『日本人の知らない日本一の国語辞典』──なぜこういうタイトルをつけたのかというと、日本の国語辞典のなかでじつは『日本国語大辞典』(注1、以下『日国』)がいちばん大きいものなのだ、ということがあまり知られていないからなんです。載っている語数は、昭和9年に平凡社から出た『大辞典』が70万、そして『日国』の初版が45万、第二版は50万です。語数からいえば、『大辞典』のほうが多いので、“日本一の国語辞典”ということはこれまであまり言ってこなかったんですね。では、『日国』はなにをもって “日本一”なのか。それは一項目の説明に使っている文字数です。『日国』は180字くらいで、『大辞典』は70字くらい。ちなみに祖父の(松井)簡治が編纂した『大日本国語辞典』(注2)は77字くらいです。
なぜ『日国』は一項目に使っている文字数が多いのか。それは初版では75万、二版では100万という、ほかの辞書よりもずっと多くの「用例」を添えているからです。用例とは言葉の確かさを裏付ける使用例のこと。その言葉の意味の説明はもちろん大事ですが、私はその言葉がどんな環境でどのように使われていたかを示す用例を入れることがその言葉を深く知るうえで大切だと思っています。同時に文献から用例を新たに見つけること、つまり「用例採集」が辞書編集者の“楽しみ”でもあるのです。
『日国』の初版をつくっているときは「立項」作業もたいへんでした。約45万項目という枠は初めから決まっていて、何人かの先生に言葉の選定をお願いしていたんですが、同じときに顔をそろえて作業するというのも難しい、そのうえ大勢だと意思統一も難しいということで、途中から私一人で担当することになりました。用例が二つ以上あれば、自信をもって見出しに立てられるんですが、一例しかない場合はそれが言葉の存在の証拠になるかどうか。また、たとえば「~続ける」といったような複合語。「歩き続ける」を入れれば、「眠り続ける」も入れなきゃということになっちゃいますよね。こういう複合語を載せるのはやめようと考えるか、それとも有名な古典にも多く使われているんだから載せておこうと考えるか迷う場合もある。朝から晩まで立項作業をし、約2年で45万項目の選定ができました。25秒に1項目のペースで選んでいったんです。
さて、用例の話に戻ります。用例はいわば“辞書の生命”。実際の編集作業の際あたふたしないために、辞書づくりにとりかかる前にいろいろな文献にあたり、「用例採集カード」をつくっておくことが重要です。その用例採集を続けていくなかで、私は明治以降の多くの文献に目を通す機会をもちました。そしてこの100年あまりの間に、日本語が変貌を遂げていることに気づきました。
たとえば「未亡人」。明治に出た書籍では「びぼうじん」というふりがなになっている。つまり当時は「びぼうじん」がふつうだったんですね。「びぼうじん」は、「び」も「ぼう」も「じん」も漢音。ところが「未明」を「み」と読むように、「未」の読み方で「び」という例があまりない。だからだんだん呉音の「み」を使った「みぼうじん」という読み方が広まったんです。それに明治36年には「国定教科書」が出ました。「みぼうじん」という言葉がそのころにふつうに使われていれば、国定教科書には「みぼうじん」が採用されます。小さいころから「みぼうじん」と教わっているから、「びぼうじん」という読み方が不自然になる。だから全集や文庫本になるとき、作者も読みやすいように平気で変えちゃうわけなんです。
『日国』の場合、用例には年代が記してあります。それはだいたい初版本の年代です。だから全集ではなく、初版本をできるだけ使わなければならないと、『日国』の初版の編集途中で気づきました。そのころ「びぼうじん」という言い方がふつうだったら、「みぼうじん」ではなく、「びぼうじん」であるべきなんです。二版は初版本からの用例を取り上げるよう、努力しています。
ほかにも「天国」の読み方が「てんごく」と「てんこく」で揺れていたり、「てりてり坊主」が「てるてる坊主」に変化したり。「のっぺらぼう」も「ぼう」じゃなくて、初めは「ぽう」だったんです。目鼻がない化け物という意味ではなくて、でこぼこがあまりないような土地のことを言ったりするから、「ぽう」が普通だったんですね。
明治時代は外国語が入ってきて日本語が大きく変化する時期。だからなおさら言葉が不安定なことが多かったんですね。
現在の仕事も初版本にあたりながら用例採集。週二回は編集部に通っているので、編集部近くの神保町の古書店をめぐりながら、初版本を手に入れます。いまあたっている本は長谷川時雨(しぐれ)の『美人伝』と白井喬二(きょうじ)の『宝永山の話』。どちらも大正時代のものです。
用例採集はだいたい勘ですね。(『宝永山の話』を見ながら)たとえば、僕がここで拾う言葉は「河岸」。普通、「かわぎし」または「かし」と読みますが、「かがん」とルビが振ってありますよね。「かがん」というのはいつごろから読み始めたのかなと考えて、そういう資料の一つとして言葉を拾っていくんです。経験と継続があるから、勘が働くんですね。
第三版に対する思いは、あまり大きくはないんです。いままで拾ってなかったものを拾って、いくらか用例が増えていけばいいなというくらいに気楽に考えています。また新語については私の専門外なんですが、でも用例はほしい。たとえば芥川賞の作品などを選んで、新しい言葉を拾い上げることも必要だと思います。
三浦しをんさんの『舟を編む』で辞書づくりがクローズアップされました。辞書編集者を目指す人が増えるとしたら、とてもうれしいことですね。『日本人の知らない日本一の国語辞典』には「私の半生、いや一生は、辞書一色の人生です」と書きました。祖父の簡治は戦争になって新しい辞書を完成させることができず、父の驥(き)も跡を継いだものの59歳で早逝しました。祖父と父が100年かけて残したカードが元になり、“日本一の国語辞典”『日国』ができました。辞書づくりは私にとって運命。祖父と父の遺志を継いでやらざるを得なかった仕事です。でもやっぱり辞書づくりが大好きだから、こんなに長く続けられているんです。
(注1)国語辞典。日本大辞典刊行会編。1972年~1976年に刊行した初版は45万項目、75万用例。そして2000~2001年には第二版が刊行され、50万項目、100万用例を収録。2005~2006年には第二版が凝縮された『精選版 日本国語大辞典』(全3巻)も出版。国文学・国語学者にとどまらず、歴史・仏教・漢籍・民俗などの各界の権威、社会科学、自然科学の研究者など3000人以上の識者の協力のもと出版。松井栄一さんは編集委員を務めた。
(注2)国語辞典。初版4冊。上田万年・松井簡治編。大正4~8年(1915~1919)刊。当時の国語辞典で語数においては最大の約22万語を所収。『日国』の前身ともいえる。
できれば辞書を読む機会を多く持ってほしいです。たんに辞書を“引く”のではなく、“読む”。そこに載っている用例を通じて、辞書編集者はいったいどういうことを伝えたかったのかを読み取ってもらう。それが辞書を作っている者のやりがいでもあるし、楽しみでもあります。