国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第32回 テレビ放送六十年

2012年12月06日

来年はわが国でテレビジョンによる放送が開始されてから60年目の年にあたります。人間で言えば還暦ということになりますが、ケーブルテレビや衛星放送、インタラクティブテレビやインターネットの動画投稿サイトなどの登場により、ますます多様化するとともに、違法アップロードや検閲の問題なども発生して、大きな揺らぎの中にいるようです。テレビ放送誕生の周辺をウォークして、その初心を探ってみたいと思います。

昭和28年(1953)2月1日、日本放送協会(NHK)のテレビ放送が始まりました。放送開始は午後2時、開局式の模様が中継されました。来賓の大野伴睦ばんぼく衆議院議長、吉田内閣内閣官房長官緒方竹虎たけとら副総理などを前に挨拶に立った古垣鐡郎NHK会長は、感極まって絶句したと伝えられていますが、「テレビの性能の中には、国民の生活様式を一変するていの大きな力を持っております」と述べています。自画自賛は式辞の常ではありますが、これはその後の発展を予言した名挨拶と言えるかもしれません。

3時からは尾上松緑おのえしょうろく(2代)、尾上梅幸ばいこう(7代)、坂東三津五郎ばんどうみつごろう(9代)による「義経千本桜よしつねせんぼんざくら」からの舞台劇「道行初音旅みちゆきはつねのたび」。やがて歌舞伎新派新国劇の劇場中継はNHKの十八番おはことなり、新劇少女歌劇などさまざまな演劇も取り上げられるようになって、今も多くのファンを楽しませています。3時半からは1月20日に行われたアメリカ合衆国アイゼンハワー大統領の就任式のニュース映画藤原義江よしえと大田黒元雄による「オペラよもやま話」、6時半の再開後は子供の時間、ニュース・天気予報、日比谷公園の公会堂からラジオの人気歌謡番組「今週の明星」の中継と続きます。漫才をはさみ、舞踊「日本の太鼓」が同所から再中継され、放送は9時に終了しました。当時NHKにあったテレビカメラは5台、自作の送信機の出力は5キロワット、電波の届く範囲は東京の周辺だけで、受信契約数はわずか866件でした。国民の多くはラジオの同時中継でテレビ放送の開始を知ったのです。

拙速とも言えるほどNHKがテレビ放送の開始を急いだのは、民間放送との競争があったからでした。昭和25年の放送法電波法の制定を受けて、次々と民放ラジオが開局、テレビ放送にも読売新聞正力松太郎しょうりきまつたろうが乗り出してきました。虎ノ門事件により警視庁を引責辞職して新聞界に身を投じた正力は、『読売新聞』を日本一の発行部数を持つ新聞に育て上げました。戦後は読売新聞社争議の際に連合国最高司令官総司令部(GHQ)から戦争犯罪人に指名され公職追放を受けましたが、この追放中に戦前に新興財閥日産コンツェルン満洲重工業開発会社を率いた鮎川義介あゆかわよしすけからテレビ放送の話を持ち込まれたのです。同26年8月に追放解除を受けると、正力は持ち前の政治力と行動力を発揮して、当時の大蔵大臣池田勇人はやとに働きかけ財界から出資を募る一方、内閣総理大臣吉田茂などの力も利用しながら、テレビ放送の予備免許をNHKに先んじて獲得してしまいます。

昭和27年8月11日に日本工業倶楽部で開かれた日本テレビ放送網の発起人会には、驚くほど大物政財界人が並んでいます。元王子製紙会社会長の藤原銀次郎五島慶太東京急行電鉄相談役、富士製鉄会社社長の永野重雄藤山愛一郎日東化学工業社長。そしてマス=コミュニケーション関連からは朝日新聞の村山長挙会長、毎日新聞の本田親男社長、映画業界の小林一三いちぞう東宝社長、永田雅一まさいち大映社長…といった具合です。経営者たちはテレビ放送が大きな利権を生むことに気付いていたのです。

こうしてNHKの放送開始から半年遅れの8月28日、日本テレビ(NTV)が開局を迎えます。招待客は吉田茂総理大臣、康次郎やすじろう衆議院議長、歌舞伎の中村吉右衛門(東京系初代)など2500名。民放の生命線である広告も事前に6割以上埋まっていました。しかし肝心のテレビの普及台数はようやく3000台を越えた程度でした。開局当日に日本コロムビアが「NTV放送開始記念特価」とした『朝日新聞』の広告でも、17インチサイズのもので20万7000円。東京郊外の立川なら100坪の土地が買える値段で、庶民にはまさに高嶺の花でした。そこで登場したのが街頭テレビで、これが大当たりでした。開局時には都内、千葉横浜浦和など42ヶ所に設置され、最盛期には200ヶ所を越え、200万人を超える人々がその前に群がったと言われています。

翌29日には、初めて野球のナイター中継が行われ、読売巨人軍が阪神タイガースを6対2で破りました。巨人ファンの皆様のために付け加えておくと、この年のジャイアンツは今年同様の独走優勝で、日本シリーズも制し、MVPの大友たくみは高級自転車をゲットしました。まだそんな時代だったのです。

さてジャパンナレッジでの「国史大辞典ウォーク」も今回で最終回となりました。「国史大辞典」WEB版の魅力を充分にお伝えできたかどうか、はなはだ心許ないのですが、長らくのご愛読に感謝いたします。どうか皆様もジャパンナレッジを縦横に活用して、知の世界をさらに豊なものにしてください。

『本郷』No.48(2004年7月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第48回「テレビ放送五十年」を元に改題・改稿しました