最初赴任した小学校では、子どもの「学び方」をどう育てるかを研究テーマとしていて、新米教師の私はつねにそのことについて考えていました。
私は当時、小学3年生の担任をしていて、授業中、辞書を使うようにさせていました。そんなある日、ある女子児童が家で調べてきた言葉がよくわかるように国語辞典に付せんをはさんできていました。「これ、面白いからやってみよう」とクラスの子どもたちに提案したところ、子どもたちは次々とたくさんの付せんをはさんでくるようになりました。
どんどん自分が辞書を使っていくと、使った分だけ付せんがふえていく。子どもたちは辞書を引くときに付せんをつけるだけでこんなにも喜んで辞書を引くということがこのとき分かったのです。辞書引き学習の原型が誕生したのはこの時です。
付せんが増えるとうれしい、うれしいからさらに辞書を引こうとする……つまり「辞書引き学習」で大切なことは、その言葉の意味を知ることよりも、いかに子どもたちに辞書を引くきっかけを与えるか、楽しく辞書を引くことを習慣づけるかということです。いわば遊びの感覚、楽しく辞書を引くことが大事です。
辞書引き学習が注目されるようになって以来、「辞書引き学習」を伝えるために全国を回っています。私の講演は、目の前で子どもがどんどん辞書を引くようになる姿を見せた方がより分かりやすいということで、できるだけワークショップの形式で行うようにしています。
よく大人たちから「付せんは必ず付けなければならないのか?サイドラインでよいのではないか」といったようなご指摘を受けます。私は、「実際にあなた自身が付せんをつけてやってごらんなさい。その楽しさが分かりますから」と申し上げています。
また、「付せんがあると引く時に邪魔になるのではないか」という指摘も時々ありますが、「付せんがないと、そもそも沢山引くようになりません」と申し上げます。大人は自分の理屈で物事を判断して、実際に試してみないからいけないのです。実際に試してみる、継続的に行ってみるということが「イノベーション」につながるのです。
私の講演会に参加する大人たちは、子どもの取り組む姿を目の当たりにして初めて、この学習法の効果の一端がわかります。子どもたちはたった1時間半のあいだに、200語とか300語とか言葉を引いて付せんをつけています。15分も集中できないと思っていた自分の子どもが1時間半の間、辞書引きに没頭する姿に驚きます。
この学習法は、辞書と付せんさえあれば、先生がいなくても、親がいなくても、子どもだけでできる学習法です。まさに、家庭学習にはぴったりなのです。
小学校の授業では、3年生で1回だけ辞書指導をします。指導をしたら一応子どもたちは皆辞書を引けるということになっています。しかし、一度引き方を教えたからといって引けるようになるとは限りません。引き方が分かったからといって喜んで活用するようになるかといえばそうではありません。また、3年生でなぜ指導することになっているのかという点も根拠はありません。
私は、辞書引き学習の手法で指導すれば、かな文字さえ読めれば、小学1年生、いや幼児でも辞書が引けるということを証明してきました。私の娘は5歳ですが、すでに家庭で辞書引きをしています。始めて半年で2000枚以上付せんをつけています。
辞書引き学習に対して戸惑う大人たちはたいてい、日ごろ辞書を引いていない人たちです。
先日、取材で元サッカー日本代表監督の岡田武史さんに小学生用の辞書で辞書引きをしてもらいました。
岡田さんも新鮮な発見がたくさんあったみたいで、夢中で辞書と向き合っていましたよ(くわしくはこちら→小学館ファミリーネット:辞書びきかわら版)。決して大人用の辞書じゃなくてもよいのです。子どもと一緒に辞書引きすることで大人にもさまざまな発見があります。いくつになっても辞書を読むことは、ほんとうに楽しいことなのです。
また、海外でも「辞書引き学習」は注目されています。イランやUAEでは、新聞、テレビで大々的に報道されています。最近では、イギリスやシンガポールに行って、現地の教員や保護者に辞書指導をしました。辞書引き学習は、今や、世界に広がっています。
かつては、学校は文化の発信地でしたから、先進の視聴覚機器も入っていました。SONYが、オープンリールのテープレコーダーがどこで売れるかを考えたとき、思い立ったのが学校なんです。昭和30年代沢山のテープレコーダーが学校向けによく売れていました。
SONYが学校の教育資金を支援する活動を長年行ってきているのは、そうした学校に対する恩があるからだと関係者から聞いたことがあります。
今では、家庭のほうが、学校よりも新しい機器が入るようになりました。確かに学校は「不易流行」のうち、「不易」の部分が大きいのかもしれません。黒板が100年使われ続けているのは、黒板のすばらしいところがたくさんあるからかもしれません。しかし、電子黒板さえあれば、黒板の機能だけでなく、テレビ、PCの画面も一括して電子黒板で表現することができます。私が校長を務めていた立命館小学校ではいち早く、電子黒板を導入しまして効果的な教育が展開されています。先日も、ロンドンの小学校を訪問したところ、視察した5つの学校にはすべて電子黒板が入っていました。もうすぐ日本の学校も電子黒板が各教室に一台入る時代になるでしょう。またデジタル教科書についても、その使い方について考えなければいけない段階にあります。
さてそこで、辞書のデジタル化はどうか。現在の電子辞書は、たくさんの辞書が入っているとか持ち運びが便利といわれていますが、あれだけたくさんの辞書は使われていないのが現実です。あれだけ多くの機能は必要ないのではないかと思います。電子辞書は1つの語彙を素早く探すには便利ですが、このことが必ずしも語彙を豊かにするとか引く習慣をつけるかといえば違うのではないかと思います。
紙の辞書のよい所は、ある言葉を調べる過程において、さまざまな言葉に出会えるというところにあります。また、特に調べる言葉がなくても辞書は読みものとしても十分面白い書物です。
もちろん、紙の辞書には限界があります。紙面に表現できる量というのは人間の目で見える文字の大きさに制限されています。辞典のサイズも手に取れるかどうかに制限されています。
しかしデジタルであれば、その制限から解放されます。また50音順だったものが、アルファベット順にすぐに並び替えることもできる。わからない言葉そのものがわからないという場合でも、その言葉に届く仕組みを持つことができる。たとえば「東京タワー」という言葉がわからなければ、その言葉にまつわる、高い建物とか電波塔とか、そういったキーワードを入れると「東京タワー」がヒットするといった具合です。
また紙の辞書だと物理的にそれなりのスペースが必要です。ですから複数の辞書の引き比べはなかなか大変です。デジタルであれば、そうした物理的な条件は解消されます。
辞書引き学習を指導するとき、さまざまな辞書を使いましょう、といいます。同じ言葉でもなにが同じでなにが違うのか比較し、検討させ、さらによりよいものに発展させるという、知のトレーニングとして語釈の比較は大切です。ですから、デジタルに期待する部分は確かにあります。
そして人間の頭の中にも"辞典"があります。頭の中に学んだことをためていっては、そこからいろいろな情報を取り出して、話をしたり、文章を書いたりする。でも実際に自分の頭の中にどのような語彙が入っているのか、よくわかりません。辞書引き学習では、国語辞典に付せんをつけることで頭の中の辞典を再現できる。つまり、自分の頭の中にある言葉に付せんをつけていくわけですから、どれだけの語彙が自分の頭の中にあるかリアルに再現できるわけです。しかし、実はそうしたことは、むしろ紙の国語辞典ではなく、デジタルのほうが得意かもしれません。私は、今後、こうしたデジタル辞典の分野にも関わりながら、そうした、辞典の新たな可能性を探っていきたいと思います。
そうして考えていくと、これからの辞書には、いままでの電子辞書や冊子体の辞書とはまったく違った辞書が出現する可能性があると言えます。今後、デジタルのよさとアナログのよさが融合した新しい辞書の形がさらに発展していくのではないかと期待しています。
近年、タブレットコンピューターやスマートフォンの出現で、紙面をそのまま再現するとか、ページをスクロールすれば実際に紙をめくったような感覚が味わえるものも開発されつつあります。従来の電子辞書のイメージを覆す辞書が登場する日も近いでしょう。
人を動かすのにもっとも必要なのは、人の心にきちんと届く言葉です。だから、リーダーになる人は、自分の使った言葉がどのような重みを持つのかということを、きちんと考えたうえで言葉を使わないといけません。
そのためにも日ごろから「言葉の預金」をしておくべきです。辞書引きは、机の上だけでしているように見えるけれども、子どもたちは自分が体験したことを調べ、調べたことを体験している。言葉は、自分の体験と密接に関わっているので、言葉の使い方、その言葉が持つほんとうの意味を考え、日々訓練することが、リーダーには必要です。
明治や大正時代に活躍した政治家の多くは、日本や中国の古典、漢文など、いま生きる私たちよりも言葉に関して深い素養がありました。だから彼らの書き言葉や話し言葉は、それなりに含蓄があり趣のあるものでした。この辞書引き学習によって将来、言葉に力があるリーダーが一人でも多く出てきてくれればいいな、と願っています。
私にとって辞書とは、今や「生活の糧」ですね(笑)。
一冊の辞書さえあれば、一人で学ぶことができる、学び合うことができる、知的生活ができるのではないかと思っています。先日、東日本大震災の避難所を訪ねた時、子ども向けに辞書とマンガを持って行きました。驚いたことに、子どもたちは辞書を真っ先に取りました。辞書には「生きる力」を養う言葉がたくさん詰まっているんですね。人は、衣食住が満たされると、知に飢えます。知に渇くとでもいうのでしょうか。私は辞書を本物の知に渇いた人々にお勧めしたいと思っています。