大阪・箕面番外編

 9時過箕面電車にて箕面に行く。渓流の間を上る。朝日倶楽部は寺の左の崖の上にあり、甃(いしだたみ)、縄暖簾、ぢぢと婆、婆はつんぼ。ぢいさんも 婆さんはくりくり坊主である。(略)御婆さんどこだと聞くと千秋閣だす、御帰りに御寄りやす。千秋閣とは入口の立派な料理屋なり。


 夏目漱石は明治44(1911)年8月、大阪朝日新聞の巡回講演団の一員として、関西を講演旅行した。大阪に着いた翌日の8月12日、案内役の高原操記者(熊本五高の教え子)に連れられて、大阪郊外の景勝地、箕面に向かった。箕面には朝日新聞の保養施設・朝日倶楽部があり、そこで漱石は休憩し、名所の箕面大滝まで歩いた。この様子は日記に残され、のちに小説「彼岸過迄」に取り入れられた──

漱石が訪れた
朝日倶楽部跡を探る

 以前「漱石右往左往」に掲載し、連載をもとにした本『旅する漱石先生』(小学館刊)にも載せた漱石の大阪・箕面の旅の地を、このほど再訪した。漱石が訪れ、小説『彼岸過迄』で描いた「朝日倶楽部」の跡地は、執筆時にはわからず、わたしの宿題になっていたが、今回は明確に確認できた。その報告をしたい。
 阪急箕面駅から大滝方面に向かう道には、「モミジてんぷら」の店が並んでいた。モミジは箕面の代名詞であり、モミジの葉を油であげたこのお菓子は名物で、何軒も店先でてんぷらをあげていた。
 10月初めの快晴の朝、渓谷沿いの緑の遊歩道は気持ちがよかった。みな同じようなつば広の帽子にリュックを背負った中高年のハイカーの一団が、ぞろぞろ歩いている。ちょいと失礼、と次々に追い越し、目的の瀧安寺は駅から10分ほどで着いた。
 事前に箕面図書館から送ってもらった地図を頼りに、朝日倶楽部跡を探す。寺の前の広場近くに霊園がある。そのわきの道を行くと、すぐ右に折れる山道があった。角に家一軒がある。この小道をしばらく登ると、林の中に小広い空き地に出る。若いモミジの木が何本も立っている。山側は崖で、人工的に整地した跡が歴然としている。瀧安寺の境内のすぐ上で、雑木林を通して、寺の屋根が見え隠れした。
 鉄のボルトが刺さる石の構造物が、土中に埋めてあった。同じ形の物が4、5個。ここにかつて、なんらかの建物があったことは明らかだ。
 漱石の日記の「朝日倶楽部は寺の左の崖の上にあり、甃(いしだたみ)、縄暖簾……」とある通り、たしかに空き地に続く小道は石畳の道だった。

モミジ育苗園。ここに朝日倶楽部があった。
 空き地の崖に「立入禁止 もみじの育苗園につき関係者以外は立ち入らない……」という看板が半ば、地に埋もれて立ててあった。箕面図書館の人から「朝日倶楽部はモミジ育苗園のところ」とも聞いていた。以上のことから、ここに朝日倶楽部があったことは、明らかだ。
 近くの桜谷休憩所が跡地ではないか、とする説もあり、地図を頼りに桜谷休憩所を探した。この空き地から急な坂を7、8分登ると、林道にたどり着き、そのそばに桜谷休憩所があった。しかし寺からはやや離れており、しかもかなりの急坂を登らねばならず、漱石の記述とは明らかに異なる。ここが旧朝日倶楽部ではありえない。
 では、朝日倶楽部で休憩した漱石が料理を取り寄せた料亭「千秋閣」(後の「一方亭」)はどこか。「大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告」(昭和7年)によると、山側にある朝日倶楽部のもっと川よりに、一方亭が描かれている。探しても痕跡は見つからなかったが、いまは広場になっているあたりと思われる。

箕面にはテーマパークの
先駆けがあった!

 朝日倶楽部跡を確認して、目的を達したが、せっかく来たから、と再び箕面大滝を見物することにした。瀧安寺からゆるやかな登りの道を20分も歩くと、大滝だ。高さ30メートルの滝を目の前にすると、さすがに気持ちがいい。周りは遠足の小学生たちでいっぱい。かわいい赤白の運動帽に囲まれながら、茶店で「モミジてんぷら」7、8個入り400円なりを買い、ほうばった。まあ、モミジの形をした、かりんとうですね。
 箕面駅に戻って、近くの郷土資料館を訪ね、館長の福田薫さんに話を聞いた。朝日倶楽部跡は今のモミジ育苗園に間違いないと福田さん。福田さんによると、瓦やレンガのかけらが見つかり、崖あたりに水道施設の跡らしい痕跡もあるという。
 てんぷら用のモミジは、京都あたりから取り寄せ、長く塩漬けにしたあと、てんぷらにするという。地元のモミジは小さくて、てんぷらには向かないため、よそから買っているが、地元産のモミジを育てようと、育苗園を作ったという。

箕面山瀧安寺は富くじ発祥のお寺でもある。身体健勝・商売繁盛にご利益があると
いう「箕面富」が昨秋復活した。
 その足で箕面市役所へ行った。ここに転載した朝日倶楽部の写真を借りるためだ。大阪朝日新聞の絵葉書の写真という。
 市役所で当時の箕面について、教えてもらった。
 箕面大滝のある一帯は江戸期から景勝地として知られたが、明治43年3月、箕面有馬鉄道(現阪急)が開通、大阪とじかに結ばれた。大阪朝日が朝日倶楽部を設けたのも、鉄道開通を見越してのことだ。箕面鉄道は駅前に動物園や観覧車、公会堂を整備、行楽客を呼び込んだ。今でいうテーマパークを沿線に開設して、集客するしかけをつくったのだ。大正期になって、動物園など諸施設は宝塚に移り、観光開発の軸足は宝塚に移る。路線も神戸方面に延伸し、社名も阪神急行電鉄(阪急)と変更する。箕面にあった公会堂の後身が宝塚に新たにつくった歌劇場で、この劇場を拠点に宝塚少女歌劇が生まれ、大発展するのはよく知られた話だ。
 さて、ここの動物園は、電車開通の半年後の明治43年11月開園した。上野、京都に続く日本で三番目の動物園で、トラやライオンなどの猛獣が飼われ、大評判だったそうだ。漱石の箕面訪問は翌44年8月だから、開園の翌年だ。漱石は駅前の動物園の入り口を横目で見て朝日倶楽部、大滝への道をたどったのだろう。残念ながら、日記には動物園については書かれていない。
 なお、朝日倶楽部は大正年間、伝説的な将棋棋士・坂田三吉がライバルの関根金次郎と名勝負を繰り広げた地でもある。漱石ゆかりでもあり、記念碑のようなものがあってもいいのではないか。この倶楽部がいつ閉鎖されたかは不明だが、市の測量地図などによると、昭和50年代に建物は取り壊されたようだ。朝日新聞大阪本社の倉庫に、写真にある「朝日閣」の大看板が残っているという。

朝日倶楽部の写真。玄関に「朝日閣」という文字が見える。写真提供:箕面市役所総務部総務課


漱石右往左往~文豪・夏目漱石の足跡をたずねて~
2011年11月 2日