第266回
「おとうさん」

 第260回で「おかあさん」という呼称が急激に広まったのは、1903(明治36)年の第一期国定読本「尋常小学読本-二」からだと書いたが、「おとうさん」という呼称も同様である。それは、
 「タロー ハ、イマ、アサ ノ アイサツ ヲ シテヰマス。オトウサン オハヤウゴザイマス。」という内容である。
 ではそれ以前は父親の呼称はどうであったのかというと、『日本国語大辞典』によれば、「オトトサマ→オトウサマ(またはオトトサン)→オトウサンと変化し」たのだという。ただし、江戸時代には、オトトサマが変化した「オトッサン」「オトッツァン」が広く使われていたらしい。
 「おかあさん」のときにも引用した随筆『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1837〜53)には、
 「江戸男女児の其父を称して、中以上は御爺様(おとっさん)、母を御嫁々様〈おっかさん。江戸専(もっぱ)ら  と詰音す〔下線筆者〕〉小民の子は父を『ちゃん』〈略〉と云」とあり、近世後期に江戸の中層以上の町人や武家の間では「おとっさん」(「おとっつぁん」)が使われ、一般庶民の間では「ちゃん」が使われていたことがわかる。
 一方、上方はどうであったかというと、やはり『守貞漫稿』に「京坂ともに、男女児より父を称して、中以上は御爺様(おとっさん)、母を呼で御かあさんと云。小民の子は『ととさん』『かかさん』と云」とあることから、近世後期に上方では、中層以上の町人は「おとっさん」「おとっつぁん」を、一般庶民は「ととさん」を使用していたものと思われる。
 「おとうさん」の用例が文献上に現れるのは江戸後期の19世紀半ばくらいからである。おそらくその頃から江戸や東京で少しずつ使われるようになり、冒頭の「尋常小学読本」以後20世紀になってから全国的に定着したのであろう。
 ちなみに私は、「ちゃん」という父親の呼称は時代劇『子連れ狼』で知ったような気がする。ただし、『子連れ狼』の時代設定は江戸時代前期だが、「ちゃん」が一般に使われたのは江戸後期であるから、時代考証的にはいささか無理がある。もちろんだからといって『子連れ狼』の価値が損なわれるということはまったくないのであるが。

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