第258回
「なつかしい花子様」

 まずは『日本国語大辞典 第2版』(『日国』)の「なつかしい」という語の解説をお読みいただきたい。引用されている例文を省略して、意味の部分だけを順序通りに示したものである。

(1)心がひかれ、離れたくないさま。愛着を覚えるさま。魅力的だ。慕わしい。
(2)過去の思い出に心がひかれて慕わしいさま。離れている人や物に覚える慕情についていう。

 いかがであろうか。あれ?と思いになったかたも大勢いらっしゃるのではないか。「なつかしい」は、(2)の意味だけではなかったのかと。
 だが、「なつかしい」の原義は(1)の「心ひかれる」という意味なのである。
 『日国』によれば、「なつかしい」は動詞「なつく(懐)〔=慣れ親しむ〕」が形容詞化した語で、古くは身近にしたい、馴れ親しみたいという意味で使われていた。それが中世以後、(2)のような懐旧の思いを表すようになるのである。
 『日国』では(1)の意味として引用されている例文は江戸時代までで、明治以降の文献からのものはないのだが、だからといってその意味が近代に入ってから消滅してしまったというわけではない。たとえば森鴎外の小説『雁』(1911~13年)には、「己惚(うぬぼれ)らしい、気障(きざ)な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思ひ初(そ)めた」とある。この「なつかしい」はもちろん心ひかれるという意味である。このことからも大正時代までは心ひかれるという意味が残存していたことがわかる。
 この心ひかれるという意味の「なつかしい」をキーワードにして、宝塚歌劇団の魅力の根源を解明しようとした興味深い論考が最近刊行された(永井 咲季著『宝塚歌劇団 〈なつかしさ〉でつながる少女たち』 2015年平凡社刊)。
 宝塚歌劇団ファンではない私がなぜこの本を読んだのかというと、歌劇団創生期のファンの少女たちの心情を「なつかしい」ということばに着目して読み解こうとした内容に興味を持ったからである。
 著者は宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』(1918年8月創刊)の読者の投稿欄を、創刊号から1924年8月発行の53号まで丁寧に読み込み、投稿者が盛んに使う「なつかしい宝塚」「なつかしい○○様(歌劇団の生徒の名)」という表現に着目する。そしてこの「なつかしい」という感覚こそが、宝塚ファンの少女たちが歌劇団に対して抱いた共同体意識のよりどころであったと結論づけるのである。
 だが、『歌劇』の編集方針の変更もあって、ファンの意識は変わらないまま、「なつかしい」ということば自体がやがて誌面から消えていくのだという。
 面白いことにそれは、一般に使われる「なつかしい」ということばの意味が、あとから生まれた懐旧の意味に主役の座を奪われるのとほぼ時期が重なるのである。偶然の一致であろうが、たいへん興味深い事例である。

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