枕草子の魅力といえば、なんといっても、その喜び上手な心のわざが、まず第一に思い浮かべられる。
たとえば、“うれしき事二つにて”(百三十段「頭弁の、職にまゐりたまひて」)という言葉が光るあの場面だ。源経房がやってきて、
「あなたのことを行成がとてもほめていたよ。好きな人が人にほめられるっていうのはうれしいもんだね」
と、きまじめに言ったとき、うてば響くように返した言葉の“うれしき事二つにて”は、この草子の魅力──何でもこまやかにみつめ、聴き、考えを深めて、
まさに瞬間芸の名手といってもいい。
その喜び上手の心の裏にあるのは、怒り、愚痴、悪口というような、およそネガティブな非生産的な心の状態を、いつも抑制できる意志のみごとさだ。
人よりもはるかに敏感な神経の持ち主なのに、いやなことがあっても、表面はおだやかな微笑で通せるのはこの意志あってのことだ。
アクティブな喜び上手の心と、ネガティブな思考を抑え得る意志とは、じつはリバーシブルに仕立てられているのである。
喜び上手の心で、物事を精緻にみつめ、深く考えるその姿勢をよく現わしている言葉は“せめて見れば”であろう。「木の花は」(三十五段)という物づくしの中に出てくるのだが、世間の人々がつまらない花と見捨てている梨の花も“よくよく観察してみれば”はなびらの端にほのかな色つやがある、というのだ。この“せめて見る目”は大活躍して、いろいろなものを発見してくれる。
月明の夜に川を渡る牛車の輪に、“
まっ白な紙や美しい畳表などもらうと、生きることも楽しくなるという少納言を、「ひどくちっぽけな物でも心をなぐさめられるんだね」と中宮定子はからかう(二百五十九段「御前にて人々とも、また物仰せらるるついでなどに」)のだが、じつはこの定子、だれよりも深い理解者。少納言は『枕草子』に中宮のサロンの様子を書き残すにあたり、ここでもネガティブなことは一言一句も書くまいと意志するのである。
一条天皇の愛を充分に受けながら、その身辺には不幸の翳が濃かった定子を、筆で輝かせてさしあげたいと、少納言は力をこめる。