国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第20回 相撲のゆくえ(2)

2011年12月01日

磐石の横綱白鵬、ご当地福岡県出身の新大関琴奨菊、大関取りに挑んだ関脇稀勢の里の活躍もあって、大相撲九州場所は大いに盛り上がりました。様々な不祥事が尾をひいて、観客の入りはいささか寂しいものでしたが、土俵上で繰り広げられる力士たちの熱のこもった取組が、観客を呼び戻す唯一の方策であることは間違いありません。今回は相撲人気の再生を願って、歴史のなかの名勝負や相撲で名をはせた人たちをウォークしてみたいと思います。

古事記』の建御雷神たけみかずちのかみ建御名方神たけみなかたのかみの力比べや、『日本書紀』の野見宿禰のみのすくね当麻蹶速たいまのけはやの闘いについては前回触れました。『今昔物語集』や『古今著聞集』といった説話文学にも、真髪成村まがみのなりむら海常世うんのつねよ薩摩氏長さつまのうじなが三宅時弘みやけのときひろといった奈良時代から平安時代にかけて盛んに行われた相撲節すまいのせちの相撲人たちが登場しますが、いずれも伝説上の人物のようです。実在の人物では、保元3年(1458)に30数年ぶりに行われた相撲節で最上位の最手ほてをつとめた、藤原秀郷ふじわらのひでさとの流れを汲む下野国の武将、足利忠綱がいます。その力は100人に匹敵し、声は10里に届き、歯の長さ1寸の「末代無双勇士」であったと、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡あずまかがみ』には記されています。

『吾妻鏡』には、鎌倉幕府を開いた源氏の棟梁、源頼朝がしばしば相撲を見物したことが記述されています。その多くは鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうの祭礼で、競馬くらべうま流鏑馬やぶさめなどとともに行われた神事でしたが、宴会などの余興としても愉しまれていました。同書建久2年(1191)閏12月7日の記事には、「幕下入御于三浦介義澄宅。此間依令新造。所申案内也。終日御興遊。平六兵衛尉義村。太郎景連。佐貫四郎。大井兵衛二郎等被召。決相撲勝負云云」と記されています。さて、この難解な漢文を現代語に訳すとどうなるかは、『現代語訳吾妻鏡 2 平氏滅亡』(吉川弘文館刊)の該当年をお読みいただければと思います。

御家人の中で、相撲で知られるのは畠山重忠はたけやましげただです。『古今著聞集』巻10「相撲強力」には、頼朝の命で関東8ヵ国随一の大力の相撲と豪語する長居某と手合わせした重忠が、相手の肩をつかみくじいて失神させた、というエピソードが残っています(貫達人著『畠山重忠』/「人物叢書」吉川弘文館刊)。同じような話は、曾我兄弟敵討かたきうちの物語『曾我物語』冒頭の、伊豆国奥野の狩競かりくらの余興として行われた武士たちの相撲のシーンにも出てきます。京都大番役で都の相撲人と交わり手だれとなった俣野景久またのかげひさを、相撲技などろくに知らない地元武士の河津祐泰かわづすけやすが、いともたやすく片手で投げ飛ばしてしまいます。いずれの話も、芸能として洗練されてきた相撲と、戦場の武芸として培われた格闘術の違いの現れたエピソードとして読むことが出来ます。蛇足になりますが、この相撲勝負の遺恨が曾我物語の発端になったというのは俗説のようです(坂井孝一著『曽我物語の史実と虚構』吉川弘文館刊)。

南北朝時代の動乱を描いた『太平記』でも、播磨国妻鹿長宗めがながむね武蔵国畑時能はたときよしといった相撲の剛勇ぶりを誇る武士たちが活躍します。室町時代に入っても相撲は盛んに行われ、『満済准后日記まんさいじゆごうにっき』などにも、足利義教あしかがよしのり室町幕府将軍や諸大名が相撲見物を愉しんだ記録が残っています。また、社寺の修復や造営の費用を集める勧進相撲かんじんずもうが始まったのもこの時代で、プロの格闘家としての相撲人たちが、京坂を中心に活躍しました。戦国の覇者、織田信長も相撲を大いに好み、『信長公記のぶながこうき』には安土城などで開いた上覧相撲に召し集めた「百済寺の鹿、たいとう、鯰江又一郎、青地与衛門」といった相撲人の四股名しこなを見ることが出来ます。

江戸時代も半ばを過ぎると、相撲は庶民の娯楽としても隆盛を極め、巨漢同士がぶつかり合う激しい勝負が話題となり、勝川春章かつかわしゅんしょうらが描いた相撲絵も人気を集めます。なかでも寛政3年(1791)、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲での谷風梶之助たにかぜかじのすけ小野川喜三郎おのがわきさぶろうの取組みは、名勝負として後世まで語り継がれています。東西の大関として対峙した2人は、まずは小野川が突っかけますが、行司の吉田追風よしだおいかぜが合わせずに「待った」。ついで谷風が突っかけますが、今度は小野川が2、3歩下がって受けず「待った」。すかさず追風が軍配団扇をサッと谷風側に掲げます。気合充分にして立たなかった小野川の「気負け」で勝負は決したのです。実は2人は寛政1年11月場所6日目、横綱を伝授されていましたが、これは儀礼上の位階にすぎず、寛政7年から16年間大関をつとめ、幕内通算258勝14敗、勝率9割4分8厘という驚異的な強さを誇った雷電為右衛門らいでんためえもんはついに横綱の地位にのぼることはありませんでした。

では、明治維新以後の大相撲は、結びの一番として、次号まで「預かり」とさせていただきます。

『本郷』No.73(2008年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第73回「相撲のゆくえ」(2)を元に改稿しました