国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第29回 笑いのはなし(3)

2012年09月06日

歴史の中には実にさまざまな笑いが溢れています。爆笑・微笑・艶笑・哄笑・苦笑・冷笑・嘲笑・失笑・泣笑い……。前回の後を受けて、中世から近世にかけての笑いの表情を、ウォークしていきたいと思います。

権力に対する皮肉な笑いと言えば、誰もが思い出すのが二条河原落書にじょうがわらのらくしょでしょう。鎌倉幕府が倒れた元弘3年(1333)5月から約2年間、後醍醐天皇の強力なリーダーシップのもとに進められた建武新政けんむのしんせいは、脆弱ぜいじゃくな権力基盤にもかかわらず打ち出される矢継ぎ早の改革と、側近偏重の人事のせいで、大きな社会的混乱をもたらすことになります。そのとき二条河原に看板が立ち、皮肉に満ちた落書が掲げられました。『建武記』に採録された「此比このごろ都ニハヤル物」で始まる88行は、そのすべてがときの政権に対する批判の言葉でした。

夜討ようち強盗謀綸旨にせりんじ」--軍事力の不足で京都の治安は乱れ、天皇の意思を伝える文書である綸旨も偽りのものが横行する。「器用きよう堪否かんぴ沙汰モナク、モルル人ナキ決断所」--能力の有無を問うこともなく100人以上の人が所領の訴えを扱う雑訴決断所ざっそけつだんしょに採用されたが、訴訟の処理はおぼつかない……。当時の二条河原は多くの人々の集まる無縁の地でした。この看板の周りは黒山の人だかりとなり、文字もんじの読める男が大声で落書を読み上げています。「集まった人びとは、相好そうごうを崩して笑ったり、我が意を得たりとほくそ笑んだり、怒りを込めて何かつぶやいたり、生活の不安に気をとられてほうけた顔をしたりしている」(大隅和雄他著『知っておきたい日本史の名場面事典』吉川弘文館刊)。

もう一つ、この時代の悲壮感に溢れる笑いをご紹介しましょう。戦前に教育を受けた人なら誰もが知っていた、『太平記』に描かれた次のシーンです。楠木正成くすのきまさしげ楠木正季まさすえ兄弟の湊川(のちの湊川神社の地)での自刃の場面、死に臨み正成が正季に最後の望みを尋ねます。「正季カラカラト打笑テ、七生マデ人間只同シニ生、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存ジ候ヘ」と答えます。死を目前にしても動じることなく、笑顔で後醍醐天皇への忠誠を誓う、南北朝時代を彩る名場面です。この言葉が「七生報国」という愛国的スローガンに姿を替えたのは後のことです。明治37年(1904)、日露戦争旅順りょじゅんの戦で戦死した広瀬武夫海軍中佐が残したとされる辞世、「七生報国/一死心堅/再期成功/含笑上船」が決定的でした。太平洋戦争では出征兵士たちの寄せ書きや神風特別攻撃隊の隊員たちのたすき鉢巻に、この言葉が書かれていたことは、悲しい記憶として刻まれています。

主君への忠義を、「笑顔」を主意に説いているのが、大久保彦左衛門の著した『三河物語』の一節です。「何事をもかごとをも、御意次第、火水の中へも入りて打ち笑い申して、御機嫌のよきやうに御奉公申し上げたてまつれ」。大久保氏は三河以来の徳川氏譜代の家臣で、彦左衛門も天正3年(1575)から徳川家康に仕え、翌4年17歳のときに遠江国乾の戦に初陣ういじん、同9年同国高天神城たかてんじんじょうの攻略戦、同13年信濃国上田城攻撃などに戦功をたてました。慶長19年(1614)に謀反むほんの嫌疑を受けた大久保忠隣ただちか改易にともない、駿府城に召されて三河国額田郡ぬかたぐんに1000石の地を与えられ、大坂の陣では鑓奉行やりぶぎよう、寛永9年(1632)に旗奉行にもなった、徳川秀忠徳川家光まで3代の征夷大将軍に仕えた古参の旗本・御家人でした。戦乱の世が終わり、為政者としての管理能力が重要視されるようになった当時は、彦左衛門にはそれほどの活躍の場は与えられず、その不満と泰平の世相に対する批判が『三河物語』には込められています。しかし、どのような処遇にあろうとも、不服な顔などせず、いつも笑顔で主君のご機嫌がよくなるよう忠義に励むべきというこの教えは、主君絶対の近世武士道の成立を示したものと言われています(大隅和雄他著『知っておきたい日本の名言・格言事典』吉川弘文館刊)。

最後は賑やかな笑いの大爆発で終わりとしましょう。「おかげでさ、するりと、抜けたとさ」。リズムに合わせて歌い踊りながら進む人びと。笑顔がはじけ、冗談が飛び交います。白衣びゃくえを着た男衆、野良着姿の百姓の集団がいたかと思うと、草履ぞうりを引っ掛けた子供の集団、揃いの派手な衣装を着込んだ娘たち、普段着姿の職人たちが続きます。御蔭参おかげまいりの民衆の群れです。慶安3年(1650)に江戸商人たちが伊勢神宮への抜参ぬけまいり流行はやらせ、宝永2年(1705)には大規模な御蔭参が京都から起こり、東は江戸、西は安芸国阿波国など16ヵ国から合わせて330万人~370万人もの人が参宮したと言われています。その後、大規模な御蔭参は明和8年(1771)・天保1年(1830)とほぼ60年周期で起き、民衆の巨大な祝祭エネルギーの爆発として、陽気な笑い声や唄声とともに長く記憶されています。

さて、この春から首相官邸や国会議事堂前で、毎週金曜日に続けられている反原発の抗議行動も、大勢の人々の賑やかな叫びや唄声にあふれています。怒りや悲しみとともに開放感に包まれた笑顔があるのも印象的です。この笑いの表情は深いところで御陰参とつながっているようにも思えます。数えてみれば天保1年から180年。60年周期と同期していると言えば、牽強付会が過ぎると怒られるかもしれません。

『本郷』No.83(2009年9月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第83回「笑いのはなし」(3)を元に改稿しました