日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第434回
「野球」はいつから「野球」?

 おかしなタイトルだが、日本ではいつ頃からbaseball(ベースボール)を「野球」と言うようになったのかという話である。コロナ禍で開幕が遅れていたプロ野球も、無観客ではあるが開幕できそうだというので、一ファンとしてこんな文章を書いてみた。と言っても、『日本国語大辞典(日国)』にかかわる話なのだが。
 その『日国』だが、「野球」の項目で引用している一番古い例は、押川春浪の『海底軍艦』(1900年)である。ところが、同項目の語誌欄を見ると、「明治二六(一八九三)年頃に一高ベースボール部の中馬庚らが『野球』の語を考え出し、同部史(明治二八年)の表題として用いた。」と書かれている。それなら、なぜ中馬の書いたものから「野球」の用例を探さなかったのだろうかという、ほとんど自分へのツッコミのような疑問を感じたのである。
 中馬というのは当時東京帝大の学生で後に教育者になった中馬庚(ちゅうまかのえ・ちゅうまんのかのえ)のことで、彼は1897年には野球指導書『野球』を著わしている。だったら、間違いなくこの本に「野球」の使用例があるはずだと思って探してみると、拍子抜けするくらいすぐに見つかった。この本は現在、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができるのである。
 『日国』第2版の編纂当時、国会図書館のデジタルコレクションはまだ未公開だったから、この本を探せなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、中馬のことがわかっていたのなら、なぜもっと踏み込んで用例を探さなかったのだろうかと、当事者として忸怩たるものがある。
 その『野球』で、中馬は序言の冒頭で以下のように述べている。

「昨年来野球ノ名都鄙ニ喧伝スルモ未タ其実ヲ知ラサル者多キヲ憾ミ不文ヲ顧ミスシテ此稿ヲ起セリ」

さらに「野球ノ大要」として、

「此技ハ北米合衆国ノ国技ニシテ彼ニアッテハBase Ball ト称シ我ニアッテハ明治二十六年四月以来第一高等中学校ニ於テ其野外ノ遊戯ナルヲ以テ庭球(ローンテニス 筆者注ルビ)ニ対シテ野球ト命名セルヨリ原名ト併用セラルルニ至レリ」

と書いている。もう立派な(?)「野球」の用例ではないか。しかも、「野球」という語を広めようとしてそれほど経っていないこと、「ベースボール」という名称と併用されているということもわかる。現在の『海底軍艦』よりもわずか3年しか遡れないにしても、改訂版では増補できそうだ。辞書編集者にとって(私だけかもしれないが)、数年でもそのことばのさらに古い用例を見つける喜びにまさる喜びはない。
 ところで、この『野球』の例を増補したとしても、今まであった『海底軍艦』の例も捨てがたい。作者の押川春浪は軍事冒険小説を数多く書いた作家である。『海底軍艦』は、海賊船に船を沈められた「私」と浜島日出雄少年が、インド洋の南方にある無人島に漂着するのだが、その島では日本海軍の桜木海軍大佐が秘密裏に海底戦闘艇を建造していたというストーリーである。そしてこの島ではなぜか野球が盛んだったのだ。『海底軍監』はナショナリズム色の濃い作品だが、明治大正の子どもたちは盛んに愛読したらしい。そういう作品に本来のストーリーとは関係なく野球の話が登場するというのは、野球という用語が瞬く間に広まり、子どもこぞって野球をやり始めていたことがわかる。この『海底軍艦』の「野球」の例の面白さは、そこにあると思う。

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