国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第2回 新撰組(2)

2010年07月15日

 清川八郎の策謀で実現した浪士組に加わった近藤勇土方歳三たちが江戸を出発したのは文久3年(1863)2月8日のことでした。 中山道なかせんどうを進んだ一行230余名が京都に到着したのは2月23日。その2年前の文久元年10月、同じ街道を将軍徳川家茂 (いえもちとの婚礼のために下った、親子内親王 (ちかこないしんのう(和宮)の大行列は25日間かかったということですから(武部敏夫著『和宮』/「人物叢書」/吉川弘文館刊)、これに比べて屈強の男たちの2週間は、それほどの強行軍ではなかったとも言えます。

 浪士組は、壬生みぶの新徳寺を本陣とし、隊士たちはその近辺に分宿することになります。近藤たちには八木源之丞宅の離座敷が与えられます。八木家は郷士筆頭で代々壬生狂言の世話役を務める、当地では名門の家柄でした。八木邸は現存しており、門前の和菓子処鶴屋鶴壽庵で、新撰組にちなんだ「屯所餅 とんしょもち」などの菓子を召し上がりながら往時を偲ぶのも良いかもしれません。

 尊王攘夷運動の活動家だった清川は、京都での警備活動に加わるつもりなどさらさらなく、ただちに江戸に戻り攘夷を実行することを狙っていました。目論見 (もくろみの通り、清川は浪士組の大半を引き連れ、3月13日には江戸へ出立してしまいます。これに対し、将軍を守護するとして残留したのが、水戸藩天狗党の乱の人脈につながる芹沢鴨 (せりざわかもと近藤たちでした。彼らは徳川慶喜よしのぶ松平慶永よしながらが設けた京都守護職の職に就いた会津藩松平容保かたもりの「御預かり」となり、市中取締りにあたることになります。ここに新撰組の前身となる「壬生浪 (みぶろ」が誕生したのです。

 その人数は25人説、19人説などさまざまです。いずれにしても、芹沢のグループをはじめ、土方、沖田総司や八王子千人同心出身の井上源三郎、あるいは永倉新八 (ながくらしんぱち山南敬助 (やまなみけいすけ藤堂平助 (とうどうへいすけなどの近藤勇が当主の試衛館出身者、新たに加わった斎藤 (はじめ、佐伯又三郎、すぐに粛清されてしまう殿内義雄など、思惑 (おもわくや出身を異にする寄せ集めの集団にすぎませんでした。

 ターニングポイントとなるのは文久3年の八月十八日の政変でした。孝明天皇の大和行幸を機に、江戸幕府に攘夷即時断行の勅令を下そうという萩藩(長州藩)に対し、公武合体運動を進めていた会津藩と鹿児島藩(薩摩藩)がそれを阻止し、長州藩勢力と三条実美 (さねとみら尊攘派の公卿くぎょうを京都から追放したこのクーデターの後、働きを認められた壬生浪士は、会津藩から「新撰組」という隊名を授けられます。

 この表記について『国史大辞典』は「新撰組」を採っていますが、「新選組」を使うケースもあります。関連史料をまとめた子母沢寛 (しもざわかんは『新選組始末記』、同じく平尾道雄は『新撰組史録』。土方が遺した文書でも、元治元年(1864)1月の将軍警護の布陣図は「新選組」、同6月の義兄佐藤彦五郎宛の手紙は「新撰組」と書いており、隊士たちも混同して使っていたようで、どちらが正しいとは断言できないのです。

 9月には芹沢鴨と配下の平山五郎を暗殺し、近藤勇が実権を掌握します。いよいよ映画テレビジョンなどで御馴染 (おなじみの、「誠」のを立て、浅葱の地に袖口を山型に白く染め抜いたダンダラ羽織といういでたちで、禁門警備と討幕派取締りにあたる、血で血を洗う戦いの日々が始まります。

 新撰組の名前を一躍高めたのが、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件です。京都に潜入した尊攘派志士たちが、河原町三条の旅籠屋はたごや池田屋に集合するとの情報を掴んだ新撰組が、わずか30名で踏み込んだのです。激闘数時間、肥後の宮部鼎蔵ていぞう、長州藩の吉田稔麿としまろなど7名が殺され、23名が捕縛されます。この会合に参加するはずだった木戸孝允たかよしは、早く着きすぎたので対馬藩邸に寄り道し難を逃れたという逸話が残っています。この事件で大きな打撃をうけた長州藩では報復の声が高まります。高杉晋作などの慎重論を押え、来島又兵衛きじままたべえ久坂玄瑞 (くさかげんずい福原越後 (ふくはらえちご真木保臣まきやすおみらが兵を率いて京都へ向い、7月の禁門の変へと突き進み、新撰組とも戦うことになります。

  新撰組を名乗った150年前の若者たちは、どのような世界を目指して、血腥 (ちなまぐさい日常を生きたのでしょうか。もうしばらく彼らの足跡を追ってみたいと思います。

『本郷』No.50 (2004年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第50回「新撰組」(2)を元に改稿しました