第312回
「ベッド」と「ベット」

 私はこのコラムでもたびたび引用している『日本国語大辞典』第2版の編纂に関わったのだが、そのときは主に引用した文献例を原典に当たって確認するという作業を担当した。もちろんそれは私一人で行ったわけではなく、60名以上の日本語学や日本文学を専攻する大学院生による専門チームを編成しての作業であった。3万点以上の日本語の文献を相手にした地道な仕事ではあったが、そのおかげで、辞書には書けない面白い発見をいくつもすることができた。それが今、このコラムの材料にもなっている。
 ある時、志賀直哉の小説『暗夜行路』から引用した例を見ていたら、「ベット」と書かれているものを見つけた。洋式の寝台をいう「ベッド」を「ベット」と言う人がいるということは知っていたのだが、志賀直哉も「ベット」派だったのかと、たいへんな発見をしたような気がしてなんだかうれしくなった。だが、念のために『暗夜行路』例の底本を見てみると、残念ながら(?)「ベッド」と書かれているではないか。志賀直哉「ベット」派説は見事に崩れ去ったのだが、ひょっとするとその項目の原稿をお書きになった方が「ベット」派だったのかもしれないという疑惑が、新たにわき起こってきた。
 「ベッド」の英語のつづりはbedだから、「ベッド」と書くのが正しいことになる。だがなぜ「ベット」と言ってしまうのかというと、日本語の発音の特質で、濁音(この場合は「ド」)の直前に促音が来ることがなかったからだと説明されている。「ブルドッグ(犬)→ブルドック」「バッグ(かばん)→バック」なども同じである。
 従って「ベッド」ではなく「ベット」だと思い、そのように書いてしまうというのは、けっこう古くから見られる現象である。
 たとえば、

 「各房の内、大なるは客座『シッチングルーム』仏にて『サロン』 寝室 ベットルーム〈略〉皆具す」(久米邦武『米欧回覧実記』1877年)

 「また庭園の諸処には、田舎めきたる別荘をしつらひ、皆洋式のベットを附しす」(「風俗画報‐二三〇号」1901年)

などという例がある。
 久米邦武(くめ・くにたけ)は明治・大正期の歴史学者であるが、明治の初めに岩倉具視(いわくら・ともみ)の米欧視察に随行した。そのときの公式報告書がこの『米欧回覧実記』である。久米邦武にはネーティブの発音が「ベット」と聞こえたのであろうか。
 「風俗画報」は明治から大正にかけて刊行されたわが国最初のグラフ雑誌である。
 現在では、「ベット」は書きことばよりも話しことばで多用されているような気がする。ただし、今後小学生から発音も重視した英語指導が始まるので、つい「ベット」と言ってしまう人も若い層からなくなっていくのかもしれない。それはそれで少し残念な気もする。

キーワード:

ジャパンナレッジとは

ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。

ジャパンナレッジ Personal についてもっと詳しく見る