第355回
辞書編集者の「そもそも」考

 安倍晋三首相が国会審議で、「そもそも」の意味を辞書で調べたら「基本的に」という意味もあると答弁したということが話題になった。辞書にかかわる話なので、辞書の編集に携わってきた者として、何らかのリアクションしておかなければならないと思うのである。
 安倍首相のこの発言を受けて、「毎日新聞」や「朝日新聞」は実際にいくつかの国語辞典を引いて、「そもそも」に「基本的に」という意味があるのかどうか調査している。長年辞書の編集にかかわってきた者として断言できるのだが、「基本的に」という意味を載せている辞書など絶対に存在しない。後で確認すればすぐにわかってしまうのに、なぜそのような発言をしたのだろうか。首相の真意は忖度不能である。
 そもそも、「そもそも」という語は……と、つい言いたくなってしまうのだが、「そもそも」は、品詞の異なるふたつの意味がある。ひとつはこの段落の冒頭で使った「そもそも」で、これは接続詞だが、改めて事柄を説き起こすことを示すことばである。「いったい」とか、「さて」、「だいたい」などという意味をもつ。
 もうひとつは名詞(副詞的にも使う)で、これは接続詞から転じた用法だが、はじめ、最初、発端などといった意味である。「その答えがそもそも間違っているのである」「この計画にはそもそもから反対であった」などと使う。
 「そもそも」は、もともとは主として漢文訓読また漢文訓読調の文章で用いられた語である。漢文訓読では「抑」で「そもそも」と読む。たとえば『論語』「学而」の、

 「夫子至於是邦也、必聞其政。求之与、抑与之与。」は、
 「夫子(ふうし)の是の邦(くに)に至るや必ずその政を聞く。これを求めたるか、抑(そもそも)これを与えたるか。」

と読まれてきた。夫子=先生《孔子のこと》はおいでになった先の国々でその国の政治の相談にあずかりますが、これは先生のほうから求められたものですか、それとも相手の方から招かれたものですか、といった意味である。この場合の「抑(そもそも)」は、「それとも」といったという意味である。
 この漢文訓読で使われた「抑(そもそも)」が古くから和文にも取り入れられ、たとえば平安前期の『竹取物語』のように、

 「抑(そもそも)、いかやうなる心ざしあらん人にか、あはんとおぼす(=いったいどのような誠意のあるかたと結婚しようとお思いですか)」

と使われた。こちらの「抑(そもそも)」は「いったい」という現代語でも使われる意味である。
 日本語は、漢語由来であったり、漢文訓読から生まれたものであったり、もともと和語として存在していたものであったりさまざまである。そしてそのように古くから使われたことばは文語文から口語文に変わったときに決して消滅してしまったわけではなく、現代語としてもしっかりと生き延びているのである。そういった意味で、漢文や古文から日本語を学ぶことはとても大事なことだと思う(それを入試で出題するかどうかは別問題だが)。
 もとより安倍首相が「そもそも」に従来なかった意味があると主張したからと言って、それを斟酌してそのような意味を辞書に載せることはできない。
 またその後、この問題を受けて、政府が閣議で「そもそも」の意味について、『大辞林』に「(物事の)どだい」と記されており、「どだい」には「基本」という意味があるとの答弁書を決定したそうである。確かに『大辞林』の「そもそも」の解説には「どだい」があり、「どだい」を引くと「基本」と出てくるが、だからといって「そもそも」=「基本」となるわけではない。引き合いに出された『大辞林』の編集部も、迷惑な話であったに違いない。
 安倍首相の日本を愛する気持ちをゆめゆめ疑っているわけではない。だが、日本を愛するのなら、国語としての日本語も同じように愛してもらいたいと、一介の辞書編集者は思うのである。

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