うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第二十四回 (うえ)(さぶろ)御猫(おんねこ)

2012.05.22

(おきな)(まろ)事件、隠し絵の悲しみ

 『枕草子』のなかで清女は、この草子を人が見るなどとは思いもしなかったので、品のないことでも、不愉快なことでも、思ったことはなんでも書こうと思った、と言っている。
 そんな清女の筆は、一条(いちじょう)天皇の御所でおこった、翁丸という犬の事件も、漏らさず書きとどめてくれた。
 残酷童話のような趣も持つこの物語だが、平安の宮廷の裏面も、そこに生きた人々の生態も活写しておもしろい。しかも、じっくり読みこんでいくと、隠し絵のようなものもぼんやり浮かびあがってくるのだ。
        * * *
 幕は、のどかに、また華やかにひらく。
 命婦(みょうぶ)という位までいただき、昇殿を許された、一条天皇のペットのメスの子猫は、フワフワの毛を光らせ、春陽(はるひ)さす縁側でぐっすり眠っていた。
 ペルシャ渡りのかわいい猫であろう。(にしき)(ひも)など、首につけていたのではなかろうか。
 猫は、人間なみに乳母までつけてもらっていた。
 「まあ、お行儀がわるい。お入りあそばせ」
 姫君のくせに居眠りなんて、ご身分をお考えあそばせ、と、乳母の馬命婦(うまのみょうぶ)は言うのである。乳母の名前までもおかしい。清女のユーモアたっぷりの筆を味わってほしい。
 だが、ポカポカの日ざしの中で、正体もなく眠りこけているこの快感。猫は目覚めようともしない。乳母は、これも(みかど)のペット仲間の翁丸に大声で呼びかけた。
 「翁丸どこにいるの? 命婦さまに食いつけ!」
 もちろん、じょうだん。だが、犬にじょうだんは通用しない。忠実な犬である。言いつけを守って、でっかい犬は走りかかった。猫は泡をくって御簾(み す)の内に逃げこんだ。
 若き帝はお食事中だったが、逃げこんできた猫を見てたいへん驚かれ、よしよし、どうした、と(ふところ)にお入れになった。
 帝は翁丸に対して激怒された。
 「不届き者め。うちたたき、こらしめて、犬島に流せ。いまのいま、ただちに」
 勅命である。翁丸の運命は暗転。大勢の者どもに狩り立てられ、淀川(よどがわ)の中洲にあった野犬の島に送られてしまった。
 事の次第を知って、中宮方の女房たちは翁丸の身の上をあわれみ、威風堂々としていたその姿を思い出す。
 「三月三日、頭弁の、柳かづらせさせ……」から「かかる目見むとは思はざりけむ」までは、清女のことばであろうか。
 ここは、翁丸の華やかなりし日の回想シーンで、柳の枝をわがねた髪飾りに桃の花枝も折り添え、腹帯には、舞人のように桜の花枝まで挿して、練り歩かされた姿を、天然色で描いている。柳の緑、桃の紅、桜の淡紅、(ひな)の節句の日はうららかに晴れて、翁丸は満たされた顔で、衆目を浴びていたことであろう。
 翁丸を飾りたてたのは、蔵人頭(くろうどのとう)右大弁(うだいべん)を兼ねた藤原行成。書の美しさで世に聞こえた、多彩な粋人。清女とも心の通いあう仲であった。
 「三月三日、頭弁の……」と、名指しで記した、この部分の清女の筆にも、ありし日の宮廷生活へのなつかしさが濃くにじんでいることに注目したい。
 「中宮様がお食事をなさるときには、いつもお下がりを期待して、こちらをじっと見て控えていたのに、あの姿を見られなくなって、さびしいわね」
 などと、清女はまわりの人たちに言っていたが、そのまま三、四日たっていった。
 ある朝悲しげに長啼(ながな)きする犬の声を聞いた。翁丸の声らしい、と思うとき、下級の下女が来て注進。翁丸が帰ってきたのを、男どもが見つけて、うちたたき、殺し、御所の外に捨てたという。断末魔らしいその声を聞き、あわれさに清女の胸はつぶれた。