明治時代の代表的な藩閥政治家。公爵。長州藩出身。天保(てんぽう)12年9月2日、周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡の貧農の家に生まれる。幼名利助(りすけ)、のち俊輔(しゅんすけ)。春畝(しゅんぼ)と号した。父十蔵が家族ぐるみで伊藤家を継いだため、士分の最末端に籍を置くことになった。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、のち高杉晋作(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷(じょうい)運動に挺身(ていしん)、1862年(文久2)のイギリス公使館焼打ちにも参加した。翌年藩命によりイギリスに留学、1864年(元治1)ロンドンで米英仏蘭(らん)四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急ぎ帰国、藩主らに開国への転換を説いたが、いれられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳らの処置に憤激して高杉らと挙兵、この藩内戦に勝利し、以後藩主流派として藩政改革に参画、おもに対外交渉の任にあたった。
1868年(明治1)明治政府の外国事務掛として出仕、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事を歴任、翌年陸奥宗光(むつむねみつ)らと当面する政治改革についての建白を提出、早くも開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔(しょうゆう)兼民部少輔となり貨幣制度の改革を担当、1870年には財政幣制調査のためアメリカに出張、翌年の金本位制の採用、新貨条例の公布に導いた。1871年岩倉使節団の副使として米欧に出張、その間に大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得ることになった。1873年帰国後の政局で大問題となった征韓論争には、大久保、木戸孝允(きどたかよし)を支持して征韓派を退け、その直後の政府改造で参議兼工部卿(こうぶきょう)となった。1875年には、その前年に台湾出兵に反対して下野していた木戸の政府復帰を図って大阪会議を斡旋(あっせん)、漸次立憲制への移行方針と元老院、大審院などの創設を決定した。
士族反乱や西南戦争の処理を終わって、新しい体制への移行を試みようとしていた大久保が1878年に暗殺されると、その後を継いで内務卿となり、明治政府の中心人物となった。琉球(りゅうきゅう)処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。他方、元老院起草の憲法案が政府首脳を満足させず、諸参議の憲法意見を徴することになり、1881年大隈重信(おおくましげのぶ)の急進的な憲法意見が提出されると伊藤はこれと対立、同年のいわゆる明治十四年の政変によって大隈ら開明派官僚をいっせいに追放するとともに、1890年の議会開設を約束した政変劇の主役となった。翌1882年渡欧し、ドイツ、オーストリアで憲法調査にあたり、帰国後の1884年宮中に制度取調局を創設してその長官となり、立憲制への移行に伴う諸制度の整備に着手した。同年華族令を制定して新しい華族を皇室の藩屏(はんぺい)としたのをはじめ、1885年には太政官(だじょうかん)にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らと憲法、皇室典範のほか貴族院令、衆議院議員選挙法などの草案の起草に着手し、1888年枢密院が新設されるとその議長として憲法草案などの審議にあたった。
1889年(明治22)大日本帝国憲法の発布直後に、「超然主義」の立場を鮮明にし、政党の動向を顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)両内閣の議会運営に助言を与え、民党との対立が激化すると、1892年自ら政党結成に着手しようとするが、果たせなかった。松方内閣の倒壊後は、元勲を網羅して第二次内閣を組織し、条約改正を実現し、日清(にっしん)戦争の遂行にあたった。1898年第三次内閣を担当するに際しては自由・進歩両党との提携に失敗し、戦後経営の財源として議会に地租増徴案を提出して政党側の激しい反対にあうと、政府党結成に着手するが、政府部内からの反対もあって挫折(ざせつ)、挂冠(けいかん)(辞職)した。その後、朝鮮、中国の視察旅行に出発、中国情勢の緊迫化を痛感して帰国。そうした情勢に対応できる国内体制の再編強化を企図して政党改造を構想、1900年(明治33)立憲政友会を結成し、その総裁となる。同年政友会を背景に第四次内閣を組閣したが、翌1901年には貴族院の根強い反発にあい、さらに財政方針をめぐる閣内不統一のため総辞職した。この年日英同盟論がおこると、日露協商の可能性に期待して訪露するが、具体的な成果は得られず、結果的には1902年の日英同盟締結を促進する役割を果たした。帰国後は、野党の立場を貫こうとする政友会の統率に苦悩し、1903年には総裁を辞任して枢密院議長に就任し、元老身分に復帰した。
以後元老として内外の重要政策の決定に関与し、とくに日露戦争の遂行と戦後における朝鮮問題、満州問題の処理には重要な役割を果たした。1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任、韓国の外交権を掌握し、逐次内政の諸権限を収奪して植民地化を進め、韓国併合への地ならし役を務めた。1909年(明治42)統監を辞任し、同年10月、日露関係を調整するためロシアの蔵相ココーフツォフと会談するため渡満、26日ハルビンに到着した際、駅頭で韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に暗殺された。
幕末の長州藩で尊王攘夷運動に活躍し、イギリスへの留学が欧米への開眼となり、とくに明治維新以後は国際通として欧米列強の動向を慎重に顧慮しながら内外政策を推進した。他方、対朝鮮・中国政策の面では強硬姿勢をとり、日清戦争の講和交渉や、日露戦争中から戦後における対韓政策などでは、日本の利益実現のため強圧的交渉を推進している。国内政策の面では、明治初年より開明派と目され、諸制度の近代化を積極的に推進するとともに、立憲制への転換を主導した。議会開設にあたっては、当初「超然主義」を宣言して政党無視の立場をとろうとしたが、初期議会の経験から政党の必要を痛感すると、自ら政党組織に乗り出すなど、状況の変化に対して柔軟な政治姿勢を示した。こうした政治路線は、山県有朋らの保守派官僚層との対立を表面化させることになり、彼らは外交面で伊藤の立場を軟弱外交として攻撃し、またその政党結成に対しても拒否的反応を示した。しかし、明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を行使した。
明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。幕府の第1次長州征伐に対する藩首脳の処置に反対して高杉らと挙兵,藩内戦に勝利して藩の主導権を握り,幕府との武力対決に備え諸改革を進める中でとくに武器の輸入や他藩との交渉の任に当たった。
1868年(明治1)外国事務掛として明治政府に出仕し,参与兼外国事務局判事,兵庫県知事を歴任,翌69年には陸奥宗光らとともに中央集権化構想を含む政治改革案を建白し,木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔に転じ民部少輔を兼任,鉄道建設や貨幣制度の改革を推進した。さらに71年には遣外大使岩倉具視の副使となって米欧に出張(岩倉使節団),その間に同行した大久保利通の信任をえた。73年帰国,政府内で問題化していた征韓論争では岩倉・大久保らを支持して征韓派を退け,その後の政府改造により33歳の若さで参議兼工部卿に就任した。75年には前年の台湾出兵に反対し下野していた木戸の政府復帰のために大阪会議を斡旋し,漸次立憲政体に進むとの詔勅や,元老院・地方官会議の新設など,政治体制の一定の改革を実現した。
78年大久保の横死後,内務卿を継いで政府の中枢に位置し,明治14年の政変では進歩的な立憲政体を構想する参議大隈重信とそのグループを政府から追放するとともに,90年の議会開設を約束する詔勅を出して自由民権運動の鎮静化をはかった。1882年に渡欧してプロイセンの憲法ならびに諸制度の調査に当たり,帰国後,華族令の制定をはじめ立憲体制への転換に対応する一連の制度改革に着手した。
85年12月内閣制度を創設して初代首相に就任し薩長両藩出身者を中心に第1次内閣を組織した。議会開設に備えて官僚組織を整備し,市制,町村制など,地方名望家層中心の地方制度確立をはかるとともに,小学校令から帝国大学令に至る一連の学校令を制定して戦前における基本的な教育体系を整えた。また,87年外相井上馨の下で進めてきた条約改正に反対する声が政府内からおこり,さらに民間からも旧民権派などを中心に大同団結運動,三大事件建白運動が高まると,改正交渉を中止し,井上外相を辞任させるとともに,12月には保安条例を公布して反政府運動を弾圧した。この間,伊藤首相と井上毅,伊東巳代治,金子堅太郎らの手によって大日本帝国憲法,皇室典範ならびに憲法付属の法典の起草が進められていたが,それらの審議のため88年4月には枢密院を新設し,伊藤は首相を辞任して議長に就任,各草案の審議を主導した。
帝国議会の開会に当たって,90年には初代の貴族院議長となり,山県有朋・松方正義両内閣が民党からの攻撃に直面した議会の運営に助言を与え,92年にはみずから政党結成をも企図した。同年8月組織した第2次内閣は閣僚に元勲層を網羅する強力内閣として民党と対抗,翌93年には懸案の軍艦建造費を詔勅によって実現した。さらにこの内閣の条約改正に反対する対外硬運動の高まりに対しては再度衆議院を解散して交渉を続け,ついに94年7月日清戦争開戦の直前に日英通商航海条約を調印し,法権と一部税権の回復に成功した。また日清戦争に際しては強引な開戦外交を展開し,一応挙国一致の態勢による戦争指導に成功するが,95年日清講和条約の調印直後に三国干渉をうけて遼東半島の還付を余儀なくされ,再び対外硬派の批判をうけることになった。そのため軍備拡張を中心とする戦後経営の実現が必至の課題となり,第9議会では自由党の支持をとりつけて膨張した予算案ならびに関連諸法案を通過させ,閉会後には自由党総理である板垣退助の入閣を実現した。さらに進歩党の指導者大隈重信を入閣させて挙国一致内閣をめざしたが,閣内不統一となって96年8月総辞職した。
98年1月伊藤は第3次内閣を組織し,自由・進歩両党との提携を策して失敗,第12議会に提出した地租増徴法案が両党の反対で否決されたため衆議院を解散した。その一方で政党結成に乗り出すが,山県らの強い反対にあって挫折し,6月総辞職した。その後,清国を遊歴して帝国主義諸列強によって租借地や利権が獲得されている実態を直視して帰国,国内体制の強化を緊急の課題であると認識し,政党結成に着手,1900年9月には伊藤系官僚と憲政党を中心に立憲政友会を創立して総裁に就任した。10月政友会幹部を閣僚として第4次内閣を組織したが,第15議会に提出した増税案がその政党内閣的な色彩に反発する貴族院各派の反対に直面し天皇の詔勅によってかろうじてその難局を切り抜けた。しかし次年度の財政政策をめぐって閣内対立し,01年5月総辞職した。これ以後,政友会総裁として桂太郎内閣との折衝を任とする一方,元老として日露協商の可能性を打診するため訪露するが,政府の推進する日英同盟の交渉が先行して予期した成果は得られなかった。また,野党化した政友会と桂内閣との利害対立が表面化し,伊藤が推進した妥協策はかえって党内の紛糾を増幅することになり,03年7月総裁を辞任して枢密院議長に就任した。続く開戦前の対露交渉から講和に至るまで日露戦争の全局面を元老の一人として最重要政策の決定に関与し,戦後の05年12月には新設の韓国統監府の初代統監となり,韓国の保護国化を進め,07年のハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させ,内政権を大幅に削減するとともに軍隊を解散した。しかし朝鮮民衆による義兵闘争は高まり,日本政府内にも併合の早期強行論が台頭する中で09年6月統監を辞任,枢密院議長に復帰した。同年10月日露関係の調整のためロシアの蔵相ココフツォフと会談すべく渡満,26日ハルビン駅に到着直後に韓国の独立運動家安重根に暗殺された。
伊藤は幕末の激動の中で貧農の家から身をおこし,明治藩閥政府の官僚として権力の階梯を上って位人臣を極めた。その間,藩閥間の対立を調停したり,敵対していた政党とも提携するなど,妥協性を発揮し,また,国際通をもって自任し対外政策の面では複雑な国際関係を顧慮してつねに慎重な対応を示した。元老中では明治天皇の信任厚く,明治国家が当面していた困難な内外政局を藩閥官僚層の頂点にたって処理したその政治的手腕は凡庸でなかったといえる。
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