うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

あとがき  
『枕草子』の魅力──意志に支えられた精緻な目──
[ジャパンナレッジオリジナルあとがき]

2012.06.26

 枕草子の魅力といえば、なんといっても、その喜び上手な心のわざが、まず第一に思い浮かべられる。
 たとえば、“うれしき事二つにて”(百三十段「頭弁の、職にまゐりたまひて」)という言葉が光るあの場面だ。源経房がやってきて、
 「あなたのことを行成がとてもほめていたよ。好きな人が人にほめられるっていうのはうれしいもんだね」
 と、きまじめに言ったとき、うてば響くように返した言葉の“うれしき事二つにて”は、この草子の魅力──何でもこまやかにみつめ、聴き、考えを深めて、()でる、という心の見本となるものであろう。行成が自分をほめたこと、経房が自分を好いてくれているのが分ったこと、その二つがうれしいというのだが、なんとセンスある会話ができる人なのだろう。
 まさに瞬間芸の名手といってもいい。
 その喜び上手の心の裏にあるのは、怒り、愚痴、悪口というような、およそネガティブな非生産的な心の状態を、いつも抑制できる意志のみごとさだ。
 人よりもはるかに敏感な神経の持ち主なのに、いやなことがあっても、表面はおだやかな微笑で通せるのはこの意志あってのことだ。
 アクティブな喜び上手の心と、ネガティブな思考を抑え得る意志とは、じつはリバーシブルに仕立てられているのである。

  喜び上手の心で、物事を精緻にみつめ、深く考えるその姿勢をよく現わしている言葉は“せめて見れば”であろう。「木の花は」(三十五段)という物づくしの中に出てくるのだが、世間の人々がつまらない花と見捨てている梨の花も“よくよく観察してみれば”はなびらの端にほのかな色つやがある、というのだ。この“せめて見る目”は大活躍して、いろいろなものを発見してくれる。
 月明の夜に川を渡る牛車の輪に、“水晶(すいそう)などの割れたるやうに”砕け散る水しぶきをみつめる目(二百十六段「月のいと明かきに」)。そして、台風一過の朝、格子の枠の間に、吹きちぎられた木の葉が色とりどりに配られているのを見て、荒かった風のしわざとは思えぬやさしさと感嘆する、その目くばりのこまやかさ(百八十九段「野分のまたの日こそ」)。身辺のことも自然の姿も、みな、清少納言の愛ある、すぐれた眼力によって、いきいきといのちをはらむ。

 まっ白な紙や美しい畳表などもらうと、生きることも楽しくなるという少納言を、「ひどくちっぽけな物でも心をなぐさめられるんだね」と中宮定子はからかう(二百五十九段「御前にて人々とも、また物仰せらるるついでなどに」)のだが、じつはこの定子、だれよりも深い理解者。少納言は『枕草子』に中宮のサロンの様子を書き残すにあたり、ここでもネガティブなことは一言一句も書くまいと意志するのである。
 一条天皇の愛を充分に受けながら、その身辺には不幸の翳が濃かった定子を、筆で輝かせてさしあげたいと、少納言は力をこめる。
 積善寺(さくぜんじ)供養の条(二百六十段「関白殿、二月二十一日に、法興院の」)で、盛装した定子が「私をどう見る?」とたずねたとき、「そりゃあ、もう、大したものですわ」と息をのんで答える清少納言。草子を閉じた後も、このほほ笑ましさがいつまでも心に残る。

平成二十四年六月 清川 妙