日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第507回
“せいぜい”辞書をご活用ください

 数十年前の話である。奈良県でバスに乗っていて、「せいぜいご利用ください」という車内放送に、おや?と思ったことがあった。聞き慣れない「せいぜい」の使い方だったからである。
 私にとって「せいぜい」は、以下のような意味で使う語だった。「出席者はせいぜい5,6人だろう」のように、たかだか、やっと、という意味、「上司の説得は難しいだろうけどせいぜいがんばりな」のように、期待はできないだろうけどできるだけ、といった意味である。いずれにしてもプラスの意味ではない。ところが車内放送は明らかにプラスの意味で使っていた。今でも同じような車内放送はあるのかもしれない。
 私の思い込みとは異なり、「せいぜい」の本来の意味は、「力の及ぶかぎり。できるだけ。つとめて。一心に努力して」(『日本国語大辞典(日国)』)だと知ったのは、かなり経ってからである。バスの車内放送は本来の意味で使っていたわけだ。
 それはそれでおもしろいと思ったのだが、さらにあるとき、この語の語釈を『日国』と『広辞苑』『大辞林』『デジタル大辞泉』と引きくらべていて、興味深いことに気づいた。同じ用例を引用しているのに、扱いが異なるのである。それは以下の2例だ(『日国』の引用の形式で示した)。

*天草本平家物語〔1592〕読誦の人に対して書す「マヨエル シュジャウヲ ミチビカントxeijeiuo (セイゼイヲ) ヌキンデ タマウ コト ココニ セツ ナリ」
*幸若・大臣〔室町末~近世初〕「せいぜいをつくして作りたつる、弓のながさは八尺五寸、まはりは六寸二分なり」

 「せいぜい」は漢字で「精々」と書くのだが、『日国』ではこの2例は、見出し語「精々」で引用しているわけではない。「精々」の用例は、近代以降のものしかなく、2例とも「せいせい 【精誠】」で引用しているのである。『日国』では、「精誠」は名詞・形容動詞で、「純粋で誠実なこと。まごころをこめること。また、そのさま」いう意味だとしている。
 この2例を他の辞書ではどう扱っているのか。
 『日国』は「精々」は副詞の扱いなのだが、『広辞苑』『大辞林』は副詞の他に『日国』にはない名詞の意味「つとめはげむこと」を付け加え、そこで幸若『大臣』の例を引用している。どちらも『天草本平家物語』の例は引用されていない。
 『大辞泉』は、「精々」にやはり『日国』にはない名詞の意味として「能力の及ぶ限界。力のかぎり」を加え、そこで『天草本平家物語』の例を引用している。幸若『大臣』の例はない。
 幸若『大臣』は『百合若大臣』とも言うが、たとえば新日本古典文学大系『舞の本』所収の『百合若大臣』を見ると、「せいぜい」は原本はかな書きだったようだ。ただ同書では「精誠」と漢字を当て、「精魂こめて」の意だと注釈を施している。『広辞苑』『大辞林』のように「精々」と解釈しておらず、『日国』と同じ判断をしているわけだ。
 この違いは何なのだろうか。『大辞林』が述べているように、「精々」は「精誠」から転じた語の可能性があるからかもしれない。『日国』によれば、「精誠」は古くは「せいぜい」と発音したこともあったらしく、どちらの意味にもとれそうな例がかなりある。『天草本平家物語』、幸若『大臣』の例もどちらの意味でも解釈できそうだ。しかも、『天草本平家物語』の例はローマ字、幸若『大臣』の例はかな書きで、漢字表記がないために判断に迷う。
 『日国』によると、「精誠」という表記は室町時代以降の古辞書にある。ところが、「精々」の表記が見られるのは近代の辞書になってからでけっこう新しい。そのようなこともあって、『日国』では「精々」の用例は明治以降の確実なものだけにして、漢字表記のない例は「精誠」と見なしたのである。
 他の辞書の判断の理由がどのようなことだったのか、私には想像がつかない。『日国』だけが正しいと言うつもりは毛頭ないので、できればそれを知りたいところである。細かなことながら、ことばの用例と意味の扱いは、辞書によって見解に相違が生じることはけっこうあり、答えは一つとは限らないからである。
 辞書としては筋の通った用例の扱いができればいいのであって、そのためにせいぜい気をつけなければいけないと思った次第である。

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