うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第二十五回 (うえ)(さぶろ)御猫(おんねこ)は(二)

2012.06.12

(おきな)(まろ)事件、隠し絵の悲しみ(2)

 ふびんな最期だったわね、となおも翁丸の話をしているその夕方、ふと庭先に影のようにあらわれた一匹の犬。からだは腫れに腫れ、あきれるほどみすぼらしく、ぶるぶる震えながら、悲しげに歩く。こんな犬なんか見たことない、もしかしたら、これ、翁丸じゃない、と言い出す人もあり、「翁丸?」と呼んでみても、そのよれよれ犬は知らんぷり。
 日も暮れきってから、えさをやってみたけれど、食べもしない。翁丸ではないわ、ということにきめて、皆は寝た。
 さて、その翌朝である。
 幕はあでやかに開く。中宮様、朝化粧の場である(ほんのしばらくの間だが、このころ中宮は、内裏に帰っていらっしゃった)。
 お化粧も髪梳(かみす)きもみごとに仕上がり、いま中宮は合わせ鏡をなさっている。うしろにひざまずき、鏡を持っているのは清女である。
 ふと、そのとき、宮様の肩ごしに、清女は見た。(ひさし)の柱の根もとに、ゆうべの犬がうずくまっているのを。清女は翁丸のことをまだあきらめきれていなかった。そこで、彼女は、まるでその犬を試してみるかのように、こうつぶやいた。
 「ああ、昨日は翁丸を男たちがずいぶんひどくうちたたいたわね。死んでしまったことだろうが、ほんとうにかわいそう。今度はなにに生まれ変わったかしら。たたかれて死ぬときは、どんなに悲しかったことだろうね」
 と、この柱のもとの犬は、からだをうち震わし、涙をポロポロと落とすではないか。
 あきれた! これはやっぱり翁丸なんだわ。それにしても、犬が人のことばに感応して涙を流すなんて……。
 中宮様もすっかり安心なさって、いつものあの大好きな笑顔を見せてくださった。
 帝もこのことをお聞きになって、中宮様のお部屋にお渡りになって、共に笑い合われた。
 その後、犬狩りをした(さむらい)どもがやってきて、「勅勘をこうむった犬なんだぞ、出せ」とわめくのだが、女房たちの、「そんなの、いないわよ」という声々に退散していく。
 「さて、(かしこ)まりゆるされて、もとのやうになりにき」
という筆は、読者の胸にも、ほっと安堵(あんど)の思いを与える。
 この段の最後に、清女はもう一度、こうくり返す。
 「なほ、あはれがられて、ふるひ()()でたりしこそ、世に知らずをかしく、あはれなりしか。人などこそ、人にいはれて泣きなどはすれ」
 なんといっても、人から同情の声をかけられて、身をふるわせて啼き出した時の翁丸の様子が、このうえもなく興味ふかく、また感動的でもあった。人間なんかは、人からあわれをかけられて泣いたりはするけれど、まさか、犬がねえ……という意味である。
 この段のエッセイのはじめに、私は「隠し絵のようなものもぼんやり浮かびあがってくる」と書いた。
 その隠し絵がなんであるか、おわかりだろうか。
 「殿などのおはしまさで後」の段で語ったが、中宮の兄弟、伊周、隆家は、父関白道隆の死後、事件をおこし、左遷を言い渡された。だが、配所に行くことを拒んで、中宮の当時の御座所である二条北宮(にじょうきたみや)に潜伏、役人たちは中宮の御寝所の壁板を破って乱入、兄弟を逮捕した。伊周は播磨(はりま)、隆家は但馬(たじま)に流され、勅勘の許されるまで、二人はあわれな流人の身であった。
 翁丸事件にこと寄せて、清女が語りたかった思いは、中宮様ご身辺の事件に対する無限の悲愁である。童話のように仕立てられたこの段で、彼女は、犬にさえ涙を流させたのだと思う。