第191回
「越年」は何と読まれていたか?

 「年越し」を漢語で言うと「越年」になるということは、皆さんもご存じであろう。たとえば交渉事が年をまたいで行われると「越年交渉」などと言う。秋に発芽して冬を越し、翌春に開花する1年生植物は「越年生植物」などとも言う。
 この「越年」だが、今でこそ「エツネン」と読まれているが、明治時代までは「オツネン」という読みが主流であった。というよりも、そのころまでの例では、「エツネン」という読みはほとんど確認できないのである。
 たとえば、夏目漱石の『三四郎』(明治41年)でも「人は二十日足らずの眼の先に春を控えた。〈略〉越年(ヲツネン)の計(はかりごと)は貧者の頭に落ちた」と「オツネン」と読ませている。「越年」を「オツネン」と読んでいる確実な例はけっこう古く、室町時代中期の国語辞書である『文明本節用集』にも「越年 ヲツネン」とあるし、1603~04年にイエズス会宣教師が編纂した日本語辞書『日葡辞書』にも「Votnen (ヲツネン)。 トシヲ コユル」とある。昭和7~10年(1932~35年)に刊行された大槻文彦の国語辞典『大言海』は「オ(ヲ)ツネン」で見出しが立てられていて、「エツネン」は無い。
 「エツネン」と読む用例はかなり分が悪く、『日本国語大辞典 第2版』の「えつねん(越年)」の項目に添えた古典例3例(「東寺百合文書」「杉風宛芭蕉書簡」「滑稽本・和合人」)も、「エツネン」と読む確実な例とは言えない。『日本国語大辞典』では、「エツネン/オツネン」のように読みに揺れのある語の場合、読みが明らかな用例はもちろんその読みの見出し語のところに収めているのだが(上記「オ(ヲ)ツネン」例はすべてそれ)、確実な読みがわからない用例については、現在多く使われている読みの方にまとめるようにしている。したがって、「エツネン」項に収めた3例は、「オツネン」と読む可能性も否定できないのである。ちなみに、漢字の「越」は、漢音は「エツ」,呉音は「オチ」である。
 明治以降、次第に現在のように「エツ」の方が優勢になっていくのだが、それがいつ頃なのか実はよくわからない。ただ、「越」の熟語は「エツ」と読まれるものが多いため、「越年」も次第に「オツネン」から「エツネン」に取って代わられたという推定はできる。今では「越」を「オツ」と読む語は、かなり特殊なものだけである。「改定常用漢字」でも「越」の音は「エツ」しか無い。
 もはや日常生活で「オツネン」という読みにこだわる必要はなかろうが、漱石以前の文章を読んでいてこの語を見つけたときは、その当時は「オツネン」と読んでいた可能性もあるということを思い出していただけたらありがたい。

キーワード:

さらに悩ましい国語辞典
―辞書編集者を惑わす日本語の不思議!―

日本最大の辞書『日本国語大辞典』の編集者はまだまだ悩んでいる! 辞書で定義しずらい言葉の悩み辞書にした「悩ましい国語辞典」の第2弾。
そんたく【忖度】[名]「忖」も「度」もはかるという意味。他人の心を推し量ることで「なにか配慮をする」の意味はない。/しんしゃく【斟酌】配慮までする意味なら「忖度」でなく、「斟酌」の方がしっくりする。この語「手加減する」と意味は変化し続け、今、忖度で起きている現象が斟酌でも起きている……

悩ましい国語辞典
―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

「日本国語大辞典」の編集担当者を惑わすことばの不思議スリリングに揺れる日本語の深さ! 面白さ満載!
「うがった見方」は「疑ってかかるような見方」ではない/「悲喜こもごも」を合格発表の描写で使うのは誤り/「まじ! 」は、江戸時代の小説に使用例がある/スコップとシャベルはどちらが大きいか?西日本と東日本では違う/「谷」を「や」と呼ぶのは音読みでも訓読みでもない方言/「あばよ」の語源は幼児語の「アバアバ」

ジャパンナレッジとは

ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。

ジャパンナレッジ Personal についてもっと詳しく見る