明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、慶応義塾の創立者。天保(てんぽう)5年12月12日、大坂の中津(なかつ)藩蔵屋敷で、13石二人扶持(ぶち)の藩士福沢百助(ひゃくすけ)とお順(じゅん)との間に次男として生まれる。2歳のとき父と死別、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰る。母の手一つで育てられたが、彼もまた母をよく助けたという。1854年(安政1)長崎に蘭学(らんがく)修業に出、翌1855年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に入門。1856年兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、洪庵塾に戻り、1858年藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。1859年横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。翌1860年(万延1)咸臨丸(かんりんまる)に艦長の従僕として乗り込み渡米、1862年(文久2)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6か国を歴訪、1864年(元治1)に幕臣となる。1866年(慶応2)これら洋行経験をもとに『西洋事情初編』を書き刊行、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として洛陽(らくよう)の紙価を高める。1867年幕府遣米使節に随従するが、その際かってに大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3か月の謹慎処分を受ける。
1868年(明治1)4月、これまでの家塾を改革し慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。上野戦争のさなかに経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の廃藩置県を歓迎し、国民に何をなすべきかを説く『学問のすゝめ初編』(1872年刊行)を書き、冒頭に「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876)まで書き続けられ、総発行部数340万といわれるベストセラーとなった。ここに啓蒙思想家としての地位を確立した。1873年、当代一流の洋学者たちの結集した明六社(めいろくしゃ)に参加、『明六雑誌』などを舞台に文明開化の啓蒙活動を展開。また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催した。1874年母死去。翌1875年『文明論之概略』を刊行、日本文明の停滞性を権力の偏重にあるとし、西洋文明を目的とし自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説いた。本書は日本最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示した。
そのほか、雑誌『民間雑誌』『家庭叢談(そうだん)』などを刊行して民衆啓蒙に努めるが、しだいにその情熱を失い、1881年の『時事小言』では「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり、我輩(わがはい)は権道に従ふ者なり」と宣言し、1885年には「脱亜論」を発表、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至る。朝鮮の開明派金玉均(きんぎょくきん)らの亡命を保護したりしたが、基本的にはアジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍(ご)していく道を選ぶのである。その間、東京府会議員(1878)、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880)、そして1882年には新聞『時事新報』の創刊に携わる。日清(にっしん)戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、献金運動に奔走。勝利には感涙にむせんだという。晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。明治34年2月3日、脳溢血(のういっけつ)で死去。常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られた。法名大観独立自尊居士。
自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などの高い評価と、西洋崇拝、政府への妥協、一般民衆への非情、権道主義への転向を批判する考えと、その評価はさまざまである。
明治の思想家,教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。学識豊かな教養人でありながら軽格のため不遇に終わった父の生涯,中津における一家の孤立,下士の生活の惨めさは彼のうちに早くから〈封建門閥〉への強い不満をはぐくむ。1854年(安政1)長崎に出て蘭学を学び,翌年には緒方洪庵の塾に入る。58年藩命によって江戸出府,中津藩下屋敷に蘭学塾を開く。60年(万延1)最初の幕府使節のアメリカ派遣に際し,軍艦奉行木村摂津守の従者となって渡米,以後61-62年(文久1-2)のヨーロッパ6ヵ国派遣使節,67年(慶応3)の遣米使節の一員として3回にわたり西欧の文化をその母国において摂し,〈封建門閥〉の重圧の下で実力をのばす機会を模索していた彼は〈変革〉,開国と〈富国強兵〉への構想をはぐくみはじめる。幕末・明治初年のベストセラーとなって日本社会の上下に大きな影響を与えた《西洋事情》(1866-69)は,この文化接触の経験にもとづいて著された。
最初のアメリカ行から帰った年に福沢は幕府外国方に雇われ,1864年(元治1)に召し出されて幕臣となった。幕府内外の情勢,とくに西洋列強の動向からして,初め〈大名連邦〉による事態の打開を考えたが,やがて〈変革〉の目標を〈大君のモナルキ〉,すなわち徳川将軍の絶対主義支配の下での統一国家に求めた。しかし幕府にすでにその実力がないことを知り,他方,尊攘倒幕派を盲目的な排外運動としかみることができなかった彼は,日本の将来を悲観し,68年6月幕府に御暇願を出した。4月には慶応義塾(のちの慶応義塾大学)と正式に名のった私塾によって文明の火種を伝えることに踏み切り,明治新政府への出仕の召しにも応じなかった。71-72年(明治4-5)ころ新政府が意外にも盲目的攘夷とは逆の政策をとっていることを知り,《学問のすゝめ》17編(1872-76)のシリーズを刊行して,天賦の個人の独立・自由・平等を基礎に下から国民国家を形成し,そのような国民国家が〈天理人道〉と〈万国公法〉の下に独立と平等の関係で交わる国際社会を構想した。《学問のすゝめ》は,そのシリーズを中断して著された《文明論之概略》(1875)や《西洋事情》とともに福沢の名を世に高めた。また73年には森有礼,西周(にしあまね),加藤弘之ら当時第一級の洋学者とともに明六社を組織し,79年には東京学士会院の初代会長に選ばれた。
福沢は新政府の開明性に終始大きな期待をかけ,1880年には伊藤博文,井上馨,大隈重信から求められた政府機関紙発行への参加に同意したが,翌年の政変(明治14年の政変)によって裏切られ,新聞による世論形成の念願は82年の《時事新報》創刊として結実し,以後彼の力は同紙と慶応義塾とに集中される。この間,《文明論之概略》執筆のころから,国際環境における権力政治の重圧と読書思索を通じて日本の近代化についての彼の構想は徐々に変化していった。その帰結を示すのが,〈内安外競〉〈脱亜入欧〉〈官民調和〉という一連のスローガンである。《学問のすゝめ》に示された思想構造と違って,国際関係についての見方と国内政治についての見方が分裂し,前者が優先する傾向がこれ以降の彼の思想構造の中にしだいに強まっていく。国際関係における国際法や西欧国家体系への幻滅から,そこに支配するのは力のみという権力政治観に移行する。西洋列強の東アジア進出に対しても,一方では朝鮮や中国の近代国家への変革に期待し,これらの国の独立を防壁として日本の独立を確保する道を模索していたが,84年甲申政変によってかねて支援してきた朝鮮開化派が敗北すると翌年〈脱亜論〉(《時事新報》3月)を著し,日清戦争に際しては軍事的介入による朝鮮の〈文明〉化を説き,戦後には列強の中国分割への割込みを唱えるにいたる。このように熾烈(しれつ)な権力政治において富国強兵を競うために国内の政治的安定を,という目的手段の関係を示すのが〈内安外競〉であり,〈内安〉の中心をなすのが政府と民権運動およびその後身である民党との協調,すなわち〈官民調和〉である。福沢は民権運動の高揚に直面して国会開設を積極的に主張するにいたり,〈内安外競〉〈官民調和〉の構想を打ち出した《時事小言》(1881)およびその前後の一連の著作では,立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって〈官民調和〉を実現するという原理が明確に展開される。しかし彼は明治政府の開明性に過大な期待をかけ,実学教育を受けた士族による産業化と政治への影響力の発展を楽観視した反面,民権運動・民党の大衆的基礎や統治能力を正当に認識できなかった。その結果,初期議会における寡頭制政府と民党との抗争激化に直面して,彼の論評は,責任内閣論にもとづく原理的な論評より民党操作の戦術論に傾き,日清戦争中の城内平和の提唱にいたった。こうして彼は《福翁自伝》(1897)に日清戦争の勝利を目のあたりにした満足感を表しているが,これに前後する《福翁百話》(1897)その他の文章には,日本における資本主義や議会政治の前途についての不安がもらされていることも見逃せない。
福沢はまた日本の保険事業の歴史上大きな貢献をした。欧米各国を巡歴して得た知識をもとに,帰国後1867年に出版した《西欧旅案内》の中に〈災難請合の事〉の章があり,〈人の生涯を請合う事〉〈火災請合〉〈海上請合〉として欧米の生命・火災・海上保険事業を紹介した。さらに80年に著した《民間経済録》の中で〈第2章保険の事〉と題して保険の解説を行うなど,保険の紹介,知識普及に大きな役割を果たした。
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