみ)と称した。ときに数え年36歳。1853年のペリー来航以降、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌1854年(安政1)の日米和親条約で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。開国政策をとった老中堀田正睦(ほったまさよし)(佐倉藩主)は溜間詰(たまりのまづめ)大名に支持されたが、これらの譜代(ふだい)大名を牛耳(ぎゅうじ)っていたのが直弼であり、攘夷(じょうい)主義をとった徳川斉昭(なりあき)(1800―1860)以下、松平慶永(よしなが)(春嶽。越前(えちぜん)藩主)、島津斉彬(なりあきら)(薩摩(さつま)藩主)らによって代表される大廊下詰(おおろうかづめ)家門(かもん)大名、大広間詰外様(とざま)大名としだいに対立するに至った。この対立は第13代将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣(けいし)問題と絡んでいっそう先鋭となり、家門・外様大名一派(一橋(ひとつばし)派)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜(よしのぶ)(斉昭第7子)を担いだのに対し、直弼ら譜代大名の派(南紀派)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を推した。
1858年(安政5)直弼は大老に就任、将軍継嗣には慶福を決定し、さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。継嗣問題に敗れた一橋派は違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がり、ここに反幕運動としての尊攘運動に火がついた。幕府の危機をみてとった直弼は徹底した弾圧策をとり、翌1859年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。直弼の論理は大政委任を受けた幕府が「臨機の権道」をとるのは当然で、「勅許を待(また)ざる重罪は甘んじて我等(われら)壱人に受候決意」(公用方秘録)というにあった。しかし、直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。井伊直弼の評価は「不忠の臣」とか「開国の恩人」など、時代によって大きく振幅がある。
江戸末期の大老,彦根藩主。掃部頭と称した。1850年(嘉永3),長兄直亮の死により13代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は,開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。53年(嘉永6)にペリーが来航した直後に,幕府の諮問にこたえて,積極的に商船を海外に派遣し国威を示すことが皇国の安泰の道であるという意見書を出し,58年(安政5)1月,老中堀田正睦(まさよし)に日米修好通商条約の調印はやむをえないという意向を伝えたのも,そのためであった。この点で攘夷論を主張し続けた徳川斉昭(なりあき)とは,意見を異にしていた。将軍継嗣問題は,1853年10月,徳川家定が13代将軍となったときから表面化した。直弼を中心とする譜代大名は,家定の継嗣として紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を推し,斉昭は雄藩の諸大名とともに一橋慶喜を推した。両派は激しく争ったが,58年初め,斉昭らは朝廷に働きかけて継嗣を慶喜に定めるとの勅命を得ようとし,幕府の条約勅許奏請の運動を妨害した。このような情勢下に,58年4月23日,直弼は大老に就任し,6月19日には勅許を得られないままに日米修好通商条約に調印し,25日には慶福を将軍継嗣と定めた。また,これに反対した斉昭,徳川慶恕,松平慶永に謹慎を命じ,徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。8月8日,幕府の条約調印は遺憾であるという内容の勅諚が水戸藩へ下った(戊午(ぼご)の密勅)。これが前例になると幕府の存在は有名無実になると考えた直弼は,この降勅を画策した反対派の勢力に,徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が58年9月から59年10月にわたった〈安政の大獄〉である。公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では,直弼への反感が強まり,60年3月3日,直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,すぐれた才能を発揮した。とくに茶道は,石州流を学んでみずから一派を立て,著書に《茶湯一会集》《閑夜茶話》があり,茶道の号を宗観という。また歌集《柳廼四附(やなぎのしずく)》がある。
桜田門外の変を舞台化することは江戸期には法的に禁じられていたが,河竹黙阿弥の手で,曾我の世界に脚色,雪中に曾我兄弟が祐経の乗物に近づく趣向を構え《蝶千鳥須磨組討(ちようちどりすまのくみうち)》(1863年2月,江戸市村座)として上演したが中止を命じられた。明治初年には解禁となり歌舞伎化も試みられたが,史実を劇化するには1920年7月東京歌舞伎座の《井伊大老の死》(中村吉蔵作)をまたねばならなかった。この作では社会劇的な歴史劇として,幕府崩壊期に苦悩しつつ自己の政策を断行する宰相直弼が形象化された。以下,《井伊大老》(1953年10月,東京明治座,北条秀司作)や《花の生涯》(1958年10月,東京新橋演舞場,舟橋聖一原作・北条誠脚色)などがあり,側室静の方もしくは長野主膳の愛人たか女らとともに人間的な側面をも描出したが,51年のサンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印の時代が作品の背後にあったことも見落とせない。
新版 日本架空伝承人名事典
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