第286回
「天に唾(つば)する」とどうなるのか?

 「天に唾する」の意味は、人に害を与えようとすれば、かえって自分自身に害がふりかかるというのだと思っていたら、新しい意味が広まりつつあるらしい。それは「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をする」という意味なのだそうである。皆さんはどちらの意味で使っているだろうか。
 先ごろ文化庁から発表された2015(平成27)年度の「国語に関する世論調査」でも、この新しい意味で使っているという人が、30代以下で増えているという調査結果が出ている。なんでも30代以下では3割前後の人がこの新しい意味で使っているらしい。
 それより上の、50~60代では7割弱の人が従来の意味で使っているようなのだが、若い人に新しい意味で使う人が増加しているということは、今後さらに新しい意味が勢力を持つであろうことは確実である。
 確かに「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をする」という新しい意味は、唾を吐(は)くという行為自体が何かを冒瀆(ぼうとく)するという意味合いを持つことがあるので、なるほどそんな意味が考えられるのかと思ってしまう。だが、だからといって感心ばかりもしてもいられない。
 実際には上を向いて唾を吐けば、他人にはかからないで自分にかかるというごくごく当たり前なことから生まれた言い方なのだが、どうやら深読みし過ぎる人が若い世代に多いということなのかもしれない。
 「天に唾する」は江戸時代頃から用例が見られる語なのだが、けっこうバリエーションの多い言い方である。
 『日本国語大辞典』を見ただけでも、

 「天に向かって唾を吐く」
 「天を仰いで唾する」
 「天に唾を吐く」
 「仰いで唾吐く」
 「あおのいで唾吐く」
 「寝て吐く唾」

とあるのだが、意味はすべて同じである。私自身も「天に向かって唾を吐く」もよく使う気がする。よく使われる語ではあるが、慣用句としてはまだ形が固定しない語なのかもしれない。
 ただし、このことば自体は、『四十二章経』という経典に出てくる。『四十二章経』は中国に最初に伝えられた経典とされているが、実際には中国で撰述(せんじゅつ)されたとも考えられている。出家後の学問の道と日常生活について教訓したものだという。
 語形の違いがたくさんあることは大きな問題ではないのだが、意味の方は従来とはまったく違う意味がさらに広まる可能性が高く、今後目の離せない語だといえそうである。

キーワード:

悩ましい国語辞典
―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

「日本国語大辞典」の編集担当者を惑わすことばの不思議スリリングに揺れる日本語の深さ! 面白さ満載!
「うがった見方」は「疑ってかかるような見方」ではない/「悲喜こもごも」を合格発表の描写で使うのは誤り/「まじ! 」は、江戸時代の小説に使用例がある/スコップとシャベルはどちらが大きいか?西日本と東日本では違う/「谷」を「や」と呼ぶのは音読みでも訓読みでもない方言/「あばよ」の語源は幼児語の「アバアバ」

ジャパンナレッジとは

ジャパンナレッジは約2万冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。

ジャパンナレッジ Personal についてもっと詳しく見る