国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第4回 新撰組(4)

2010年08月19日

 新撰組の跡を追う私たちのウォークも今回が最後となりました。池田屋事件禁門の変、厳しい粛清や伊東甲子太郎派との抗争、陸援隊との戦いなどはジャパンナレッジで検索していただくこととして、私たちは鳥羽・伏見の戦まで一気に話を進めることにいたします。

 

 慶応3年(1867)12月9日、ついに王政復古の大号令が発せられ、征夷大将軍の職を辞した徳川慶喜よしのぶ二条城を退去し、大坂城に移ります。新撰組も大坂(大阪)に下ったあと、新政府軍との戦いに備え、16日に最前線の伏見奉行所に布陣しました。その直後、近藤勇は伊東派残党により伏見の藤ノ森で狙撃され、右肩を打ち抜かれる重傷を負います。幕医松本順の治療を受けるため、結核の悪化した沖田総司とともに大坂に移送され、かわって土方歳三が隊の指揮を執ることになります。

 明治元年(1868)1月3日午後5時、大目付滝川具挙ともたかの率いる幕府軍先鋒に薩摩軍から砲弾が打ち込まれ、戦端が開かれます。これがその後1年半続くことになる戊辰戦争ぼしんせんそうの始まりでした。両軍の戦力は、幕府軍が兵1万で大砲14門、薩長を中心とした討幕軍が兵3千で鉄砲10隊に大砲13門というものでしたが、新型のライフル銃など火砲に優れた討幕軍に、幕府軍は白兵戦を挑んでは敗退していきます。土方に率いられた新撰組も、永倉新八ながくらしんぱち、島田かいらの二番隊が、いかにも新撰組らしい奇襲戦法だと思いますが、「土塀を乗り越え」切り込みをかけます。しかし、激しい銃撃を浴び、退却を余儀なくされます。翌4日、仁和寺宮嘉彰にんなじのみやよしあき親王(彰仁親王あきひとしんのう)が征討大将軍に就任し、錦御旗にしきのみはた節刀せっとうを渡され、ついに幕府軍は賊軍となったのです。5日、淀堤千両松の戦いで、薩摩軍の集中砲火を受けた新撰組は、八王子千人同心出身の井上源三郎など20数名が戦死するという壊滅的打撃をこうむります。後に土方はこの戦いを振り返り、「これからは槍や刀ではなく銃器です」と語ったとされています(依田学海よだがっかい著『譚海』)。6日には、対岸の山崎の関門で幕府方に立っていた津藩の軍が、突如、幕府軍へ砲弾を浴びせ、進退窮まった幕軍はついに大坂城へと引き上げます。その夜、徳川慶喜は老中板倉勝静かつきよ松平容保かたもり松平定敬さだあきなどわずかの側近を連れて、密かに大坂城を脱出し、幕府海軍の軍艦開陽丸江戸へと逃げ帰ってしまいます。

 徳川慶喜が恭順の意を示す一方で、新撰組の多くは徹底抗戦の途を選びます。3月初め、近藤たちは官軍を迎え撃つべく、甲陽鎮撫隊こうようちんぶたいを組織して甲州へ向かいます。しかし、目指す甲府城はすでに板垣退助を参謀とする東山道先鋒の手に落ちており、勝沼では近藤たちは大敗北を喫してしまいます。この後、会津に向かおうと主張する永倉、原田左之助たちと近藤、土方は対立し、固い団結を誇った新撰組創設メンバーにも、瓦解のときが訪れました。

 近藤と土方も江戸を離れ、足立郡の五兵衛新田の名主・庄屋金子家を屯所として兵を集めます。4月1日に江戸川対岸、下総国流山へ転陣したときには、227名もの勢力になっていました。流山での本陣は酒屋の長岡屋に置かれました。ここで現在も酒問屋を営む株式会社秋元では、成田の蔵元と協力して日本酒「本陣長岡屋」を発売しています。近藤勇のように男らしい辛口に仕上げたということです。日本酒好きの方はぜひお試し下さい。

 4月3日、本陣が政府軍の急襲を受けた時、部隊は訓練のために出払っていて、残っていたのは近藤と土方のほか数名でした。近藤は自刃を決意しますが、土方の強い勧めを受け入れ、投降しました。土方は大久保忠寛ただひろ勝海舟に懸命の助命工作を行いますが果せず、4月25日に板橋の刑場で近藤勇は斬首され、35年の生涯を終えました。その後も土方は宇都宮、会津、仙台と転戦し、最後は榎本武揚たけあきの軍に加わって蝦夷地えぞちに渡り、箱館戦争五稜郭付近の一本木関門で戦死しました。時に明治2年5月11日、盟友近藤の死からほぼ1年後のことでした。

『本郷』No.52 (2004年5月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第52回「新撰組」(4)を元に改稿しました