詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠宿(まごめしゅく)(現在は岐阜県中津川市に所在)で本陣、庄屋(しょうや)、問屋(といや)を兼ねた島崎正樹の四男として生まれる。島崎家は正樹で17代目の旧家であったが、藤村の出生時は明治維新に伴う諸改革で没落しつつあり、1881年(明治14)数え10歳で修学のため上京した彼は以後親戚(しんせき)や知人の家で成長した。1891年明治学院卒業。在学中に受洗したキリスト教やヨーロッパ文学の影響で文学に志し、巌本善治(いわもとよしはる)主宰の『女学雑誌』に寄稿を始め、かたわら明治女学校の教師となったが、許婚(いいなずけ)のある教え子への愛に苦しみ、教会を離れて、1893年関西放浪の旅に出た。
同年、星野天知(ほしのてんち)や、終生先達と仰いだ北村透谷(きたむらとうこく)らの『文学界』創刊に参加、透谷の影響で劇詩を書いたが、やがて新体詩に転じ、仙台の東北学院に赴任したころから発表した詩編をまとめて『若菜集』(1897)を刊行、詩人としての名声を高めた。以下『一葉舟(ひとはぶね)』『夏草(なつくさ)』(ともに1898)、『落梅集(らくばいしゅう)』(1901)の3詩集を出したが、しだいに自分の詩想と叙情詩の形式との差を感じ始め、信州の小諸義塾(こもろぎじゅく)の教師となり結婚したころ(1899)から自然と人生に対する観察を深めて小説執筆に向かった。
『破戒(はかい)』(1906)によって作家的地位を確立した彼は、次の長編『春』(1908)において『破戒』流のフィクションを捨て、『文学界』時代の実生活をもとに自伝的小説に転じ、田山花袋(たやまかたい)の『蒲団(ふとん)』(1907)とともにわが国の自然主義文学の進路を決定した。第三の長編『家』(1910~1911)はこの方向を徹底させた作品で、彼と一族をモデルに旧家の退廃した論理を写し出し、自然主義を代表する傑作となった。この小説を執筆中に妻を失い、黙々として育児と執筆に励んでいた彼は、家事手伝いにきていた姪(めい)と過失を犯し、背徳を恥じて1913年(大正2)単身フランスに渡った。やがて『新生』(1918~1919)に描かれるこの事件は、観察を武器としてあらゆるものを対象化してきた彼の作家生活が生んだ「信のない心」や、煩雑な日常生活の倦怠(けんたい)感がもたらしたものであった。パリの生活は異国への「流罪」であるとともに、未知の世界、とくにカトリック的な価値観への眼(め)を開かせ、日本の近代化の考察や東西の比較に進ませる原動力となった。滞仏2年目、周囲の環境になじみ『桜の実の熟する時』(1914)執筆や故国への通信も軌道にのったころ第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、一時フランス中部の都市リモージュに避難したが、前途の不安は強まり、経済的困窮も加わって、1916年(大正5)、3年ぶりに故国の土を踏んだ。
帰国後の彼はフランス紀行『海へ』(1918)によって文明批評を試みる一方、『新生』を『東京朝日新聞』に連載、背徳を告白して退廃からのよみがえりを描こうとした。この小説は世間的にも大きな反響をよび、作家生命の危機も予想されたが、世間はむしろ彼の勇気と作家的「誠実」を評価し、彼は生涯最大の難関を切り抜けた。4人の子を育て、ひっそりと謹慎生活を続けた彼が新たな活動を開始するのは、1921年に生誕50年を文壇で祝われてからである。わずか10号で終わりはしたが、女性の目覚めを促す雑誌『処女地』の創刊(1922)や、長男楠雄(くすお)を郷里馬籠に帰農させ、新しい島崎家を興したことには、「若い生命」に期待する彼の気持ちが表れている。関東大震災や思想取締りなどの社会不安のなかで「明日」を思う彼の姿はのちに小説『嵐(あらし)』(1926)に描かれるが、彼自身も『処女地』同人であった加藤静子に求婚し(1928年結婚)、「第二の青春」に向かって身をおこした。
従来の問題意識の中心には、個人を圧迫する「家」とその原点としての父の問題があったが、この時期、それは父を座敷牢(ざしきろう)の中で悶死(もんし)させた「黒船」、西洋の衝撃とわが国の近代化の問題に広がり始めていた。郷里で宿場役人の古記録『大黒屋日記』を発見した彼は、そこに息づく街道筋の生活を基盤として、近代日本の胎動期の苦しみを描いた大作、『夜明け前』(1929~1935)の連載を開始した。この小説は彼が完成した最後の長編で、1936年(昭和11)に朝日文化賞を受けた。
1935年、日本ペンクラブが結成され、初代会長に就任した彼は翌年、夫人同伴でアルゼンチンの国際ペンクラブ大会に出席、帰途アメリカ、フランスに立ち寄った。この旅の感想は『巡礼』(1937)に記されており、内外ともに騒然たる時勢のなかで彼が自覚したのは、外来文化を同化し続けてきた日本文化の粘着性と、アジアにおけるわが国の「高い運命」であった。その認識をもとに『東方の門』(1943~)を『中央公論』に連載し始めたが、その後まもない昭和18年8月22日、脳溢血(のういっけつ)のため大磯(おおいそ)の別邸で死去、同地の地福寺に葬られた。1940年芸術院会員。彼の特質は自我を抑圧する「家」への曖昧(あいまい)だが執拗(しつよう)な抵抗にあり、自己の問題を掘り下げて日本近代化の問題に進み出た点にその文学的道程がある。作品は多岐にわたり、詩、小説のほか随筆『新片町より』(1909)、童話『幼きものに』(1917)など数多い。
詩人,作家。長野県生れ。本名春樹。別号古藤庵無声など。旧中山道馬籠宿で本陣,庄屋,問屋を兼ねた島崎正樹の四男として生まれた。当時,生家は明治維新の改革にともなって没落しつつあり,彼は1881年修学のため上京後,知人の家庭で成長した。91年明治学院(現,明治学院大)を卒業,そこで受けたキリスト教や西洋文学の影響で文学に志し,婦人啓蒙誌《女学雑誌》に寄稿を始めた。93年,生涯の先達として仰いだ北村透谷や,星野天知らと雑誌《文学界》を創刊,最初は透谷にならって劇詩を書いたが,やがて抒情詩に進み,仙台の東北学院教師時代に発表した詩をまとめて《若菜集》(1897)を刊行,新体詩人として名声を博した。以下《一葉舟》《夏草》(ともに1898),《落梅集》(1901)の3詩集を刊行したが,信州の小諸(こもろ)義塾に赴任した99年ころから抒情詩の形式と自分の思想とに違和感を感じはじめ,自然や人生の観察を深めて小説に転じた。《破戒》(1906)によって作家の地位を確立した彼は,《文学界》時代の青春を描いた次作の《春》(1908)において自伝的小説へと向かい,田山花袋の《蒲団》(1907)とともに日本の自然主義文学の方向を決定した。第3の長編《家》(1910-11)はその代表的作品である。《家》執筆中に妻を失った彼は,家事手伝いの姪と過失を犯し,予想される非難を避けて1913年渡仏,16年まで滞在した。この間の経緯は退廃からのよみがえりを主題として,《新生》(1918-19)に描かれている。社会的に葬られることも覚悟したこの告白は,むしろその誠実さによって評価され,彼は生涯最大の危機を切り抜けた。《新生》後,彼は4人の子を育てるかたわら女性雑誌《処女地》を発行し,〈明日〉への芽を伸ばそうとした。彼が完成した最後の長編《夜明け前》(1929-35)は,父の生涯を軸に,幕末維新期における日本の伸びようとして伸びられぬ〈生命〉の苦しみを描いた大作である。この作品を通じて東西の交渉に関する認識を深めた彼は,日本ペンクラブ初代会長としてアルゼンチンの国際大会に出席した(1936)経験を生かし,《東方の門》(1943)において日本の〈夜明け〉を描こうとしたが,雑誌連載開始後まもなく,脳溢血のため没した。彼の文学を一貫するのは,抑圧された生命が解放を求めて苦しむ姿であり,つねに自己の内部を凝視し,自我を圧迫する〈イエ〉や〈よのなか〉に対するあいまいだが執拗な抵抗を続けた点にその特色がある。
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