季節のことば

日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。

晩春―其の二【蛙(かえる)】

蛙には「かえる」と「かわず」の二つの呼び方があって、「かえる」は日常語として、「かわず」は歌語として、言い分けられてきた。歌語があるくらいだから、もちろん歌にも古くから歌われてきたわけだが、そのほとんどは『古今集』仮名序に「花に啼く鶯、水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とあるように、その鳴き声が対象になってきた。その姿だけではおそらく歌語にはならなかったろう。『万葉集』には二十首ほどのかわずの歌が収録されており、それらは「河津、川津、川豆、河蝦」などと表記されていることからわかるように、その多くは「河鹿(かじか)」(カジカガエル)をさしている。河鹿は山の湖や清流に棲む、小さな痩せた蛙だが、外見に似ずヒョロヒョロヒヒヒヒという澄んだ美しい声で鳴く。山の鹿に対して、河の鹿と呼んだものである。

蛙は両生類の中で最も繁栄している種類で、南極、北極を省く全世界に約三千種も生息している。蛙が棲む場所は種類によってさまざまだが、水分を皮膚から摂取するので、一般に水分の多い湿った場所に好んで生息する。そのためもあり、水や雨との縁が深い動物である。特に水稲栽培を中心とする農耕民族であった日本人は格別の親しみを感じてきた。蛙を主人公にした伝承や昔話も多い。乾季を地中で過ごしたり、冬眠する種も多く、そのためにたとえばヒキガエルなどは上代においては、大地の主の神の使者と考えられていたようだ。またネイティブ・アメリカンやインドでは水や雨の神の使者とされ、雨乞いの儀式に用いられた。

蛙の鳴き声は雄のラブコールで、種の識別や雄であることを知らせるためのもので、最終的に繁殖のためのコロニーを形成するのが目的である。そこにおける交尾は群れ集まって行なわれ、戦っているようにも見えるところから、「蛙合戦」「蛙軍(かえるいくさ)」と呼ばれる。

蛙の俳句として芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を知らない人はいないだろうが、なぜこの句がこれほど有名になったかというと、はじめに述べたように、それまでの伝統的な美意識ではその鳴き声を対象にしていたのに、この句では水に飛びこむ音に着目したことが大きな理由である。「水音にほそみあることを見出して、蛙声を詠ずるの古轍を追はず。畢竟は暮春のあはれを感じ給ふ俳魂、一句の主となりて言外に溢る」(『芭蕉翁発句集蒙引』杜哉)。またこの句をつくったとき、まず芭蕉は「蛙飛びこむ水の音」を初めに得て、上五を付けあぐねていたが、其角は「山吹や」を提案した。蛙と山吹は伝統的な取り合わせなので、だれしも納得できる提案だった。しかし芭蕉はこれにのらず、ごく平凡で日常的な「古池や」に決定した。これによって蕉風確立の一句となるわけだから、池に飛びこんだ蛙の功績ははかりしれない。

一畦はしばし鳴きやむ蛙かな 向井去来
日は日暮れよ夜は夜明けよと啼く蛙 与謝蕪村
青蛙汝もペンキ塗たてか 芥川龍之介
蛙の目越えて漣又さゞなみ 川端茅舎
満天の星へかはづのこゑ畳む 長谷川素逝

2002-04-08 公開