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島崎藤村

ジャパンナレッジで閲覧できる『島崎藤村』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
島崎藤村
しまざきとうそん
一八七二 - 一九四三
明治から昭和時代前期にかけての詩人・小説家。本名春樹。明治五年(一八七二)二月十七日、筑摩県筑摩郡馬籠村(長野県木曾郡山口村)に生まれた。生家は木曾街道馬籠宿の本陣・問屋・庄屋を兼ねる旧家で、父正樹は十七代目の当主にあたる。母ぬいとの四男三女の末子であった。明治十四年長兄に伴われて上京し、泰明小学校・共立学校などを経て明治学院に学び、キリスト教思想に触れた。同二十四年に卒業後、巌本善治主宰の『女学雑誌』に寄稿、前後して北村透谷を知り、その影響下に二十六年創刊の『文学界』同人に参加、浪漫主義文学運動の渦中に身をおいた。かたわら自由な校風で知られた明治女学校の教壇にたったが、教え子との恋愛に苦悩して辞職し、関西から東北にかけて放浪の旅を続けたこともある。生家の没落による経済的な窮迫にも苦しめられた。二十九年夏、東北学院の教師として仙台に赴任、この地で『若菜集』(三十年)所収の抒情詩を制作し、新体詩人としての名声を得た。典雅な文語と流麗な七五調で、情熱を内に沈潜した青春の哀歓をうたい、日本の近代詩の出発を告げる歴史的な記念碑となったのである。以後『一葉舟』(三十一年)・『夏草』(同)を経て『落梅集』(三十四年)に至る四つの詩集は一つの青春がどのようにして悩み、どのようにして燃え、そして過ぎていったかをうたっている。『落梅集』所収の詩篇は明治三十二年に小諸義塾の教師として赴任した小諸で制作されたが、前後して、藤村は抒情詩の限界を自覚し、散文による新しい自己表現の方法を求めて、いわゆる「習作(スタデイ)」がはじめられた。藤村の散文は信州の自然と人情の写生を試みたスケッチ(のちに補筆して『千曲川のスケツチ』、明治四十四年―大正元年(一九一二))に始まり、『藁草履』(三十五年)や『水彩画家』(三十七年)などの短篇を経て『破戒』(三十九年)に発展する。明治三十八年に小諸義塾を辞職して上京したとき、藤村はすでに散文の方法に習熟した小説家であった。『破戒』は未解放部落出身の教師瀬川丑松の苦悩を軸に、地方都市によどむ前近代性を直視した客観小説で、一抹の抒情性をとどめた文体の新鮮な感動と相まって多くの反響を呼んだ。特に島村抱月によって自然主義の先駆として評価され、小説家としての地歩を定めた。次作の『春』(明治四十一年)は『文学界』時代に題材を求めた自伝小説で、透谷をめぐる交友圏を回想しながら近代の黎明期を傷つきながら生きた青春群像を描いている。のちの『桜の実の熟する時』(大正三―七年)とあわせて、「涙の多い青春」の自画像となった。『春』の自伝性は長篇第三作の『家』(明治四十三―四十四年)に継承され、長い歴史をもつ木曾の旧家が近代化の波に洗われて、次第に衰退・没落してゆく過程をつぶさに描きながら、家父長制家族制度の桎梏に呻吟した若い世代の苦悩を再現している。「家」の構造と倫理を人間関係の内部から、緻密な描写と文体で写したリアリティは比類がなく、日本自然主義文学の代表作と目されている。大正二年、藤村はフランスへ旅立った。『家』執筆中の明治四十三年に妻フユ(三十二年結婚)を失ったあと、四人の幼子をかかえた独身生活に待ち受けていた性の陥穽―実姪こま子との危険な恋愛関係からの逃避であった。しかし、第一次世界大戦のために帰国を余儀なくされ、懺悔による罪の浄化を求めて告白を決意する。『新生』(大正七―八年)はその間のすさまじい人間記録で、差し迫った罪の告白であると同時に、作者がその告白によって、いかにして救われたかを語る「死からの再生」の記録ともなった。その後、『新生』の発表がまきおこした大きな波紋を避けて、母のない四人の子どもと過ごした退隠の生活は、『嵐』(大正十五年)その他の短篇に感慨をこめて回想されている。老いた孤独の日々を過ごしながら、ようやく安定した心境に到達するまでの推移が語られ、再起をめざす意欲を控え目ながら述べて終る。藤村はまもなく、昭和三年(一九二八)に加藤静子と再婚し、『夜明け前』の準備にとりかかった。『夜明け前』(昭和四―十年)は日本の近代歴史文学を代表する傑作である。フランスへの旅を通じて自覚した「十九世紀日本の再検討」という課題を実現した意欲作で、明治維新前後の激動に呑まれた個人の運命と、あわただしい歴史の動向とを重層させた構想は壮大で、重量感に富む。主人公の青山半蔵は作者の父がモデルだが、同時に、藤村自身の理想と憧憬と痛恨をこめた人間像として、この巨大な文学的世界に聳立している。十一年ヨーロッパに再遊して紀行『巡礼』(同十二―十五年)を残し、十五年には芸術院会員に推された。昭和十八年八月二十二日、『東方の門』の執筆なかばで、脳溢血のため神奈川県中郡大磯町東小磯の自宅で没した。七十二歳。大磯町大磯の地福寺に葬られる。法名、文樹院静屋藤村居士。のち遺髪と遺爪を長野県西筑摩郡神坂村(木曾郡山口村)の永昌寺に分葬。作品には他に、『眼鏡』(大正二年)・『幼きものに』(同六年)などの童話集、『海へ』(同七年)・『エトランゼエ』(同十一年)などのフランス紀行、『新片町より』(明治四十二年)・『飯倉だより』(大正十一年)・『市井にありて』(昭和五年)などの随筆・感想集がある。全集には『藤村全集』(筑摩書房)などがある。
[参考文献]
平野謙『島崎藤村』、亀井勝一郎『島崎藤村論』、瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』、三好行雄『島崎藤村論』
(三好 行雄)


日本大百科全書(ニッポニカ)
島崎藤村
しまざきとうそん
[1872―1943]

詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠宿(まごめしゅく)(現在は岐阜県中津川市に所在)で本陣、庄屋(しょうや)、問屋(といや)を兼ねた島崎正樹の四男として生まれる。島崎家は正樹で17代目の旧家であったが、藤村の出生時は明治維新に伴う諸改革で没落しつつあり、1881年(明治14)数え10歳で修学のため上京した彼は以後親戚(しんせき)や知人の家で成長した。1891年明治学院卒業。在学中に受洗したキリスト教やヨーロッパ文学の影響で文学に志し、巌本善治(いわもとよしはる)主宰の『女学雑誌』に寄稿を始め、かたわら明治女学校の教師となったが、許婚(いいなずけ)のある教え子への愛に苦しみ、教会を離れて、1893年関西放浪の旅に出た。
[十川信介]

詩人藤村

同年、星野天知(ほしのてんち)や、終生先達と仰いだ北村透谷(きたむらとうこく)らの『文学界』創刊に参加、透谷の影響で劇詩を書いたが、やがて新体詩に転じ、仙台の東北学院に赴任したころから発表した詩編をまとめて『若菜集』(1897)を刊行、詩人としての名声を高めた。以下『一葉舟(ひとはぶね)』『夏草(なつくさ)』(ともに1898)、『落梅集(らくばいしゅう)』(1901)の3詩集を出したが、しだいに自分の詩想と叙情詩の形式との差を感じ始め、信州の小諸義塾(こもろぎじゅく)の教師となり結婚したころ(1899)から自然と人生に対する観察を深めて小説執筆に向かった。
[十川信介]

作家的地位の確立

『破戒(はかい)』(1906)によって作家的地位を確立した彼は、次の長編『春』(1908)において『破戒』流のフィクションを捨て、『文学界』時代の実生活をもとに自伝的小説に転じ、田山花袋(たやまかたい)の『蒲団(ふとん)』(1907)とともにわが国の自然主義文学の進路を決定した。第三の長編『家』(1910~1911)はこの方向を徹底させた作品で、彼と一族をモデルに旧家の退廃した論理を写し出し、自然主義を代表する傑作となった。この小説を執筆中に妻を失い、黙々として育児と執筆に励んでいた彼は、家事手伝いにきていた姪(めい)と過失を犯し、背徳を恥じて1913年(大正2)単身フランスに渡った。やがて『新生』(1918~1919)に描かれるこの事件は、観察を武器としてあらゆるものを対象化してきた彼の作家生活が生んだ「信のない心」や、煩雑な日常生活の倦怠(けんたい)感がもたらしたものであった。パリの生活は異国への「流罪」であるとともに、未知の世界、とくにカトリック的な価値観への眼(め)を開かせ、日本の近代化の考察や東西の比較に進ませる原動力となった。滞仏2年目、周囲の環境になじみ『桜の実の熟する時』(1914)執筆や故国への通信も軌道にのったころ第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、一時フランス中部の都市リモージュに避難したが、前途の不安は強まり、経済的困窮も加わって、1916年(大正5)、3年ぶりに故国の土を踏んだ。
[十川信介]

再生への機運

帰国後の彼はフランス紀行『海へ』(1918)によって文明批評を試みる一方、『新生』を『東京朝日新聞』に連載、背徳を告白して退廃からのよみがえりを描こうとした。この小説は世間的にも大きな反響をよび、作家生命の危機も予想されたが、世間はむしろ彼の勇気と作家的「誠実」を評価し、彼は生涯最大の難関を切り抜けた。4人の子を育て、ひっそりと謹慎生活を続けた彼が新たな活動を開始するのは、1921年に生誕50年を文壇で祝われてからである。わずか10号で終わりはしたが、女性の目覚めを促す雑誌『処女地』の創刊(1922)や、長男楠雄(くすお)を郷里馬籠に帰農させ、新しい島崎家を興したことには、「若い生命」に期待する彼の気持ちが表れている。関東大震災や思想取締りなどの社会不安のなかで「明日」を思う彼の姿はのちに小説『嵐(あらし)』(1926)に描かれるが、彼自身も『処女地』同人であった加藤静子に求婚し(1928年結婚)、「第二の青春」に向かって身をおこした。
[十川信介]

近代化への問題

従来の問題意識の中心には、個人を圧迫する「家」とその原点としての父の問題があったが、この時期、それは父を座敷牢(ざしきろう)の中で悶死(もんし)させた「黒船」、西洋の衝撃とわが国の近代化の問題に広がり始めていた。郷里で宿場役人の古記録『大黒屋日記』を発見した彼は、そこに息づく街道筋の生活を基盤として、近代日本の胎動期の苦しみを描いた大作、『夜明け前』(1929~1935)の連載を開始した。この小説は彼が完成した最後の長編で、1936年(昭和11)に朝日文化賞を受けた。
1935年、日本ペンクラブが結成され、初代会長に就任した彼は翌年、夫人同伴でアルゼンチンの国際ペンクラブ大会に出席、帰途アメリカ、フランスに立ち寄った。この旅の感想は『巡礼』(1937)に記されており、内外ともに騒然たる時勢のなかで彼が自覚したのは、外来文化を同化し続けてきた日本文化の粘着性と、アジアにおけるわが国の「高い運命」であった。その認識をもとに『東方の門』(1943~)を『中央公論』に連載し始めたが、その後まもない昭和18年8月22日、脳溢血(のういっけつ)のため大磯(おおいそ)の別邸で死去、同地の地福寺に葬られた。1940年芸術院会員。彼の特質は自我を抑圧する「家」への曖昧(あいまい)だが執拗(しつよう)な抵抗にあり、自己の問題を掘り下げて日本近代化の問題に進み出た点にその文学的道程がある。作品は多岐にわたり、詩、小説のほか随筆『新片町より』(1909)、童話『幼きものに』(1917)など数多い。
[十川信介]



改訂新版 世界大百科事典
島崎藤村
しまざきとうそん
1872-1943(明治5-昭和18)

詩人,作家。長野県生れ。本名春樹。別号古藤庵無声など。旧中山道馬籠宿で本陣,庄屋,問屋を兼ねた島崎正樹の四男として生まれた。当時,生家は明治維新の改革にともなって没落しつつあり,彼は1881年修学のため上京後,知人の家庭で成長した。91年明治学院(現,明治学院大)を卒業,そこで受けたキリスト教や西洋文学の影響で文学に志し,婦人啓蒙誌《女学雑誌》に寄稿を始めた。93年,生涯の先達として仰いだ北村透谷や,星野天知らと雑誌《文学界》を創刊,最初は透谷にならって劇詩を書いたが,やがて抒情詩に進み,仙台の東北学院教師時代に発表した詩をまとめて《若菜集》(1897)を刊行,新体詩人として名声を博した。以下《一葉舟》《夏草》(ともに1898),《落梅集》(1901)の3詩集を刊行したが,信州の小諸(こもろ)義塾に赴任した99年ころから抒情詩の形式と自分の思想とに違和感を感じはじめ,自然や人生の観察を深めて小説に転じた。《破戒》(1906)によって作家の地位を確立した彼は,《文学界》時代の青春を描いた次作の《春》(1908)において自伝的小説へと向かい,田山花袋の《蒲団》(1907)とともに日本の自然主義文学の方向を決定した。第3の長編《家》(1910-11)はその代表的作品である。《家》執筆中に妻を失った彼は,家事手伝いの姪と過失を犯し,予想される非難を避けて1913年渡仏,16年まで滞在した。この間の経緯は退廃からのよみがえりを主題として,《新生》(1918-19)に描かれている。社会的に葬られることも覚悟したこの告白は,むしろその誠実さによって評価され,彼は生涯最大の危機を切り抜けた。《新生》後,彼は4人の子を育てるかたわら女性雑誌《処女地》を発行し,〈明日〉への芽を伸ばそうとした。彼が完成した最後の長編《夜明け前》(1929-35)は,父の生涯を軸に,幕末維新期における日本の伸びようとして伸びられぬ〈生命〉の苦しみを描いた大作である。この作品を通じて東西の交渉に関する認識を深めた彼は,日本ペンクラブ初代会長としてアルゼンチンの国際大会に出席した(1936)経験を生かし,《東方の門》(1943)において日本の〈夜明け〉を描こうとしたが,雑誌連載開始後まもなく,脳溢血のため没した。彼の文学を一貫するのは,抑圧された生命が解放を求めて苦しむ姿であり,つねに自己の内部を凝視し,自我を圧迫する〈イエ〉や〈よのなか〉に対するあいまいだが執拗な抵抗を続けた点にその特色がある。
[十川 信介]

[索引語]
春(小説) 新生(島崎藤村)
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1. 島崎藤村画像
日本大百科全書
詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠宿(まご
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か〉に対するあいまいだが執拗な抵抗を続けた点にその特色がある。十川 信介 春(小説) 新生(島崎藤村
4. しまざき‐とうそん【島崎藤村】
日本国語大辞典
詩人、小説家。本名春樹。長野県出身。明治学院卒。キリスト教の洗礼を受ける。北村透谷らと「文学界」を創刊。明治三〇年(一八九七)「若菜集」を出版し、浪漫主義詩人と
5. しまざきとうそん【島崎藤村】
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全集には『藤村全集』(筑摩書房)などがある。 [参考文献]平野謙『島崎藤村』、亀井勝一郎『島崎藤村論』、瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』、三好行雄『島崎藤村論』 (三好
6. しまざき-とうそん【島崎藤村】画像
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1872−1943 明治-昭和時代前期の詩人,小説家。明治5年2月17日生まれ。島崎正樹の4男。東北学院,小諸義塾などの教師をつとめる。明治26年北村透谷らの「
7. 島崎藤村[文献目録]
日本人物文献目録
論』伊藤至郎『島崎藤村論』今野宏『島崎藤村論』岡崎義恵等『島崎藤村論』勝本清一郎『島崎藤村論』加藤朝鳥『島崎藤村論』加茂雄一『島崎藤村論』小宮豊隆『島崎藤村論』
8. 島崎藤村(年譜)
日本大百科全書
1872(明治5)2月17日(新暦3月25日)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現、岐阜県中津川市馬籠)に誕生。本名は春樹1881(明治14)9月兄とともに上京。元数
9. ああ
日本国語大辞典
887~89〕〈二葉亭四迷〉二・八「アアではないか斯うでは無いかと」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉上・六「独身(ひとり)で居るものは何時迄も彼様(ああ)サ」
10. ああ‐して
日本国語大辞典
紅葉〉下・四「自分も那(アア)して近所へ来た嫁を見に出た事もあったっけ」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一八・二「彼様(アア)して黙って居るところを見ると」アーシ
11. あい
日本国語大辞典
の呼(よぶ)に答る語 関東にて、あいと云 畿内にて、はいと云」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・上・一・三「『姉さま』『あい、おふきか』」(2)何
12. あいあい‐がさ[あひあひ‥]【相合傘】画像
日本国語大辞典
おぼしき者、相合傘(アヒヤイガサ)で、しかも欣然として通る」*千曲川のスケッチ〔1912〕〈島崎藤村〉三・山荘「お二人で一本だ、相合傘といふやつはナカナカ意気な
13. あい‐えん【哀艷】
日本国語大辞典
〔形動〕あでやかな中に寂しさの感じられるさま。哀れに美しいさま。*落梅集〔1901〕〈島崎藤村〉雅言と詩歌「あわただしき花の名残の哀艷なるかたも」*江戸から東京
14. あい‐かい・する[あひクヮイする]【相会】
日本国語大辞典
卑賤なる少年二三人、或年の冬の夜、相(あヒ)会し、互ひにその知るところを語り合ひ」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・八「両雄相会して、酒でも酌(く)むやうな
15. あい‐かた・る[あひ‥]【相語】
日本国語大辞典
」に同じ。*海道記〔1223頃〕鎌倉遊覧「互に心懐を演て暫く相語る」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉上・五「胸襟を披(ひら)いて相語るの折」
16. あい‐ぜんご・する[あひ‥]【相前後】
日本国語大辞典
〉六「高い高い足音と軽く引摺る草履の音とが相前後して聞えたと思ふと」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・四「正太は榊と相前後して、兜町の方へ通ふことに成った」
17. あい‐とう・ずる[あひ‥]【相投】
日本国語大辞典
*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉一・一「此一段までは両説相投ずるが如くなれども」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・三「意気相投じた達雄は、最早拓落失路
18. あい‐よく【愛欲・愛慾】
日本国語大辞典
〔1776〕青頭巾「一たび愛慾(アイヨク)の迷路(めいろ)に入りて」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・八「愛慾の為に衰耄(すゐまう)したやうな甥の姿が」【二
19. あおうめ‐うり[あをうめ‥]【青梅売】
日本国語大辞典
〔名〕青梅を売り歩くこと。また、その人。*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・八「一月あまり経つと、最早町では青梅売の声がする」アオ
20. あおぎ‐た・てる[あふぎ‥]【扇立】
日本国語大辞典
馬よりをり給ひ、うし若をあふぎたて、『さるにても汝善きかな』」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・下・一二・三「一般の異国趣味をあふぎ立てるものもあ
21. あお‐じそ[あを‥]【青紫蘇】
日本国語大辞典
異にするなり」*にごりえ〔1895〕〈樋口一葉〉四「青紫蘇(アヲヂソ)、ゑぞ菊」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・上・一・一「酒のさかな。胡瓜(き
22. あお‐どうしん[あをダウシン]【青道心】
日本国語大辞典
間敷事「彼者酔中に出家させば能慰ならんと〈略〉髪を剃こぼち青同心となして」*春〔1908〕〈島崎藤村〉三七「酷(はなは)だ生臭な青道心が、到頭そこへ出来上った」
23. あおのけ‐ざま[あふのけ‥]【仰様】
日本国語大辞典
逍遙〉二「ヘコヘコになりたる麦藁帽子を、あふのけざまに戴き」*千曲川のスケッチ〔1912〕〈島崎藤村〉三・一三日の祇園「あふのけさまに倒れた大の男」
24. あお‐ひとぐさ[あを‥]【青人草】
日本国語大辞典
神は、万の民(アヲヒトクサ)を慈(いつくし)みたまふ事ふかく」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・下・一二・四「この国の青人草(アヲヒトグサ)の心ま
25. あお‐まつば[あを‥]【青松葉】
日本国語大辞典
芭蕉翁追善之日記〔1694〕「清滝や波に散込青松葉〈芭蕉〉」*千曲川のスケッチ〔1912〕〈島崎藤村〉五・山中生活「青松葉の枝を下したり」(2)(青い松葉をいぶ
26. あお‐やま[あを‥]【青山】
日本国語大辞典
「道遠み急がざりせば青山の木蔭はいかにたち憂からまし〈よみ人しらず〉」*若菜集〔1897〕〈島崎藤村〉秋風の歌「ふりさけ見れば青山(アヲヤマ)も 色はもみぢに染
27. あおやま-はんぞう【青山半蔵】
日本人名大辞典
島崎藤村の「夜明け前」の主人公。中山道(なかせんどう)木曾(きそ)路の馬籠(まごめ)本陣の主人青山吉左衛門の子。幕末から明治にかけての激変期に,理想をもとめつつ
28. あか【赤・紅・朱・緋】
日本国語大辞典
赤ん坊。子供。*物類称呼〔1775〕一「小児〈略〉信州にてあかといふ」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉上・七「赤もふくれてるし、子守もふくれてるし」(4)「あ
29. あか‐あか【赤赤】
日本国語大辞典
*俳諧・奥の細道〔1693~94頃〕金沢「あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉七・二「其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつ
30. あかい=着物(きもの)[=仕着(しきせ)]を着(き)る
日本国語大辞典
十五の年に懲役に行ってから猶悪くなり、〈略〉再び赤(アカ)い仕着(シキ)せを着たが」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・九「達雄さんだっても、まかり間違へば赤
31. 赤(あか)い=着物(きもの)〔=仕着(しき)せ〕を着(き)る
故事俗信ことわざ大辞典
着たが」日本俚諺大全(1906~08)「赤(アカ)い着物(キモノ)を着(キ)る」家(1910~11)〈島崎藤村〉下・九「達雄さんだっても、まかり間違へば赤い着物
32. 赤い鳥
世界大百科事典
の小さな人たちのために,芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する,最初の運動〉をめざし,島崎藤村,徳田秋声,野上弥生子,芥川竜之介,泉鏡花,小川未明,有島武
33. あかいとり【赤い鳥】
国史大辞典
かねて若き子どものための創作家の出現を迎ふる一大区画的運動の先駆である」と宣言して自家出版した。小川未明・島崎藤村・北原白秋・芥川竜之介・有島武郎らの作品を収載
34. あか‐うし【赤牛】
日本国語大辞典
Acauji (アカウジ)〈訳〉明るい黄色、または赤みがかった牛」*千曲川のスケッチ〔1912〕〈島崎藤村〉一・烏帽子山麓の牧場「額の広い、目付の愛らしい赤牛や
35. あか‐えみし【紅夷】
日本国語大辞典
の紅夷(アカエミシ)ら世には真(まこと)の神あることを知らず」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・上・二・五「昨日の紅夷(アカエミシ)は、実に今日の
36. あか‐かぶ【赤蕪】
日本国語大辞典
あかかぶら。《季・冬》*大和本草〔1709〕五「赤かぶあり、其根紅なり」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・上・六・五「赤蕪(アカカブ)を漬(つ)け
37. あか‐ぎれ【皹・皸】
日本国語大辞典
や伯母や鈴江君が僕の手足の赤ぎれ、霜やけを見て、顔をしかめた」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・下・一二・六「勝手の水仕事をする皹(アカギレ)の切
38. あかく なる
日本国語大辞典
顔を赤らめる。赤面する。*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉三・四「楽しい笑声は座敷の内に溢れた。お志保は紅くなった」
39. あか‐ぐろ・い【赤黒】
日本国語大辞典
黒(アカクロ)き、面影(おもかげ)かはりて其人とも思はれず」*千曲川のスケッチ〔1912〕〈島崎藤村〉九・雪国のクリスマス「ところどころ赤黝(アカグロ)い土のあ
40. あか‐みそ【赤味噌】
日本国語大辞典
花〈游刀〉」*松翁道話〔1814~46〕一・上「汁は赤味噌の真黒な汁に」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉二一・一「煮立ったばかりの赤味噌のにほひが」頭の鈍い人。《
41. あから‐ひく【赤引】
日本国語大辞典
きたへ)の子をしば見れば人妻ゆゑに我(あれ)恋ひぬべし〈人麻呂歌集〉」*若菜集〔1897〕〈島崎藤村〉母を葬るのうた「紅羅(アカラ)ひく子もますらをもみなちりひ
42. あかり‐まど【明窓】
日本国語大辞典
友直〉」*浮世草子・好色五人女〔1686〕五・三「南のかたに明り窓有て」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉三・三「明窓(アカリマド)の障子を開けて見ると」
43. あがり‐がまち【上框】
日本国語大辞典
浪〉五「吉里は足が縮んだ様で、上框(アガリカマチ)までは行かれなかった」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉二三・一「ただ上(アガ)り框(ガマチ)のところへ腰掛けた儘
44. あが・る【上・揚・挙・騰】
日本国語大辞典
くなった』『北からずんずん上(アガ)るから、後にゃあ一降り掛るだらう』」*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉四・一「黄に揚(アガ)る塵埃を満身に浴びながら」*鶏〔19
45. あきくさ‐もよう[‥モヤウ]【秋草模様】
日本国語大辞典
中形の秋草模様にポトリポトリと搾り落すやうに、涙の露を浸染ませて居るのを見ては」*家〔1910~11〕〈島崎藤村〉下・四「お俊は自分の筆で画いた秋草模様の帯を〆
46. あき‐す【空巣】
日本国語大辞典
〔名〕(1)使わなくなった鳥などの巣。*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一七・二「高いところに鶏の塒(ねぐら)も作り付けてあったが、其は空巣(アキス)も同然で、鳥ら
47. あきたうじゃく【秋田雨雀】
国史大辞典
まつの長男として生まれた。早大英文科に学び、同三十七年に詩集『黎明』を自費出版し、坪内逍遙・島崎藤村に認められた。同四十年に小山内薫の『新思潮』の編集に参加、イ
48. あき‐どり【秋鳥】
日本国語大辞典
*生物学語彙〔1884〕〈岩川友太郎〉「Migratory bird 候鳥又ハ秋鳥」*若菜集〔1897〕〈島崎藤村〉知るや君「こころもあらぬ秋鳥の 声にもれく
49. あきに‐つづら【明荷葛籠】
日本国語大辞典
〔名〕「あけにつづら(明荷葛籠)」に同じ。*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・下・九・三「明荷葛籠(アキニツヅラ)の蒲団の上なぞよりも」
50. あき‐ばえ[‥ばへ]【秋蠅】
日本国語大辞典
〔名〕秋になって活動がにぶった蠅。秋の蠅。《季・秋》*落梅集〔1901〕〈島崎藤村〉悪夢「秋蠅の窓に残りて日の影に飛びかふごとく」
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
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坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
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織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
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上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
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