日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第372回
「ムショ帰り」の「ムショ」って何?

 山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画をご存じだろうか。2014年11月に亡くなった俳優の高倉健さんが主演した映画である。この映画での高倉さんは、北海道の網走刑務所から刑期を終えて出所してくる元炭鉱夫の役であった。いわゆる「むしょ帰り」である。
 この「むしょ帰り」の「むしょ」だが、ほとんどのかたは「刑務所」つまり「けいむしょ」の略だと思っているかもしれない。実際、『広辞苑』『大辞林』は、刑務所の略としている。また、『大辞泉』の「むしょ」の補注には、「監獄をいう『虫寄場(むしよせば)』の略からとも、『刑務所』の略ともいう」とある。ところが、この「むしょ」の「刑務所」語源説はかなり分が悪いのである。
 というのは、「刑務所」ということばが使われる以前に、「むしょ」の使用例があるからである。「刑務所」がそれまでの「監獄」から改称されたのは、1922年(大正11年)のこと。たとえば『日本国語大辞典(日国)』では、「刑務所」の項目で、『蟹工船(かにこうせん)』で有名な小林多喜二の小説『一九二八・三・一五』(1928年)の以下のような例を引用している。

 「東京からの同志たちは監獄(今では、ただ言葉だけ上品に! 云ひかへられて刑務所)に行ったり、検束されることを〈略〉『別荘行き』と云ってゐた」

 改称から6年後の例であるが、刑事ドラマなのでお聞きになったこともあるであろう「別荘行き」などということばが使われているのも面白い。
 刑務所に改称する以前の「むしょ」の例というのは、『日国』によると『隠語輯覧(いんごしゅうらん)』という隠語辞典にあり、盗人仲間の隠語として「監獄」を「むしょ」と呼んでいたのだという。『隠語輯覧』は1915(大正4)年に京都府警察部が発行した、盗人やてきや仲間などの隠語を集めた辞典である。『日国』ではこれを根拠に「刑務所」語源説を否定し、「虫寄場」説を採っている。
 では、「虫寄場」とは何なのであろうか。「寄場」はこの場合は牢獄のことだが、「虫」は『日国』では、『隠語輯覧』やそれよりもさらに古い『日本隠語集』(1892年)にその項目があるとしている。そして、「牢(ろう)。牢屋。牢が虫かごのようであるところからいうか。一説に、盗人仲間の隠語とし、『六四』の字を当てて、牢の食事は、麦と米が六対四の割合であったところからいうとも」と説明している。『日本隠語集』は広島県の警部だった稲山小長男が編纂した隠語辞典である。
 牢屋を「むし」と言っていたのは、江戸時代からのようで、『日国』では浄瑠璃の『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』(1745年初演)の例も引用している。
 おそらくこの「虫」が「むしょ」の語源で、たまたま「けいむしょ(刑務所)」の「むしょ」と重なる部分があったため、「刑務所」語源説が生じたのであろう。
 ただ、それですべてが解決するのかというと、そういうわけではない。ムシがなぜムショと発音されるようになったのかが、説明できないのである。これはけっこう大きな問題かもしれない。

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