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日本大百科全書(ニッポニカ)
飛鳥時代
あすかじだい

範囲と概観


「飛鳥時代」は元来、日本美術史上の時代区分であるが、これを政治史上の時代区分として用いることも多い。一般には推古(すいこ)朝(593~628)前後から大化改新(645)までとするのが普通であるが、これをさらに天智(てんじ)朝(662~671)ごろまで下げて考える説も美術史家の間には行われており、さらに時代を下げて平城遷都(710)までを飛鳥時代とみる説もある。ここでは、上記のうちもっとも広義の飛鳥時代を取り上げることとする。この時期の皇居の所在地をみると、推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)、舒明天皇(じょめいてんのう)の岡本宮(おかもとのみや)、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の板蓋宮(いたぶきのみや)、斉明天皇(さいめいてんのう)の川原宮(かわらのみや)、天武天皇(てんむてんのう)の浄御原宮(きよみはらのみや)などはいずれも飛鳥の地にあり、天武のあとの持統、文武(もんむ)2天皇の藤原京も飛鳥の域内ないしその北方に隣接して存在し、この間、皇居が飛鳥以外に移ったのは、わずかに孝徳(こうとく)朝の10年足らず(難波(なにわ))と天智朝の5年余り(大津)の計15年ほどで、この時代の政治、文化の中心はおおむね飛鳥にあったので、この時期を飛鳥時代とよぶ。
 広義の飛鳥時代は、したがって仏教伝来(538)以降、平城遷都以前と言い換えることもできるが、まさに仏教伝来に伴う新文化の成立発展こそが、この時代を前代の古墳時代と区別する指標である。古墳は8世紀初頭まで営造されるが、飛鳥時代は古墳時代の後期および終末期に相当するという意味で、古墳文化の終焉(しゅうえん)を促した時代だともいえる。
 また大化改新以後は政治、経済、社会の各方面に大きな変革が試みられ、それに伴って時代の様相も大きく変化したので、この時代を大化改新を境に前後の2期に分けて考えるのが便利であろう。
 総じて広義の飛鳥時代は、大和国家(やまとこっか)が豪族の連合政権的性格を脱して統一的中央集権国家、天皇制律令(りつりょう)国家へと飛躍するための模索と、試行錯誤と、そして努力の、積み重ねの時代ということになるであろう。
[黛 弘道]

政治・外交

6世紀の日本

およそ4、5世紀のころいちおう成立した日本の古代国家は、すでに朝鮮半島に勢力を伸ばし、任那(みまな)諸国を支配し、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)などの諸国に威圧を加えていたが、やがて新羅が興隆し、日本の出先官憲の失政が重なり、任那諸国の離反が相次ぐなどのことがあり、日本の対朝鮮政策は大きな困難に直面した。その結果、562年には任那が最終的に新羅の勢力下に入り、日本は朝鮮半島における重要な足掛りを失うことになった。『古事記』や『日本書紀』によって5世紀から6世紀にかけての国内政情を眺めると、大和(やまと)の王権をめぐる皇族間の相克が激化し、またそれに絡んで豪族間でも利益の対立が深刻となり、血なまぐさい殺戮(さつりく)が繰り返され、その結果、仁徳(にんとく)系の皇統が断絶し、そのあとに、前王朝とはまったく血縁関係がないか、あったとしてもきわめて疎遠な継体天皇(けいたいてんのう)が、6世紀の初めに擁立されることとなった。また、この間に葛城(かずらき)、平群(へぐり)という二つの大臣(おおおみ)家が滅亡し、継体擁立に功のあった大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が全盛期を迎えた。しかし、それも長続きせず、欽明(きんめい)朝にはこれを蹴(け)落とすような形で大連の物部(もののべ)氏が台頭し、一方で蘇我(そが)氏が大臣となり皇室との婚姻関係を背景に勢力を振るうに至った。このような有力氏族の盛衰は大和政権の外交政策を混乱させ、朝鮮半島の出先官憲の失態と相まって、日本の威信の急激な低下を招くこととなった。
 もともと当時の日本の政治体制は、大王(おおきみ)(天皇)の主宰する大和政権が全国各地の王たちを国造(くにのみやつこ)と名づけて統率し、あまり強固とはいえない連合体を形づくっていたのであり、統一された中央集権国家からはほど遠い体制にあった。これに対して新羅は、すでに6世紀初頭の法興王(ほうこうおう)の時代に早くも中国の律令制(りつりょうせい)を導入して中央集権的統一国家建設に力強く歩み出していた。5~6世紀における国の内外の諸情勢からみれば、日本の朝鮮半島からの敗退は当然の帰結であった。この現実に直面した日本の支配層は、国制の転換を真剣に追求するに至った。
 6世紀の大和政権は、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)の乱鎮定を契機に、以後、国造領を割くなどして直轄領としての屯倉(みやけ)を全国各地に設置することにより、軍事、経済、交通上の要衝を押さえ、また国造の一族子弟を召して大王の親衛軍を編成し、ときに中央から役人を派遣して税の徴収にあたらせるなど、在地支配者たる国造の権威を削り、その被官化、官僚化を図っている。また大和政権内部においては、職業分業組織としての伴造(とものみやつこ)・品部(しなべ)制が地域的に拡大されるとともに、制度そのものの拡充による官司制の発達が顕著な事象として認識される。これらは、いずれも大和政権による中央集権化の動向を示すものであるが、このような国制転換の動機の一つが、先に述べた国の内外諸情勢にあることはすでに明らかである。なお、6世紀における群集墳の発達が在地における中層以上の農民の成長を反映するものとすれば、従来の族長層と農民との関係に変化がおこったと推測するほかはなく、その変化は従来の支配体制の維持を困難とするわけで、大和政権でいえば、国造層は大和政権への被官化を強め、その権力を背景に在地の情勢の変化に対応するという方策をとらなければならなかった。
 6世紀――それは天皇でいえば、継体(けいたい)、安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)、敏達(びだつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)の7代と推古(すいこ)朝の初頭を含む――という時代は、大和政権が国制を転換して政権を強化し、行政機構を充実して中央集権的、官僚制的な方向に歩み始めた時代ということができる。
[黛 弘道]

推古朝

これを受けた推古朝の政治は、同一路線のうえをさらに前進する。まず内政面では、第一に冠位十二階の制定(603年=推古天皇11)をあげることができる。これは徳、仁、礼、信、義、智という儒教の徳目をおのおの大小に分けて十二階とし、階ごとに冠の材料や色を別にし、冠によってその人の等級を明らかにしようとするもので、日本の位階制の起源としても画期的な意味をもつ。従来、朝廷が豪族に与えた姓(かばね)は、氏々の間の序列を定め、氏姓社会の秩序を維持するためのものであったが、冠位は官人としての個人に与えられ、一代限りであり、しかも功績、才能によって昇進が可能であった。すなわち、冠位は官人の秩序を整えるもので、官司制的な方向を推し進めてきた結果、広範に官人群が出現した状況に即応するくふう、施策にほかならなかった。冠位の授受は君臣関係の確認、豪族の官僚化を意味するから、これに抵抗するものもあり(たとえば蘇我氏)、冠位制の施行は一挙に実現したのではない。その全国的施行は大化以後であり、そこに推古朝政治の一つの限界があった。
 第二は十七条憲法である。これについても問題は多い。たとえば憲法の真偽について江戸時代以来議論があるが、ここでは聖徳太子の真撰(しんせん)説に従いたい。憲法全体を通じて注意されるのは、そこに示された政治思想のいくつかである。まず、国家の構成要素として君、臣、民の三つをあげ、とくにこのなかの臣すなわち官僚に対して守るべき規律、従うべき道徳を示しているのであるが、ここには太子の描いた国家像と、彼が求めた君臣関係の理想像が示されている。そこに国造を含めた豪族の臣僚化に対応する国家の理想像を認めることができるであろう。憲法を構成する政治思想の第一は儒教であるが、そこでは民は初めから支配される対象にすぎず、したがって徳による人民支配は臣のよるべき道徳にほかならなかった。しかし、憲法にはまた法家の思想も顕著に認められる。儒家が礼による調和を重んずるのに対して、法家は君主権の絶対優先をたてまえとし、ときに儒教的秩序への干渉をも辞さない。太子が法家思想を重視していることもその国家観を知る手掛りとなろう。
 第三に推古朝前後の国制としての国県(くにあがた)制について触れてみたい。『隋書(ずいしょ)』によると日本には軍尼(くに)が120あり、10の伊尼翼(いなき)(冀の誤り)が1の軍尼に属するという。軍尼は国で、すなわち国造のこと、伊尼翼は稲置で県稲置(あがたのいなぎ)のことと考えられるから、当時の日本ではいわば国県制ともよぶべき地方行政制度が行われていたと推測する説がある。一方、『隋書』の記事は史実とかけ離れたものと考える説もあるが、少なくとも畿内(きない)周辺や東国の一部などにはこれが施行された可能性はある。国県制が大和政権の直轄領的地域に行われたとすると、そこでは中央集権的な行政の貫徹が想像できる。これは、6世紀にすでにみられた方向をいっそう強力に推進した政策とみることができるが、このような制度の手本も、またすでに朝鮮三国にあったのである。このように推古朝は、一君万民思想、王民思想が強調され、その具体化の方策が示されたばかりでなく、限界はあるが、それが実施された時代としてとらえられる。
 次に推古朝の外交について考えてみよう。581年北周の譲りを得て建国した隋は、589年に中国を統一するが、618年には滅亡し、かわって唐王朝が建設される。隋、唐の二大帝国は周辺の諸国家、諸民族に強い影響を与えるが、日本もその例外ではなかった。さて推古朝の初期には、新羅出兵、任那回復の国是により軍事外交が展開されるのであるが、皇族を将軍とした再度の遠征がいわば内部崩壊という形で失敗に終わったこと、当の新羅が隋の冊封(さくほう)体制内に入ったことなどの理由で方針の転換を迫られ、隋との国交に重心を置く外交政策への切り換えが図られた。『隋書』にしかみえない600年(推古天皇8)の日本からの遣使、607年と608年の両度にわたる小野妹子(おののいもこ)の派遣、614年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣、すなわち遣隋使の派遣には、前記のような東アジア外交の背景があった。新羅が隋との間に宗属(そうぞく)関係を結んだ以上、これを討つことは隋への敵対行為とみなされるからである。このことは、隋が滅び、唐の勢力がいまだ安定しなかった623年、日本がまたまた新羅出兵を企てたが、やがて唐を中心に東アジアの外交関係が安定してくると、ふたたび630年(舒明天皇2)から大陸との直接外交(遣唐使の派遣)へと方針を切り換えている事実からも裏づけられる。
 ただ、中国外交における朝鮮三国と日本との相違点は、日本が対等外交の路線を主張したことであろう。600年の使者は、倭王(わおう)は阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)であり阿輩鶏弥(おほきみ)と号すといっているし、607年の国書では「日出づる処(ところ)の天子」(『隋書』)と称し、翌年には「東の天皇」(『日本書紀』)を名のっている。日本の主権者が大君とか天子とか、さらには天皇とか名のった背景には、日本神話の成立(天皇は太陽神天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫)と、それを可能にした6世紀における国勢の著しい上昇発展、6世紀いっぱい中国との外交が中断した結果、5世紀以前の従属的関係を忘却ないし無視しえたことなど、さまざまの要因をあげることができよう。対中国外交においても6世紀という時代のもつ意味は大きかったのである。
[黛 弘道]

舒明・皇極朝

622年聖徳太子が亡くなると政治の主導権は蘇我氏に帰し、628年推古女帝亡きあとの皇嗣(こうし)についても、蘇我蝦夷(そがのえみし)の強力な推挙を得て舒明天皇(じょめいてんのう)が即位するなど、蘇我氏全盛時代が展開する。もとより蘇我氏は、6世紀以来の国制の改革に指導的役割を担ってきたいきさつもあり、太子亡きあとふたたび政界のリーダーとなったことに不思議はない。ただ舒明天皇擁立にあたって太子の遺児山背大兄王(やましろのおおえのおう)を抑えたことは、あとあとまで問題を残す結果となった。蘇我氏としては重なる血縁関係に連なる山背を避け、取り立てて因縁のない舒明を推したことには、それなりの理由があったのであろう。その舒明天皇が641年(舒明天皇13)に没したのちに皇后が即位し(皇極天皇(こうぎょくてんのう))、山背の期待がふたたび裏切られたことで蘇我氏と山背の仲はいっそう険悪となった。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)は山背大兄王一家を斑鳩宮(いかるがのみや)にことごとく滅ぼしてしまうが、この事件をきっかけに反蘇我勢力は急速に結集する。645年(大化1)のクーデターによって蘇我氏がいとも簡単に倒れた背景に、このような反蘇我的感情の広がりを認めないわけにはいかない。このクーデターによって、推古朝以来の国制改革に律令制の導入という契機が与えられることとなったが、その中心人物が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らであった。舒明・皇極朝は、蘇我氏領導のもとに6世紀以来の国制改革の方向が継続された時期といってよいが、645年のクーデターはこの方針に大きな修正を加えるものとなった。
[黛 弘道]

大化改新

このクーデターをきっかけに開始された一連の政治改革を大化改新という。ではなぜ新たな改革が試みられなければならなかったのであろうか。国内的要因としては、6世紀以来の改革が完全に族制的秩序を克服するものではなく、とくに蘇我氏専権時代にはむしろ現状の固定化が図られ、天皇を中心とする改革の方向は停滞を余儀なくされた。国力のよりいっそうの充実を図るための現状打破工作は蘇我氏の排除と、しかるのちに隋・唐の律令制を採用導入する試みに始まらなければならなかった。中央集権化を徹底するためには、これがなによりも先に実現されねばならなかったのである。さらに外的要因としては、618年に興った唐の、その後における急激な膨張政策にも目を向けておく必要がある。唐の第2代皇帝太宗(たいそう)は、改めて高句麗(こうくり)討伐を再開する。644年自ら高句麗を討ち、翌年遼東(りょうとう)城を抜き、ついで高句麗の謝罪を拒否し、647年ふたたびこれを討伐している。大化改新事業の進行中、650年代の末から660年代の初めにかけて(斉明(さいめい)・天智(てんじ)朝)唐は新羅と結んで百済を挟撃し、日本・百済連合軍を白村江(はくすきのえ)に撃破し、663年百済を占領したばかりか、それから5年後には高句麗をも滅ぼしてしまうが、この結果東アジアの情勢は日本にとってきわめて緊迫したものとなった。日本は眼前の強大な敵、唐に対抗するために唐の国制を見習わなければならなかった。
 ともかく645年のクーデター以後次々に実施された諸政策の積み重ねによって国制改革は徐々に、そして着実に進められていった。その際、なによりも注目されるのは律令制度の日本への定着の過程であろう。たとえば律令の官職体系一つを取り上げてみても、その案がつくられたのは大化改新のときであるが、それがいちおうの形を整えたのは四半世紀を経た天智朝であり、それがさらに壬申(じんしん)の乱(672)後の天武(てんむ)朝(672~685)で種々の修正を受け、701年(大宝1)の大宝(たいほう)律令で最終的な仕上げの段階に到達するのであり、その間半世紀以上の時日と努力を要しているのである。ただ幸いなことに6世紀以来の国制の転換は朝鮮三国に倣ったものであったが、その背後には中国の南北朝があり、それはまた隋・唐の国制にも密接なつながりがあったので、結果として大化の前後の国制に根本的なギャップを生ぜしめなかった。
[黛 弘道]

天武・持統朝

中大兄皇子(天智天皇)の領導のもと改革は強引に推進されたが、その没後まもなく672年大友皇子(おおとものおうじ)と皇弟大海人(おおあま)との間に壬申の戦乱が勃発(ぼっぱつ)し、後者が勝利を得て天武天皇となった。天武朝は、乱の結果大友方についた大豪族が没落ないし衰微したこともあって、天皇権力の急上昇、ひいては天皇の神格化、総じて古代天皇制の確立をもたらすこととなった。天武の没後皇后持統(じとう)が即位する(在位687~696)が、この天武・持統2代の間に、大化改新がその究極の目標とした天皇を中心とする律令制中央集権国家はその輪郭を明らかにする。ついで持統天皇は孫の文武(もんむ)(在位697~700)に位を譲ったが、なお太上天皇として政治を後見し、701年には大宝律令の完成をみることになる。この大宝律令は、律と令の2法典がそろったという形式的な点でも、また大化以来の政治努力と経験と知識とをフルに生かして編集したという内容的な面でも、まさに律令国家の完成を象徴するものであった。まもなく持統、文武は相次いで世を去り、その後を受けた文武の母元明天皇(げんめいてんのう)(在位707~715)が710年(和銅3)都を藤原京から平城京へ移すに及んで、飛鳥時代はその終わりを告げ、奈良時代が始まるのである。
[黛 弘道]

文化


 推古(すいこ)朝を中心とする文化を飛鳥文化、天武(てんむ)・持統(じとう)朝を中心とするそれを白鳳(はくほう)文化とよんで区別するのが一般である。
[黛 弘道]

飛鳥文化

6世紀の中ごろ百済(くだら)から仏教が伝えられたことはその後の日本文化に決定的ともいうべき影響を与えたが、推古朝前後についてみれば、これにより、日本で最初の仏教文化が誕生したことをあげなければならない。これは従来の古墳文化とはまったく異質な、国際性豊かな高度の文化であり、まだ十分に消化したものではないにしても、健康的で新鮮な感覚にあふれていた。それは豪族により受容され享受されたもので、人民とはほとんど無縁であったが、日本文化の飛躍的発展に資するところは大きかった。そのほか、漢字、儒教など中国の学術、文化の影響にもみるべきものがあった。すでに漢字を用いて国語を表記するいわゆる万葉仮名も考案使用されるようになり、不自由ながら日本語を漢字で表現できるに至った。仏教思想も、人心の教化統一の手段としてとくに重んじられ、仏教の護国宗教、人民支配の一手段という基本的性格もすでにこの時代に運命づけられている。
 なお、620年(推古天皇28)聖徳太子らの撰(せん)になる『天皇記』『国記』以下の歴史書も注目に値する。たとえば『帝記』にかえて『天皇記』としたことは、天皇称号の始用という点で思想面のみならず外交面でも十分意味があった。『国記』も国家成立の由来を述べたものとすれば、まさに空前の書で、そこに太子における歴史意識、国家意識の成長を読みとることもできよう。
 こうして、この時代にはともかくも外来文化を積極的に摂取し、さらにそれを消化しようと努力し、またその能力を示し始めている。こうして展開される飛鳥文化の特性は、(1)国際的性格が濃厚、(2)仏教芸術が基調、(3)豪族、支配層の文化、(4)古墳文化とは比較にならない高度な文化、(5)古拙であるが健全な文化、などの諸点にあるとしてよいであろう。
[黛 弘道]

白鳳文化

大化改新以後、律令(りつりょう)国家建設のテンポが進むにつれて、前代とは異なる清新な文化が生まれてきた。これが白鳳文化といわれるものであるが、前代の飛鳥文化と比較してみると、飛鳥文化は中国六朝(りくちょう)の影響を強く受けたもので、文化の内容には稚拙さをとどめてもいるが、白鳳文化には隋・唐の、とくに初唐の影響が認められ、内容的にも成熟したものとなった。いずれも国際色豊かな文化といえるが、背景となった中国文化の相違が両者の差にも表れているのである。
 白鳳文化期を政治、経済、社会的な面から特色づけるものは、律令制の成立発展であり、天皇制の確立、貴族階級による全国支配の完成であるが、ここに天皇、貴族らの強烈な国家意識を裏づけとする清新溌剌(はつらつ)たる文化が創造されることとなった。飛鳥文化と比べて、この点でも白鳳文化に顕著な特色をみることは容易であろう。
 国文学の分野をみても、大化後になると斉明(さいめい)、天智(てんじ)、中皇命(なかつすめらみこと)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、額田王(ぬかだのおおきみ)らの優れた歌人が輩出し、とくに壬申(じんしん)の乱後ともなれば、新体制の樹立に向かって大きく前進を始めた時代を反映して和歌にも数々の秀作が発表され、和歌史上、前の時期とともに一つのピークを形づくった。漢文学においても、奈良朝末に編まれた『懐風藻(かいふうそう)』の序には近江(おうみ)朝における漢文学の興隆を記し、本文冒頭には大友皇子の作詩を載せているが、壬申の乱後、大宝律令に至り、ふたたび文運の復興が図られた。大学において漢文、経学が教授されることとなり、官僚貴族の教養として漢詩文は必須(ひっす)のものとされた。ただし、漢文学を十分にこなすには、なお平安初期をまたなければならなかった。
[黛 弘道]

民衆の生活

仏教が伝来し新しい文化が生まれたといっても、民衆の生活に直接の影響を及ぼすことはほとんどなかった。民衆は弥生(やよい)・古墳時代から引き続いて竪穴(たてあな)式住居をすみかとし、一部に平地式住居を営むものもあったが、高床(たかゆか)式住居は依然として支配階級のものであった。この状況は奈良・平安時代に至ってもあまり変わらなかったようである。
 衣料も前代以来、男は衣(きぬ)、袴(はかま)、女は衣(きぬ)、裳(も)を着用したが、この基本的な組合せは室町時代に至るまで変わらなかった。当代の遺品は乏しく、古墳出土の人物埴輪(はにわ)や天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)、高松塚古墳の壁画などから推測するほかはない。玉類をはじめとするアクセサリーも庶民の間にどれほど行われたか、よくわからない。
 民衆の食生活は、ある程度食器の種類も整い、ハレの日の食事などはかなり豊かな内容をもったかもしれないが、日常の食生活はけっして豊かといえるものではなかったであろう。奈良時代でも庶民や下級官人の食事は一汁一菜か、せいぜい一汁二菜で、かなり貧弱であった。
 この時代は妻訪婚(つまどいこん)が盛行し、実の母子が家族の単位をなし、同居親族たるヤカラ共同体に包摂されて存在したが、しだいに父系観念が発達し、男性が女性の屋敷内に妻屋(つまや)を建てて通ったり、滞在するようになると、ヤカラ共同体は崩壊の危機をはらみながらも、かえって膨張していく。それにつれて、それを統制する族長権も大きくなり、族長の詰め所であり、ヤカラ共同体の祭祀(さいし)・集会場たる大屋(おおや)も大きなものとなる。民衆社会そのものにも族長と族人の統属関係が成長しつつあったのである。
[黛 弘道]



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大化改新(日本大百科全書(ニッポニカ))
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7. 飛鳥時代の考古学[考古学]
現代用語の基礎知識 2016
飛鳥時代は、奈良盆地の南端、飛鳥 (奈良県明日香村と橿原市の一部、桜井市の一部)に多くの宮殿がおかれた時代。狭義では推古朝(592~628年)から645年の乙巳 ...
8. 飛鳥時代の大陸と日本[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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9. アイ画像
世界大百科事典
とくにアイを区別してタデアイとも呼ぶ。東南アジア原産で,中国では古くから栽培された。日本へは飛鳥時代以前に中国から渡来したとされる。葉は先のとがった卵形で,柄は ...
10. あい[あゐ]【藍】画像
日本国語大辞典
種子は漢方で解熱、解毒に用いられる。原産地は中国南部、またはインドシナ半島とされ、日本には中国を経て飛鳥時代にはすでに伝わっていた。現在、徳島、広島などで栽培。 ...
11. あうみぐん【会見郡】
国史大辞典
平安時代には東部を会東郡と称している。縄文時代から弥生時代に続く目久美遺跡や、弥生時代後期から飛鳥時代に至る古代住居遺跡としての福市遺跡があり、また青木・宗像・ ...
12. あかはげこふん【アカハゲ古墳】大阪府:南河内郡/河南町/平石村地図
日本歴史地名大系
木棺に用いたと考えられる鉄釘片、ガラス製扁平管玉(緑色鉛ガラス製)、褐釉有蓋円面硯片などが出土した。(「飛鳥時代の古墳」飛鳥資料館図録第六冊・奈良国立文化財研究 ...
13. あかみとり【朱鳥】
日本国語大辞典
〔名〕(朱鳥を訓読したもの、または赤御鳥の意といわれる)飛鳥時代、天武天皇の代の年号。天武一五年(六八六)赤雉(あかきじ)の献上があって七月二〇日改元。同年九月 ...
14. 明日香(村)画像
日本大百科全書
中心集落は岡(役場所在地)と飛鳥である。村の西部を近畿日本鉄道吉野線と国道169号が通じる。飛鳥時代から694年(持統天皇8)藤原京遷都まで幾度となく皇居が置か ...
15. あすかきょう‐あと【飛鳥京跡】
デジタル大辞泉
明日香村(奈良県高市郡)にある飛鳥時代の遺跡。6世紀末から7世紀にかけて歴代の天皇が営んだ宮を中心とする地区で、豊浦宮・小墾田宮・飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥川 ...
16. 飛鳥京跡(あすかきょうあと)[考古学]
イミダス 2016
奈良県明日香村にある飛鳥京は、飛鳥時代(7世紀ごろ)に営まれた宮殿・役所群であり、古代都城のさきがけとなったものである。吉野川分水の改修工事に伴い奈良県立橿原 ...
17. あすかしりょうかん【飛鳥資料館】
国史大辞典
水落遺跡、飛鳥寺、山田寺、川原寺などの遺跡から出土した飛鳥時代を代表する遺物を陳列する。前庭では石造物の模造を復原的に配置する。春・秋には飛鳥時代に関する特別展 ...
18. あすかでら【飛鳥寺】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
平成八年(一九九六)公園整備に伴う調査で西門跡が二間×三間であることが確認され、同時に門前から飛鳥時代の上水道管が出土した。〔飛鳥寺瓦窯跡〕飛鳥寺の旧寺域の南東 ...
19. あすかのおうじょ【飛鳥皇女】
日本人名大辞典
?−700 飛鳥時代,天智(てんじ)天皇の皇女。母は橘娘(たちばなのいらつめ)。「日本書紀」によれば,持統天皇6年(692)天皇は皇女の別荘にでかけ,2年後に皇 ...
20. 飛鳥の蘇(そ)
デジタル大辞泉プラス
奈良県橿原市、みるく工房飛鳥が製造・販売する銘菓。生乳を長時間特殊な方法で煮詰めたもの。古代、飛鳥時代に食されていたものを再現している。 2011年08月 ...
21. 飛鳥美術
日本大百科全書
火災のあった670年(天智天皇9)をもって飛鳥時代の終わりとする説もあるが、ここでは大化改新(645)をもってくぎりとする。永井信一建築現在、飛鳥時代に建てられ ...
22. 飛鳥美術
世界大百科事典
らであった。その構造や意匠は宮殿にも用いられた。飛鳥時代建築の実物は1棟も現存していないので,日本や中国・朝鮮の文献・遺跡・遺物などと,飛鳥時代の様式を濃厚に伝 ...
23. あすか‐ぶつ【飛鳥仏】
日本国語大辞典
〔名〕飛鳥時代に造られた仏像の総称。法隆寺金堂の釈迦三尊像、夢殿の救世(ぐぜ)観音像などのように直立と左右均整を特色とする止利(とり)派と、百済(くだら)観音像 ...
24. 飛鳥文化
日本大百科全書
飛鳥時代 ...
25. あすか‐ぶんか【飛鳥文化】
デジタル大辞泉
飛鳥時代、推古朝を中心に栄えた日本最初の仏教文化。法隆寺などの建物・文化財などから、朝鮮を経由して伝えられた中国六朝(りくちょう)文化の影響が強くみられ、西域文 ...
26. あすか‐ぶんか[:ブンクヮ]【飛鳥文化】
日本国語大辞典
〔名〕飛鳥時代の文化。ただし多くは、その後半期を白鳳文化(はくほうぶんか)と呼んで区別する。主に六世紀末から七世紀前半の、大化改新前の国家形成の気運を背景に、仏 ...
27. 飛鳥夕映え 蘇我入鹿
デジタル大辞泉プラス
宝塚歌劇団による舞台演目のひとつ。作:柴田侑宏。2004年、宝塚大劇場にて月組が初演。7世紀初頭の飛鳥時代を舞台とした作品。 2013年02月 ...
28. あずみ‐の‐ひらふ[あづみの:]【安曇比羅夫】
日本国語大辞典
飛鳥時代の武将。天智天皇元年(六六二)、百済(くだら)救援のため船一七〇隻を率いて朝鮮半島に渡り、百済王子豊璋(ほうしょう)を王位につける。翌年、唐・新羅連合軍 ...
29. あずみ‐の‐ひらふ【阿曇比羅夫】
デジタル大辞泉
飛鳥時代の武将。滅亡直前の百済(くだら)の救援に赴き活躍したが、白村江(はくすきのえ)で唐の水軍に敗れた。生没年未詳。  ...
30. あのうはいじ【穴太廃寺】滋賀県:大津市/北部地域/穴太村
日本歴史地名大系
る。仮に文字瓦に刻まれた年号を六三〇年・六三二年に想定し、創建寺院のものとすると、穴太廃寺は飛鳥時代末に建立され、大津宮時代に入りなんらかの理由で全面的に建替え ...
31. あのおはいじあと【穴太廃寺跡】
国史大辞典
もち、新しい寺院は保存状態も良好で、講堂は礎石を完存していた。なお出土遺物によって、古い寺院が飛鳥時代末に、新しい寺院が大津宮時代の前後に造営され、平安時代前期 ...
32. あぶみがわら【鐙瓦】
国史大辞典
文様は時代によりそれぞれ異なり、その変化によって製作年代や文化系統などを知る上に重要な資料となる。飛鳥時代は素弁のあっさりした蓮華文を中心としているが、花弁の反 ...
33. あべ‐の‐ひらふ【阿倍比羅夫】
日本国語大辞典
飛鳥時代の武将。斉明天皇の時、たびたび日本海岸の蝦夷(えぞ)、粛慎(みしはせ)の討伐におもむく。天智天皇二年(六六三)、百済(くだら)増援のため出向いたが、白村 ...
34. あみださんぞん【阿弥陀三尊】画像
国史大辞典
中尊を坐像とした古い例としては法隆寺金堂六号壁・仁和寺阿弥陀三尊像などがある。また立像としては、飛鳥時代の作と伝えられている善光寺如来を模したという一光三尊形式 ...
35. あや【綾】
国史大辞典
その後武烈朝には綾をもって衣料としている。古墳時代後期の遺品は東京都狛江市和泉亀塚から発見されている。飛鳥時代の綾は法隆寺献納宝物中の幡にみられ、奈良時代にはい ...
36. アルカイク・スマイル
世界大百科事典
菩薩像には微笑をたたえたものが少なくない。この六朝風の仏像は朝鮮を媒介として日本に移植され,飛鳥時代の仏像となった。法隆寺の百済観音,救世観音,中宮寺や広隆寺の ...
37. アルカイック‐スマイル
デジタル大辞泉
《和archaïqueフランス+smile》ギリシャのアルカイック彫刻にみられる、口もとに微笑を浮かべた表情。中国六朝(りくちょう)時代や日本の飛鳥(あすか)時 ...
38. アルカイック‐スマイル
日本国語大辞典
)ギリシアのアルカイック期の彫像に顕著な、口もとに微笑を浮かべたような表情。中国六朝時代や日本の飛鳥時代の仏像の表情にもいう。 ...
39. いけだじあと【池田寺跡】大阪府:和泉市/池田下村地図
日本歴史地名大系
寺として創建されたと伝える。創建時の記録はないが、遺構から出土した蓮華八葉単弁の瓦によって、飛鳥時代の創建ではないかとされている。その規模は江戸時代に「境内方可 ...
40. いこまぐん【生駒郡】奈良県
日本歴史地名大系
平群谷には内平群条里とよばれる東・西・中三条からなる特殊条里が認められる。〔中世〕この地方には飛鳥時代以来の法隆寺をはじめ、聖徳太子ゆかりの法輪寺・法起寺・福貴 ...
41. 石川早生
デジタル大辞泉プラス
トイモ。早生の丸型品種。同府の南河内郡石川村(現在の河南町に位置する)が原産地。栽培の歴史は飛鳥時代に遡るともされる。子いもをきぬかつぎなどにして食する。市場で ...
42. いしがみいせき【石神遺跡】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
[現]明日香村大字飛鳥 石神 飛鳥時代から奈良時代にかけての宮殿関係遺跡。明治三五年(一九〇二)に須弥山石や道祖神像が出土した場所として古くから知られている。昭 ...
43. 石田茂作
世界大百科事典
得,39年には若草伽藍址を発掘,法隆寺の再建説を実証し,法隆寺再建非再建論争に終止符を打った。41年の《飛鳥時代寺院址の研究》全3冊は,古瓦の編年を基礎に社会構 ...
44. いしだもさく【石田茂作】
国史大辞典
勲二等旭日重光章を受く。主な著書に『経塚』『(写経より見たる)奈良朝仏教の研究』『古瓦図鑑』『飛鳥時代寺院址の研究』『伽藍論攷』『校倉の研究』『仏教美術の基本』 ...
45. いしだ-もさく【石田茂作】画像
日本人名大辞典
49年文化功労者。昭和52年8月10日死去。82歳。愛知県出身。東京高師卒。著作に「経塚」「飛鳥時代寺院址の研究」など。 ...
46. いしぶたい‐こふん【石舞台古墳】画像地図
デジタル大辞泉
奈良県高市郡明日香村島庄にある飛鳥時代の古墳。巨大な横穴式石室が露出し、天井石が舞台のように大きいためにこの名がある。蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とする説もある ...
47. いずみぐん【和泉郡】大阪府:和泉国
日本歴史地名大系
授けられている(日本書紀)。こうした同氏の活動と並行して本拠にあたる坂本郷(現和泉市)でも地歩を固め、飛鳥時代の法隆寺式伽藍配置をもつ禅寂寺を氏寺として建立して ...
48. いずみでらあと【和泉寺跡】大阪府:和泉市/府中村地図
日本歴史地名大系
「和泉志」に「礎石尚存」とあることから、江戸中期まではかなり明らかな遺構がみられたことと思われる。飛鳥時代の古瓦も出土しており、また礎石の一基が泉井上神社境内に ...
49. 和泉国
世界大百科事典
公のほか,物部氏と同祖伝承をもつ韓国(からくに)連・曾禰連・安幕(あまか)首ら,紀氏と同祖で飛鳥時代に法隆寺式伽藍の禅寂寺を氏寺として建立した坂本臣などがおり, ...
50. いそやまじょういせき【磯山城遺跡】滋賀県:坂田郡/米原町/磯村
日本歴史地名大系
[現]米原町磯 磯山の山頂から麓に広がる縄文時代早期から飛鳥時代にかけての遺跡。名称は中世城郭の磯山城跡を含むことからきている。昭和五九年(一九八四)発掘調査が ...
「飛鳥時代」の情報だけではなく、「飛鳥時代」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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