第274回
流れに棹(さお)さしてどこへ向かう?

 「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」
 夏目漱石の小説『草枕』の有名な書き出しである。『草枕』は漱石の他の小説とは異なった味わいをもつ小説で、好きな作品のひとつである。かつてレコードで愛聴していたカナダのピアニスト、グレン・グールド(1932~82)が『草枕』に深く傾倒していたと知ったとき、愛好している二つのものが思いがけず結びついたことに、とてもうれしく思ったことがある。グールドはラジオ番組で、英訳本の『草枕』の朗読までしていたらしい。
 さて、この『草枕』の冒頭だが、皆さんはどのような意味だとお考えだろうか。「智に働けば角が立つ」は、理性や知恵だけで割り切って振る舞っていると、他人と摩擦を起こすといった意味である。これはあまり問題はないであろう。だが、「情に棹させば流される」はどうであろうか。この部分は、他人の感情を気遣ってばかりいると、足をすくわれるといった意味である。ところが、「棹さす」を「逆らう」という別の意味にとってしまう人がけっこういるらしいのだ。
 この「棹さす」は「流れに棹さす」の形で使われることが多いのだが、文化庁が発表した2012年(平成24年)度の「国語に関する世論調査」でも、本来の「機会をつかんで時流にのる、物事が思い通りに進行する」という意味で使うという人が23.4%、従来なかった「逆らう」「逆行する」の意味で使うという人が59.4%と、逆転した結果が出ている。ただ、面白いことに文化庁は数年おきにこの語の調査を行っているのだが、本来の意味で使うという人は2002年が12.4%、2006年が17.5%、そして2012年が23.4%と、調査の度にわずかながら増えている。ただ、意味がわからないという人も2012年調査では20代以上で10%を超えているので、このことば自体があまり使われなくなっているということも考えられる。
 「棹」は、水底を突いて船を前進させる竹や木の細長い棒のことで、「流れに棹さす」は流れに棹をつきさして船を進め下るように、好都合なことが重なり、物事が思うままに進むたとえから生まれた語である。
 たとえば南北朝時代の内乱を描いた軍記物語の『太平記』(14世紀後半)には、
 「内状を通じて、事の由を知らせたりければ、流れに棹(さほさす)と悦(よろこび)て、軈(やが)て同心してげり」
という使用例がある。石塔義房(いしどうよしふさ)という武将が、内々の書状を通じて事の次第を知らされてきたので、良い機会を得たと喜んで、すぐさま(南朝方への加勢に)同意した、といった意味である。まさに物事の勢いを増すという意味で使われている。
 現時点では多くの辞典は、傾向に逆らうという従来なかった意味は認めておらず、『大辞泉』『広辞苑』『大辞林』などの中型の国語辞典もすべてこの意味で使うのは「誤り」だとしている。
 「流れに棹さす」は意味を間違いやすいことばの代表例として取り上げられることが多いためか、わずかながら従来の意味で使う人が増えているようではある。だが 、依然として多くの辞書が“誤用”としている意味で使っている人が60%近くもいる。この人たちをどう救うかは、辞書を編纂する者として今後の重要な課題であると思う。

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