うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第四回 にくきもの

2011.07.26

にくらしいもの――無神経な人、大きらい

 人並みはずれた鋭敏な神経と、繊細な感覚の持ち主の清女である。人よりも心の皮膚がうんとよわいので、小さなことでもすぐ傷つく。傷つけられるのがこわいので、他人を傷つけることがないように、こまかく神経を使って生きている。
 そんな彼女がにくらしいと思うのは、鈍感で無神経で想像力のない、ずうずうしい人種である。
 急いでいるときにやってきて、長話をする客のにくらしさ。気がおけない人なら、「(あと)で」と帰ってもらうこともできるが、相手が立派な人の場合、帰すわけにもいかず、長居しているその人がにくらしく思え、むしゃくしゃする。
 これは現代にもぴったりあてはまることではなかろうか。急用あるときの長居はもちろんだが、現代では、不意の、しかも長い電話もまた「にくきもの」である。
 時間がきまっていて、さあ、出かけようというとき、かかってくる電話、朝からその番組を楽しみにしていて、さあ、はじまる、と、テレビの前にすわったときの電話なども、この「急ぐ事ある折に来て」にあたるだろう。
 楽しみテレビの場合など、私は率直にそのことを告げる。相手が「じゃ、私も観るわ」などと言い、終わった直後、私からかける電話で、その番組評に花が咲くこともある。しかし、それも言いやすい人にかぎる。
 「(もの)(うらや)みし」からはじまる一文は、これこそ、いまも昔もけっして変わらぬ、おもに女たちの無神経な様子を活写している。
 ああ、あの人、羨ましいわ。いいご主人がいて、すてきな家に住んでそれにくらべて、私はこんなにふしあわせ、運のない女だわ。でもね、あの人だって、いいことずくめではないらしいわね。ご主人の会社、このごろうまくいってないらしい。ねえ、あなた知ってるでしょ、知ってること、教えてよ。私、口がかたいんだから。
 そして、相手がなにかを告げると、まるで自分自身が前から知ってるように、とうとうとしゃべりまくる。
 「語りしらぶる」というのは、さも得意そうに調子づいて話す様子である。清女自身、このにくらしい人の様子を、さもにくそうに「語りしらべて」いるところがおもしろい。
 「物羨みし、身の上嘆き、のところの反対の人になろうと思うことで、すてきな自分磨きができるということですよね。枕草子のここの部分を覚えているだけで、勉強したかいがあると思います」
 私の枕草子教室の元生徒のかたから、こんな言葉を聞いたことがある。
 清女は世間から大いに誤解されて、出しゃばりと思われているらしいが、彼女自身、大きらいなのは、「さし出で」(出しゃばり)の人だ。
 話をしているときに出しゃばって、話の先まわりをする人。現代だったら、ミステリー映画の犯人を明かしてしまう人なんか、ほんとうににくらしい。
 清女は、子供の出しゃばりも大きらい。「うつくしきもの」では、子供のかわいらしさを大写しにして見せた彼女だが、にくったらしいときの子供の描写は、まさに臨場感たっぷり。
 ちょっと遊びにきた子供に目をかけてかわいがり、おもちゃなんかやったら、それに慣れて、いつも来て、あがりこんで、大事な道具なんかをうち散らかしてしまうにくらしさ。
 別の段の「(ひと)()えするもの」(一四六段)というなかにも、たいへんな()()っ子が遊びにきて、やりたい放題に散らかしまくるありさまが、さもにくにくしげに書かれている。おまけに、その子の親が笑顔で「だーめ、こわさないでね」なんて、やさしい声で言うだけ。親が親なら、子も子。にくらしさを通り越して、清女の筆はせつなげにさえなる。「人映えするもの」とは、「人の前で調子にのるもの」という意味である。
 「にくきもの」の段は、そんな無神経人種の行状を、いきいきと具体的に、漫談のように話しつづけておもしろいが、例によって、ほかの物もさしはさまれて、話を平板さから救っている。
 不吉な声でさわぎたてる(からす)の群れ。声をそろえて(なが)()きする犬たち。着物の下ではねて、着物を持ち上げるようにする蚤。描写はきわめて感覚的だ。
 そして、男女の恋もまた、この段の中に色彩を添えている。
 ただいま交際中の男が、もと彼女のことを何かの折に思い出して、チョロッとほめたりすると、それが遠い昔のことであっても、許せない。まして、自分とつきあっているのに、現在進行中らしいほかの女のことを言ったりするのは、にくさのきわみ。なかには「あら、いいじゃない。それだけ彼がもてるということだもの」なんて、平気な女もいるでしょうけど、私はにくらしいだけよ。
 恋人どうしの間のにくさには、甘さもチラと裏打ちされている気配があるところが、おもしろい。

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