近代の政治家、元老。嘉永(かえい)2年10月23日、京都の公家(くげ)、徳大寺公純(とくだいじきんずみ)の次男として生まれる。兄実則(さねのり)は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純(ともずみ)は住友家を継ぐ。幼名美丸(よしまる)、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵(とうあん)。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明(こうめい)天皇に近侍。王政復古の際参与(さんよ)、その識見は岩倉具視(いわくらともみ)をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督(ちんぶそうとく)となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口(えちごぐち)大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民(なかえちょうみん)らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。1881年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文(いとうひろぶみ)の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久(まつだまさひさ)、原敬(はらたかし)の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎(かつらたろう)内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰(さた)を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
1920年公爵。山県有朋(やまがたありとも)、ついで松方正義(まつかたまさよし)の死去により、最後の元老として後継首班奏請の全権を握った。要人が西園寺の意向を打診するため訪れた、いわゆる「西園寺(興津(おきつ))詣(もう)で」は有名。この間1924年の護憲三派内閣以後1932年(昭和7)までいわゆる「憲政の常道」の慣行をつくり、政党内閣の黄金時代を維持した。しかし政党の権威はしだいに失墜し、五・一五事件以後軍部の進出に対してもその横暴を断固抑えるのではなく、一時の変調とみなし、斎藤実(さいとうまこと)、ついで岡田啓介(おかだけいすけ)を首相としてファッショ化の波を抑え、政党内閣の復活を図ろうとしたが成功せず、逆に軍部や右翼によって宮中グループの隠然たる大御所と目された。また近衛文麿(このえふみまろ)や木戸幸一(きどこういち)らに希望を託したが成功せず、後継首班推薦の方式もしだいに内大臣を中心とした重臣との協議に切り換え、ファッショ化を憂いつつ92歳の高齢をもって昭和15年11月24日、興津の別邸で死去、国葬をもって遇せられた。娘のしん子に養嗣子(ようしし)として迎えた毛利家の八郎が後を継いだ。西園寺は高雅な文化人として、また桂太郎と対比して脱俗の人として知られた。静岡県興津の坐漁荘(ざぎょそう)は明治村に、京都の清風荘は京都大学の管理下にある。
明治,大正,昭和3代にわたり首相,元老として天皇制政権の中枢にあり,立憲主義の確立,維持に努めた公卿出身の政治家。右大臣徳大寺公純の次男で,幼時に西園寺家を継いだ。ともに摂家につぐ清華の家柄である。王政復古にあたり参与に任じられ,戊辰戦争では山陰道鎮撫総督,会津口征討大参謀となり,越後府知事となった。まもなく辞職して名も平民風に望一郎と改め,京都の邸内に家塾立命館を開いた。1870年(明治3)パリに留学し,法学者アコラスÉmile Acollasに学んで自由思想の洗礼をうけ,パリの自由な生活を楽しんだ。80年に帰国すると,社会,人民の進歩を図るため教育,文化を重視し,明治法律学校(明治大学の前身)の創設に加わり,81年には中江兆民,松田正久らと《東洋自由新聞》を発刊して社長兼主筆となり,自由民権を唱えた。政府は退社を画策したが西園寺は拒絶し,天皇の内勅でやむなく辞職した。明治14年の政変(1881)に際し参事院がおかれ,参議伊藤博文が同議長を兼ねると,西園寺は同議官補となり,82年には伊藤の憲法取調べに随行して渡欧した。84年の華族令で侯爵となり,オーストリア,ドイツ各公使,貴族院副議長等を歴任した。伊藤と協力して近代的国家体制を整備する役割に転じたのである。日清戦争中から伊藤の第2次,ついで第3次内閣の文相となり,世界主義の教育方針を唱え,産業社会の発展に対処して上下のみならず対等の関係を尊重する新道徳をおこすべきだとして,第2の教育勅語の発布を考えた。96年には陸奥宗光,竹越与三郎らと雑誌を創刊し,《世界之日本》と名づけた。陶庵と号し,首相となってからの1907年6月には森鷗外,田山花袋,幸田露伴らの文士を東京駿河台の本邸に招いて雨声会と名づけた雅会を開き,これは数年間続いた。
西園寺は1900年の伊藤の立憲政友会創立に参画したが,その直後に枢密院議長となり,一時は臨時首相も務めた。03年に伊藤が山県有朋らの策謀で枢密院議長にまつりこまれると,第2代政友会総裁となり,松田正久と原敬とを総務として党勢立直しに当たらせた。日露戦争に際しても文明国の立場を説き,盲目的な排外心を戒めた。日露戦争後の06年1月に桂太郎から政権を受け継ぎ,以後交代に政権を担当して桂園時代と呼ばれた。08年の総選挙で政友会は絶対多数を占めたが,その直後に社会主義者の取締りが手ぬるいとの山県の上奏で辞職した。また,西園寺は政権に恬淡(てんたん)で原の不満を買っていた。11年に第2次内閣を作ったが,翌12年末には陸軍の倒閣策謀で辞任し,その際元老に加えられた。ついで第3次桂内閣ができると護憲運動が広がり政友会が内閣不信任案を出すと,大正天皇は西園寺を呼んで政争回避を命じたが,西園寺は総裁辞任を上奏し,政友会は方針を変えず,桂は内閣を投げ出した。後継内閣は山本権兵衛の準政友会内閣となった。西園寺は慰留を拒み,原が第3代政友会総裁となったが,1918年の米騒動後の政変では原への大命降下に尽力し,最初の政党内閣を作らせた。19年にはパリ講和会議の首席全権となり,その功で20年に公爵となった。西園寺は国際連盟を重視し英米と協調して日本が世界の文明国として発展することを望み,皇太子裕仁の外遊にも尽力した。いわば先進帝国主義国への仲間入りを望んだのである。
大正末期からは最後の元老として後継首相推薦の重責を双肩に担い,興津の別邸坐漁荘には政客たちが絶えず,〈興津詣で〉と呼ばれた。元老としては当初総選挙を公平に行わせようと中間内閣を推したが,1924年の護憲三派運動以後は政党内閣を推す慣行となり,〈憲政の常道〉と呼ばれた。さらに立憲政治確立のため宮中や枢密院の人選にも配慮したが,政党とくに政友会は政権獲得のため特権勢力とも結託して西園寺を嘆かせた。大恐慌の渦中で満州事変がおこり軍部ファシズムの嵐が広がると,国民の不満を皇室に向けないように意を用い,五・一五事件後には重臣と協議して中間内閣を作らせ,事態の鎮静を期待した。だが二・二六事件で軍部が実権をにぎり宇垣一成の組閣も阻止されると,西園寺は元老辞退の意を強め,後継首相の推薦も逐次内大臣中心の方式に改められた。第1次近衛文麿内閣のもとで日中戦争がおこりファシズム体制が進むと,彼は批判を強め,40年の第2次近衛内閣の成立に際しては同意を拒んだ。ついで日独伊三国同盟が結ばれるなかで西園寺は91歳の生涯を閉じ,国葬をもって葬られた。
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