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  11. 岩倉具視

岩倉具視

ジャパンナレッジで閲覧できる『岩倉具視』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
岩倉具視
いわくらともみ
一八二五 - 八三
幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって、天保九年(一八三八)岩倉具慶の嗣となり、具視と名のった。岩倉家は村上源氏で久我家の支流であり、遠祖具起が江戸時代初期に岩倉を称した。嘉永六年(一八五三)、関白鷹司政通の門に入り朝廷改革の意見を政通に述べた。その引きで安政元年(一八五四)、孝明天皇の侍従となり、ついで近習となって、天皇側近に仕えこれが政治への接近となった。同五年、日米修好通商条約調印の勅許奏請のため老中堀田正睦が上京すると勅許阻止をはかって中山忠能以下公家八十八人の列参を画策して堀田を窮地に追いこんだ。このとき「神州万歳堅策」を内奏した。ついで和宮降嫁問題がおこると、公武合体による朝権回復の策として孝明天皇を動かしてそれを推進した。文久元年(一八六一)、和宮に従って江戸に下り、将軍徳川家茂自筆の誓詞を獲得して帰った。二年、島津久光が入京し公武合体運動に乗り出し、江戸に勅使派遣を要請すると、鹿児島藩の意向をいれた対幕府「三事策」をまとめて同藩を支持し、これから鹿児島藩と結びつくようになった。しかし、和宮降嫁推進が尊攘派の糾弾するところとなってこの年八月、同志とともに辞官落飾を命ぜられ、名を友山と改め、洛北岩倉村に幽居、慶応三年(一八六七)まで追放の身となった。この間、政局は文久三年八月十八日の政変、翌元治元年(一八六四)の禁門の変についで長州征伐へと情勢が急転した。岩倉村には非蔵人松尾相永をはじめ香川敬三・井上石見らが出入りして情報を伝えた。持論の王政復古による国内統一を推進するために「叢裡鳴虫」「全国合同策」「済時策」などの政治意見書を起草し、朝廷・鹿児島藩の同志へ贈った。慶応二年、将軍徳川家茂が急死すると徳川慶喜の将軍就任を阻止して一挙に王政復古を実現せしめようとはかり、同志の中御門経之を動かして有志公家の列参建議を行わしめて、朝廷改革・列藩召集を天皇に上奏せしめた。しかし、これが慶喜側の運動で成功おぼつかなしとみると、方針を転じて鹿児島藩に働きかけたがこれも低迷する間に慶喜の将軍宣下、孝明天皇の崩御によって情勢が一転してしまった。慶応三年三月、入洛を許された。長州処分と兵庫開港勅許問題をめぐって慶喜と島津久光が衝突し、これをきっかけに鹿児島藩は萩藩と連合の下に討幕に向かい、高知藩はこれを牽制すべく大政奉還運動を始め、ついに薩長討幕派の圧力でこの年十二月九日、王政復古の政変となった。この際、岩倉は中御門経之・中山忠能・正親町三条(嵯峨)実愛らの王政復古派の公家とともに参画し、大久保利通と実現の手順を謀議、また玉松操を用いて王政復古の新政構想の立案にあたらしめた。王政復古挙行の夜の小御所会議では慶喜擁護論を説く高知藩の山内容堂を押えて慶喜処分を決した。岩倉はこの日、新政府の参与、ついで議定となった。明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦の後、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相となるなど以後終始、新政府の中心人物となった。新政開始にあたって特に朝廷改革に力を注いだ。同二年、東京に移る。七月官制改革で大納言となり、復古功臣賞典として永世禄五千石を受ける。三年、民部省御用掛、年末に勅命で鹿児島・山口に赴く。四年、廃藩置県後の改革で外務卿となり、ついで右大臣となる。この改革で旧公家では三条実美と二人が政府の枢位にとどまり、しかもその中心として重きをなした。十一月、特命全権大使として欧米各国に赴き条約改正の予備交渉を行い、六年帰朝すると征韓論争で政府が分裂、三条太政大臣の病中その代理となり、非征韓派の大久保利通一派を支持した。七年、赤坂喰違で土佐士族武市熊吉らに襲わる。華族会館創設にあたりこれを指導し、皇室の藩屏として華族の同族的結集をはかり、ついで同館内に部長局が設けられると督部長となり、華族仲間の総監督となる。八年、大阪会議の結果、元老院が設けられ、翌九年から国憲編纂が始まると、立憲政体は日本の固有の国体に変更をきたすと反対の意向を示して、次第に保守的態度をとるようになった。九年、天皇の奥羽巡幸に扈従、西南戦争後、自由民権運動が高揚するとその抑圧に苦慮し、対策として諸参議の憲法意見を徴したほか、士族擁護のための士族授産の議などの意見を提出した。十四年、参議大隈重信のイギリス風の憲法意見をきっかけに太政官大書記官井上毅がプロシア風の欽定憲法構想を提出するとこれを採用して政府の憲法制定方針を確定し、同時に参議伊藤博文を起草者に指名した。ついで、十年後の国会開設の勅諭、大隈参議追放の明治十四年の政変を推進した。その後も府県会中止の建議、皇室財産の確立策に力をいれ、宮内省の国史編纂の主宰にあたり、また華族財産保護のための第十五銀行創設、同じく華族の事業として日本鉄道会社の設立をはかるなど皇室擁護のために執念を燃やした。しかしこれより先、胃癌を病み、明治十六年七月二十日病没。五十九歳。墓は東京都品川区南品川の海晏寺にある。贈太政大臣、のち贈正一位。華族令の制定により嗣子具定は公爵に列する。
[参考文献]
『岩倉具視関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、『岩倉贈太政大臣集』、宮内省編『岩倉公実記』、徳富猪一郎『岩倉具視公』
(大久保 利謙)


日本大百科全書(ニッポニカ)
岩倉具視
いわくらともみ
[1825―1883]

幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。1858年(安政5)幕府の老中堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、同志の公卿とともに、条約一件を朝廷が幕府に委任することに反対して、大原重徳(おおはらしげとみ)らと提携、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷(じょうい)のための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。
明治新政府の成立とともに、参与、議定(ぎじょう)から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、永世禄(えいせいろく)として5000石を授けられた。さらに版籍奉還、廃藩置県にも奔走し、1871年(明治4)には右大臣に昇任した。また同年、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれを退けた。そのため、1874年東京の赤坂喰違(あかさかくいちがい)において征韓派の不平士族たちに襲われた。
その後、自由民権運動の高揚に対して、岩倉は天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用し、それを推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝国憲法の枠組みが示されていた。また岩倉は皇室財産の拡充、日本鉄道会社の設立にも関与するなど、三条実美や大久保利通らと協力、最高の実権者の一人、絶対主義政府の専制支配者として行動した。明治16年7月20日、59歳で没。国葬。没後贈正一位、太政大臣(だじょうだいじん)。
[石塚裕道]



世界大百科事典
岩倉具視
いわくらともみ
1825-83(文政8-明治16)

明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政5)には,幕府の要求する日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに〈四奸〉の一人としてねらわれた。62年,辞官落飾,法名は友山,京都の岩倉村に潜居した。この幽居中にも朝権の確立をめざした〈叢裡鳴虫〉や朝廷中心の国権一元化構想を示した〈全国合同策〉などを草し,また,廷臣や薩摩藩士らと画策して倒幕運動を進めた。66年(慶応2)末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた。翌年,明治天皇のもとで勅勘が許され,〈王政復古〉クーデタで参与となり,以後,新政府において,議定,副総裁,権大納言,大納言,右大臣など,中枢に位置した。この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ,永世禄5000石を下賜されている。71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧,アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツではビスマルクやモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。帰国後,73年のいわゆる征韓論に対しては,大久保,木戸らと反対し,明治6年10月の政変の結果,大久保政権が実現した。74年,赤坂喰違坂で征韓論支持者に襲われ,76年には従一位となり,また,勲一等に叙せられ,旭日大綬章を授けられている。この年,華族会館長に推任され,以後77年第十五銀行(華族銀行),81年日本鉄道会社をおこして華族のために尽力するとともに,士族授産にも努力した。政体確立をめざした岩倉は,外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき,自由民権運動とはまっこうから対抗した。78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。岩倉の病状をみとったドイツ人ベルツは,岩倉を評して〈全身ただこれ鉄の意志〉と述べた。この〈鉄の意志〉は,幕末以来岩倉がつねにクーデタないし政変の推進者または協力者であったことに示されており,それはまた彼が権謀術数の政治家であったことを物語っている。
[田中 彰]

[索引語]
四奸 叢裡鳴虫 全国合同策 井上毅 ベルツ,E.von
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38. イギリス画像
日本大百科全書
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40. 一世一元の制
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41. いっせいいちげんのせい【一世一元の制】
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47. 井上毅画像
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50. いのうえ-こわし【井上毅】画像
日本人名大辞典
れ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて頭角をあらわし,岩倉具視(ともみ)の側近として明治十四年の政変を画策。19年から伊藤 ...
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岩倉具視と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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