先ずは以下の文章をお読みいただきたい。このコラムを連載している、ジャパンナレッジの「ジャパンナレッジNEWS」の一節である。

 「マック」と「マクド」の分布を調査した結果、全国的に「マック」派が圧倒的。「マクド」派が優勢なのは大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山の関西5府県のみで、60%以上の人が使っていたんだそう。

 ハンバーガーチェーンのマクドナルドを略してなんと呼ぶかということはとても面白い話なのだが、今回話題にしたいのはそのことではない。末尾の「使っていたんだそう」の「そう」という言い方についてである。表題の「由緒ある神社だそう」の「そう」も同様である。
 この「そう」は、国語辞典ではまだその意味についてほとんど触れられていない、新しい言い方なのである。
 本コラムでジャパンナレッジの関係者が書いた文章を俎上(そじょう)にのせるなんて何事かと、担当者に叱られてしまいそうだが、格好の題材だったので許してもらいたいと思っている。
 さてこの「そう」は、伝聞の助動詞「そうだ」の省略形と考えられている。従来は主に口頭語として使われていて、テレビのナレーションなどで「由緒ある神社だそう」などと言っているのをお聞きになったことがあるかもしれない。ひょっとするとそのときに、違和感を覚えたかたもいらっしゃるのではないだろうか。この口頭語の「そう」が次第に広がりを見せて、書きことばとしても使われるようになったと思われるのである。
 伝聞の助動詞「そうだ」は、……ということだ、……という話だという意味で、「お元気だそうで安心した」「今日の会議は延期するそうだ」などと使う。
 ところが、「そうだ」にはもうひとつ、……というようすだ、今にも……するようなようすだ、といった様態の意味を表す使い方もある。「雨がやみそうだ」「あの人はいかにも健康そうだ」「本番は明日なのになんだか自信がなさそうだ」などというのがそれである。そしてこの様態の「そうだ」だが、「だ」をとって「そう」の形で使われることもある。これら3つの例文も、「だ」を省略して言ってもそれほど違和感はないであろう。
 伝聞の「そうだ」が「そう」になるのは、おそらく様態の助動詞の用法に引かれてのことであろう。さらには、文末が「~そうだ」となると表現が強くなるように感じて、それを和らげる意味で「そう」としている可能性も考えられる。
 国語辞典には伝聞の「そう」について触れているものはほとんどないと書いたが、『三省堂国語辞典』(三国)だけは、「そう」を立項している。意味は、「『そうだ(助動)』の語幹」で、例文の中に「新作のロールケーキも人気だそう」というのがある。これが、伝聞の「そう」なのだが、それについての説明が何もないのは、さすが『三国』ここまで載せていたのかと思わせただけに、いささか残念である。
 ジャパンナレッジの記事でも使われているからというわけではないのだが、おそらく、この「そう」はさらに広まっていくのではないかと思っている。私自身は今後も使わないであろうが、誤用だとは思っていないし、遠からずこの語について解説する辞典も出てくるであろうと期待している。

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 先ずは以下の文章をお読みいただきたい。

 雑誌のジャンルに、定期的に発行されるものを全部揃えると、そのテーマの内容が完成する形式のものがある。分冊百科、あるいはパートワークなどと呼ばれているのだが、これはそうした形式でザ・ビートルズの全LP盤を刊行するという、デアゴスティーニ社の宣伝文句である。

20世紀を席巻した伝説のバンド「ザ・ビートルズ」
その名盤達を完全コンプリートできるシリーズ。(中略)
伝説のバンドの全てを知れる。

 ビートルズファンであれば垂涎物の企画であろうが、話題にしたいのはそのことではない。末尾の「全てを知れる」の「知れる」という言い方についてである。
 この意味の場合、私なら「全てを知ることができる」と書くところである。もちろん、「知れる」を知ることができるという可能の意味で使う人がいるということは知っている。だがそれは主に口頭語だけであろうと思っていたのだが、このように宣伝文という書かれた文の中で使われているのを見つけて、かなり新鮮に感じたのである。
 この「知れる」は「知る」の自動詞形で、自発・可能の意味をもつと考えられるのだが、従来は自発の意味で使われることの方が多かった。たとえば、「気心の知れた人」「行方が知れる」「あんなことを言うなんて、気が知れない」などである。これらはすべて、その人のもっている性質や考え方、行った先、考えが自然にわかる、知ることができるという自発の意味である。
 日本語には五段活用の動詞が下一段活用に転じて可能の意味を持つようになった、可能動詞と呼ばれるものがある。たとえば「読む」「書く」「言う」から派生した、「読める」「書ける」「言える」などがそれである。
 ただ五段活用の動詞が下一段活用に転じたからといって、すべてが可能の意味で使われるのかというとそういうわけではなく、自発の意味で使われる方が多い語もある。たとえば「笑う」「泣く」に対する「笑える」「泣ける」は、笑うことができる、泣くことができるという意味でも使われるであろうが、自然に笑ってしまう、ひとりでに泣いてしまうという意味で使われることの方が多いと思われる。
 「知れる」も、「笑える」「泣ける」と同じように、従来は自発の意味で使われることの方が多かったのだが、可能の意味でも使われるようになったというわけである。ただし、「知れる」の可能の意味「知ることができる」について触れている国語辞典は、今のところほとんどない。「知れる」を可能の意味で使うようになったのはけっこう新しい言い方だからである。
 だが、冒頭の宣伝文だけでなく、若い世代では可能の意味で使うという人が増えているという調査結果もある。だからこの宣伝文を書いたのは、私のようなビートルズ世代ではなく、もっと若い世代のかただろうと推測している。
 いずれにしても、今後「知れる」の可能の意味について言及する国語辞典は、確実に現れるであろう。

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 あるとき、キャンプが趣味だという知人と、「飯盒」でご飯を炊くことを何と言うかということが話題になった。私が「ハンゴースイサン」でしょ、と言うと、30代のその知人は「スイサン」なんて聞いたことがない、自分は仲間も含めて「ハンゴウスイハン」と言っていると言うのである。
 「スイサン」「スイハン」は漢字で書くとそれぞれ「炊爨」「炊飯」だが、60代の私はキャンプは趣味ではないが「スイサン」と言っていた。ただし、「炊爨」の「爨」の字は難しく、私自身読むことはできるが、書けと言われるとかなり怪しい。「炊」も「爨」も、かしぐ、すなわち飯をたくことで、「炊爨」でもその意味になる。
 「炊爨」は『日本国語大辞典(日国)』では以下の例が最も古い。

*菅家文草〔900頃〕一〇・為小野親王謝別給封戸第三表「肩舁野蔬、以助黎民之炊爨」

 『菅家文草(かんけぶんそう)』は学問の神様菅原道真の漢詩文集である。訓みは「肩に野蔬を舁(にな)ひて、以(もっ)て黎民(れいみん)の炊爨を助けむことを」で、「野蔬」は食用とする草や野菜のこと、「黎民」は庶民のことである。
 一方の「炊飯」も飯を炊く、あるいは食事の用意を整えるという意味である。「炊飯器」などという語もあるので、現代語としては「炊爨」よりも馴染みのあることばであろう。
 ちなみに、「飯盒」は、かつての日本の陸軍が、兵士の一人一人に米や麦を携行させ,随時に炊飯させることを目的として開発したものである。片面がへこんだ独特の形をしているのは、背囊(はいのう)に着装して携行させたためである。曲げ物の弁当入れを「めんこ」と言う方言があることから、形が似ている飯盒も俗に「めんこ」と呼ばれていたらしい。
 『日国』では「飯盒炊爨」は見出し語として立項しているのだが、「飯盒炊飯」の項目はない。「飯盒炊爨」を見出しにしている辞典は他にも『大辞林』がある。だが、すべての国語辞典を確認したわけではないが、「飯盒炊飯」を見出し語としているものはひとつもないようである。唯一、『三省堂国語』が「飯盒」のところで、「炊爨」「炊飯」の両方を語例として挙げている。
 ほとんどの辞典にはまだ載せられていない「飯盒炊飯」だが、かなり広まっているのかもしれない。
 たとえば、最近のものではないが、1979(昭和54)年の「防衛白書」には以下のような使用例がある。文中にもあるように、陸上自衛隊に入隊したばかりの2等陸士の手記である。

(4)部隊における教育訓練
ア 陸上自衛隊
北部方面隊の1隊員の手記を紹介し,教育訓練の一端を説明することとする。
〔入隊から冬期訓練まで〕-北部方面隊のある2等陸士の手記から抜すい-
2月○日,いよいよ上富良野演習場での冬期演習がやってきた。(中略)
6日目,食事は各陣地まで温食配分ということであったが,運搬してくるうち冷えてカチカチとなってしまうので飯盒炊飯にならざるを得なかった。

 手記なのでこの隊員が書いた文章をそのまま引用している可能性はある。だが、新入隊員が「飯盒炊飯」と書いているということは、少なくともこの2等陸士が所属している隊ではそのように言っているのではないかと思わせる。「防衛白書」に使用例があるからと言って、自衛隊がすべて「飯盒炊飯」と言っているのかどうかはわからないが、自衛隊内にもそう言っている人が確実にいるという証拠にはなるであろう。
 最近では、キャンプで飯を炊く場合は飯盒ではなくコッヘルを使用することの方が多いのかもしれない。そうしたことも、「炊爨」が使われなくなった理由なのだろうか。

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 行きつけの焼き鳥店で店長が、「珍しい日本酒が入った」と言って、ビールの小瓶のようなものを出してきた。王冠で封をされているので、発泡酒らしいということはわかった。
 どこの酒蔵のものかと思ってラベルを見ると、高知県安芸市とある。その名も「あきとら」。この名からピンとくることがあったのだが、どうやら直接は関係がないらしい。この酒蔵の創業の方が、はるかに古いのである。だが、近年は関連の商品も出しているという。ここまでお読みになって、私が何の話をしているのかおわかりになったら、間違いなくわが党の士であろう。
 まあそれは余計なことだが、栓の下に紙が貼られていて、よく見ると「開栓時ふきまけることがあります」と書いてある。
 「ふきまける」?
 聞いたことも見たこともないことばなので、すぐにスマホを使って『日本国語大辞典(『日国』)』を引いてみた。だがそのような項目はどこにも見当たらない。
 発泡酒なので「ふく」は「噴く」だということはわかる。だが、「まける」は何なのであろうか。そこで今度は「まける」を『日国』で引いてみた。すると、方言に「まける」という語があるではないか。意味は、「水などがこぼれる。あふれる。」である。しかも分布地域は、「兵庫県淡路島/岡山県岡山市・児島郡/徳島県/香川県/愛媛県/高知県」となっている。
 これによって、栓の下の紙に書かれているのは、噴いてあふれることがあるから気を付けろということだとわかった。
 どうやら、「ふきまける」は使用地域がかなり限定された方言らしいのである。
 あとで東京女子大教授篠崎晃一氏の『出身地がわかる!気づかない方言』(幻冬舎文庫)を見ると、「まける」は「こぼれる」ことを意味する「四国を代表する気づかない方言だ」とあり大いに納得した。『日国』の分布地域もまさに四国4県が含まれているのである。
 「まける」は高知ではふつうに使われているので、当たり前のようにそう書いてしまったのかもしれない。さらにこの発泡酒は、県外、ましてや東京に出荷することをあまり考えていないということもありそうである。
 その後、篠崎氏からは「まける」に関連する「まけまけいっぱい」という方言もあるということを教えてもらった。「ビールをグラスにまけまけいっぱい注いでもらう」などと使うらしい。「まけまけ」はあふれそうになるほどなみなみと注ぐことで、これも高知など四国出身者が方言と気付かずについ使ってしまうことばなのだそうである。
 酒席でそう言われると、なんだか愉快な気分になれそうな方言である。

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 最年少棋士藤井聡太四段の連勝記録が話題になり、にわかに将棋ブームとなっている。だが、今回話題にしたいのはそのことではない。将棋と囲碁をすることを何と言うかという、ことばの問題である。
 まずは以下の文章をお読みいただきたい。国会会議録で検索して見つけた、ある国会議員の発言である。

 「囲碁を打つ人とか将棋を打つ人で筋が悪いと言われると、ごり押しでいくような政策を意味するんですけれども。」(衆議院 -厚生労働委員会 - 7号 2007年19年11月16日)

 どこに注目していただきたいのかというと、冒頭の「囲碁を打つ人とか将棋を打つ人」という部分である。おや?とお思いになったかたも大勢いらっしゃることであろう。囲碁は「打つ」でいいが、将棋は「指す」ではないかと。そう、将棋をすることは、古くから「将棋を指す」と表現されてきたのである。
 将棋はインドで起こり、中国から日本に伝わったと考えられているが、将棋が日本の文献に現れるのは平安時代からである。「将棋を指す」の用例は、それよりも下って『日本国語大辞典』(『日国』)では、
*俳諧・誹諧之連歌(飛梅千句)(1540)「かものけいばに袖はぬれけり しゃうきさすののみや人に雨ふりて」
が最も古い例である。
 もちろん用例がないからと言って、それ以前に「将棋を指す」と言わなかったかというと、そういうことはないであろう。ただこれによって、室町以降「将棋を指す」が本来の言い方として定着していったということが確認できる。
 ところが、冒頭の国会議員のように「将棋を打つ」と言う人がいるのはどういうわけであろうか。間違いなくそれは「碁(囲碁)を打つ」との混同だと思われる。くだんの国会議員の場合はその前に「囲碁を打つ」と言っているので、勢いで将棋も「打つ」と言ってしまった可能性もあるかもしれない。だが、国会会議録ではこれ以外にも、「将棋を打つ」と言っているものが7例もあるのである。
 ただ、将棋で「打つ」と言わないかというと、そういうわけではない。手持ちの駒を盤上に置くことは、「打つ」と言う。「桂馬を打つ」などのように。
 しかし、将棋をすることを表す動詞は「打つ」でなく「指す」なのである。なぜ「指す」なのかはよくわからないが、盤上の駒を動かす行為がそのように感じられるということかもしれない。
 一方の碁(囲碁)も中国から伝わり、日本では平安時代には行われていたらしい。そしてこちらは「碁を打つ」と言う。『日国』に引用されている「碁を打つ」の最も古い例は、『古今和歌集』所収の紀友則(きのとものり)の歌の詞書(ことばがき=和歌の前書き)である。
 だが、「碁を打つ」のほうもなぜ「打つ」なのかよくわからない。石を置くという動作が、「打つ」の語義に適うからなのであろうか。
 そして囲碁の場合も、国会の会議録を見ると「将棋と囲碁をさす」という例も2例あるのだが、驚いたことに単独で「碁(囲碁)をさす」と言っている例が2例ある。
 私は、「将棋を打つ」と「碁(囲碁)を指す」の使用例は、国会の会議録以外ではインターネットのブログなどからしか見つけられていない。趣味が悪いと言われそうだが、確実な文献例は未採集なのである。そのためその言い方は、実際にはあまり広まっていないと考えていた。
 ところが、国会議員の間では、将棋は「打つ」もの、囲碁は「指す」ものだと思っている人が他と比較したときの使用例の割合からするとけっこう多いような気がするのだが、なぜなのであろうか。新たな疑問である。

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