ふびんな最期だったわね、となおも翁丸の話をしているその夕方、ふと庭先に影のようにあらわれた一匹の犬。からだは腫れに腫れ、あきれるほどみすぼらしく、ぶるぶる震えながら、悲しげに歩く。こんな犬なんか見たことない、もしかしたら、これ、翁丸じゃない、と言い出す人もあり、「翁丸?」と呼んでみても、そのよれよれ犬は知らんぷり。
日も暮れきってから、えさをやってみたけれど、食べもしない。翁丸ではないわ、ということにきめて、皆は寝た。
さて、その翌朝である。
幕はあでやかに開く。中宮様、朝化粧の場である(ほんのしばらくの間だが、このころ中宮は、内裏に帰っていらっしゃった)。
お化粧も
ふと、そのとき、宮様の肩ごしに、清女は見た。
「ああ、昨日は翁丸を男たちがずいぶんひどくうちたたいたわね。死んでしまったことだろうが、ほんとうにかわいそう。今度はなにに生まれ変わったかしら。たたかれて死ぬときは、どんなに悲しかったことだろうね」
と、この柱のもとの犬は、からだをうち震わし、涙をポロポロと落とすではないか。
あきれた! これはやっぱり翁丸なんだわ。それにしても、犬が人のことばに感応して涙を流すなんて……。
中宮様もすっかり安心なさって、いつものあの大好きな笑顔を見せてくださった。
帝もこのことをお聞きになって、中宮様のお部屋にお渡りになって、共に笑い合われた。
その後、犬狩りをした
「さて、
という筆は、読者の胸にも、ほっと
この段の最後に、清女はもう一度、こうくり返す。
「なほ、あはれがられて、ふるひ
なんといっても、人から同情の声をかけられて、身をふるわせて啼き出した時の翁丸の様子が、このうえもなく興味ふかく、また感動的でもあった。人間なんかは、人からあわれをかけられて泣いたりはするけれど、まさか、犬がねえ……という意味である。
この段のエッセイのはじめに、私は「隠し絵のようなものもぼんやり浮かびあがってくる」と書いた。
その隠し絵がなんであるか、おわかりだろうか。
「殿などのおはしまさで後」の段で語ったが、中宮の兄弟、伊周、隆家は、父関白道隆の死後、事件をおこし、左遷を言い渡された。だが、配所に行くことを拒んで、中宮の当時の御座所である
翁丸事件にこと寄せて、清女が語りたかった思いは、中宮様ご身辺の事件に対する無限の悲愁である。童話のように仕立てられたこの段で、彼女は、犬にさえ涙を流させたのだと思う。