第269回
「押されもせぬ」なのか? 「押されぬ」なのか?

 まずは問題から。
 実力があって、他人に左右されたり圧倒されたりしないということを、皆さんは「押しも押されもせぬ」、あるいは「押しも押されぬ」のどちらを使っているだろうか。
 もちろん本来の言い方は、「押しも押されもせぬ」である。だからパソコンのワープロソフトで「押しも押されぬ」と入力すると、下に注意を喚起する波線がつくものまである。
 だが、「押しも押されぬ」はじわじわと広まりつつあるようなのだ。
 文化庁もこの変化が気になるらしく、毎年行っている「国語に関する世論調査」でも2003(平成15)年度と2012(平成24)年度の2回にわたって調査を行っている。2003年度調査では「押しも押されもせぬ」が36.9%、「押しも押されぬ」が51.4%だったのに対して、2012年度調査では「押しも押されもせぬ」が41.5%、「押しも押されぬ」が48.3%と、数値に若干の違いはあるものの、従来なかった「押しも押されぬ」のほうが多数派であることには変わりがない。しかも2012年調査では、本来の言い方の「押しも押されもせぬ」を使うという人の割合が多いのは60歳代だけで、20歳代から50歳代までは、「押しも押されぬ」が5割を超えている。特に30歳代は、「押しも押されもせぬ」が30.6%、「押しも押されぬ」が58.1%とその差が顕著である。
 本来の言い方の「押しも押されもせぬ」の例は、江戸時代から見られる。これに対して、「押しも押されぬ」はというと、これも意外なことにはけっこう古くから使われているのである。『日本国語大辞典 第2版』には、織田作之助の小説『夫婦善哉』(1940)の「半年経たぬ内に押しも押されぬ店となった」という第二次世界大戦以前の例が挙げられている。国語辞典の中では『明鏡国語辞典』(大修館)が唯一、「押しも押されぬ」はけっこう古くから使われているということに言及している。そして菊池寛のものだという使用例が示されているのだが、残念ながら何という作品の用例かはわからない。それは『無名作家の日記』で発表は1918年のものだから『夫婦善哉』よりも古いことになる。
 「押しも押されぬ」は、どうしようもない事態であるとか、厳として存在する事実であるといった意味の「押すに押されぬ」との混交表現だと言われている。
 現時点では、国語辞書の中には「『押しも押されぬ』は誤り」と注記しているものもあり、また、NHKも『ことばのハンドブック』で誤用だと明記しているなど、「押しも押されぬ」は分が悪い。
 だが、若い世代に限らず中年層にまで広まっている現状を考えると、好むと好まざるとにかかわらず、「押しも押されぬ」が国語辞典の中でも誤用扱いされなくなる日がやがて来てしまうのかもしれない。。

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