うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第七回 世の中に、なほいと心憂きものは

2011.09.13

人としての幸福は――愛と憎しみ

 『枕草子』の各段は、思いつくままに書かれているように一応見えるが、前段と微妙な連想の糸で(つな)がれたものも多い。清女は、その(ほそ)い連想の糸によって、ふわりと段から段へ移っていく。どう繋がっているのかと、クイズのように考えるのも、『枕草子』を読みすすむ(たの)しさの一つである。
 「この人生で、なんといってもやはり、非常に不愉快なことは、人に憎まれることだろう」と、この段は人間の愛情について書き出すが、じつはこの前に、すごい話が語られている。
 ある男がいまを時めく有力者の婿(むこ)になったが、たった一か月もろくに通ってこず、いつのまにかふっつりと絶えてしまった。その家では一家をあげて恨み嘆き、とりわけ娘の乳母なんかは、のろいのことばを吐き散らした。ところが、男は翌年の正月に蔵人(くろうど)抜擢(ばつてき)された。どうして、こんな男がこんな出世を、と人々は驚いた。
 その夏の法華(ほつけ)八講(はつこう)の集まりに、男も説教を聞きにやってきた。(あや)織の(はかま)に、黒の半臂(はんぴ) 袍 (うえのきぬ)下襲(したがさね)の間に着る短い衣)という、人目を集める華やかないでたち。しかも、男は、自分の捨てた女が乗っている牛車(ぎつしゃ)鴟尾(とみのお)(ながえ)の端が車の後ろの両端に突き出ているところ)に、半臂の(ひも)をひっかけそうなくらい、ま近に立っていながら、まるっきり知らん顔。車の中の女は、どんなに悲しい気持でいただろうと、人々は皆あわれに思った。
 前段のこの話は、「誰てふ物狂ひか」のことばに、せつない感じで繋がっていく。
 どこのだれが、人に愛されず、捨てられ、声もかけてもらえないくらい憎まれたいと思うか。人はみんな愛を願い、愛を()うている。車の中の女が味わった、人に憎まれるつらさは、だれにだってよくわかる。
 でも、どうしても、愛される人と愛されない人ができてくる。宮仕えの場所でも、親・きょうだいの間でも、愛の差別が出てくるのは、ほんとうにつらいことなのだ。
 このあたりの、清女の筆はしめりをおびて、ひとくだりごとにうなずきながら書いているようなところがあり、いい文章だなと読むたびに思う。
 高貴な方の御子は、申すまでもなく大事にされるだろうが、たとえ身分低い家の子でも、親がかわいがっている子は、周囲の目をひき、注意も集め、人々も、自然にいたわり大事にしたくなるものだ。
 かわいい、賢い、気立てがいい。そんな、なにか見どころのある子の場合、だからこそ、親はこの子をかわいがっているのだ、と、周囲もそう納得する。一方、なんの取り()もない子の場合は、またそれはそれで、こんな子もかわいいと思うらしいのは親だからこそ、と、しんみりした思いになる。
 清女は、「あはれ」というしみじみとした情感の中に悲しみのまじることばを、多くは使わないが、ここの「あはれなり」はじつに的確に使われていて、慈悲ということばも思い出され、読む私たちの身にも()む。
 その身に沁む思いのまま、清女はこの段を結ぶ。
 「親にも、君にも、すべてうち語らふ人にも」―親にも、ご主人にも、つき合うすべての人、誰にでも、愛されることはすばらしいことだわ、と。
 「世の中に、なほいと心憂きものは」にはじまったこの段は、愛の差別のさびしさから、どんな子でも愛する親の心のあわれに移り、愛される喜びで終わる。
 さて、「親にも、君にも」の「君」とは、もちろん、あのかた、中宮様であることは、読者の皆さんも、もうおわかりであろう。
 この結びを書くとき、清女は宮仕えして、まだ日も浅いころの思い出を胸にくり展げているのではなかろうか(九七段「御方々(かたがた)君達(きんだち)殿上人(う え びと)など、御前に」)。
 ある日、御前に人々がたくさん集まっているとき、清女が離れたところの柱に寄りかかっていると、なんと中宮様が結び文を投げてくださった。開けてみると、「愛してあげましょうか、どうしましょうか、人に一番愛されなくてはいや?」と書いてある。清女にはすぐにピンときた。彼女は中宮様の前で女房たちと話をしていて、「人に一番愛されないなら、いっそ憎まれたほうがまし。二番目、三番目なんて死んでもいや!」と言って笑われたことがあった。それを踏まえてのおことばである。お返事に、彼女はこう書いた。
 「九品蓮台(くほんれんだい)(あいだ)には下品(げぼん)といふとも」
 極楽浄土に往生することを、蓮の(うてな)に乗るという。その極楽には、上品(じようぼん)中品(ちゆうぼん) 、下品の三階級があり、それぞれが上生(じようしよう)、中生、下生と分かれて九階級となり、九品蓮台と呼ばれる。清女の返事は、極楽往生できるなら、最下位の下品でも十分です、という意味だが、宮様から愛していただけるなら、ビリでもうれしい、と機知にとむ裏の意味をこめたのである。
 宮様は微笑んでおっしゃった。
 「なんと弱気だこと。そなたの持論とちがうじゃないの。第一の人に一番に思われたい、と思いなさい」
 ご自分のことを、ユーモアにくるみながら、第一の人とおっしゃるおことばに、生まれながらに高貴な人の誇りとおおらかさを、清女は感じたであろう。そんな方に愛のことばをいただいたことに、陶酔に似た喜びを抱いたにちがいない。
 清女はこの段を、胸をはって晴れやかに結んでいる。

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