うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第十三回 (あかつき)に帰らむ人は(二)

2011.12.13

きぬぎぬの男二態――理想と現実(2)

 さて、一方のだめ男の場合。ひどくさっぱり、未練もなく起きて、夜具など広げ散らかし、指貫(さしぬき)(ひも)もゴソゴソガバガバと音を立てて結び、直衣(のうし)(うえのきぬ)狩衣(かりぎぬ)、何であれ、ゆうべ脱ぎ捨てて裏返しになった(そで)をまくり返して、腕を通し、帯を固く結び、さっとひざまずいて、烏帽子(えぼし)(ひも)元結(もとゆい)にきゅっと結びこみ、頭にかぶる音さえ立てて、さて、探し物をはじめるのだ。
 探し物とは、ゆうべ、枕もとに置いて寝たはずの、(おうぎ)やふところ紙。それが、いつのまにか、あちこちに散らばってしまっているのを探すのだが、暗いので見あたるはずもない。
 「どこだ、どこだ」
 と、そこいらじゅう、バタバタと手でたたきまわり、やっと見つけると、その扇をハタハタと使い、ふところ紙を懐中にしまい、
 「失礼する」
 と一言、これだけはまあ、あいさつして、さっさと帰っていくのである。
 そのせわしないこと、荒っぽいこと、風情のないこと。共寝の一夜はたちまち日常にひき戻され、夢のひとかけらだって、残りはしない。
 上等の男のほうは、かなりあこがれをまじえて、物語風に仕立てられた感じがある。
 だめ男のほうは、すこし戯画化されているところもあろうが、たいへんリアルに描かれている。清女は自分の実際の体験の中で、このタイプの男に触れたにちがいない。もしかしたら、このだめ男のモデルは、清女のもと夫、橘則光(たちばなののりみつ)あたりではなかろうか。
 上等男とだめ男を描写する筆は、彼らのそれぞれのキャラクターに合わせて、文章の調子をはっきり変えていることにも注目しよう。
 上等男のほうは、文章全体がスローテンポで、静かでなよやか、ふくらみがあり、余韻が残る。
 「指貫などもゐながら着もやらず……何わざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり」
 と、ぼかしたような書きかたも、くせものだ。
 手もたゆげに、動いているか動いていないかわからないほどのゆったりした動きのなかに、いつか身支度をすませていて、しかも、その間にも、愛のことばを相手の耳にささやくことに抜かりはない。恋の巧者の男を、なんとみごとに描写していることか。
 だめ男の様子は、上等男のスローテンポとは真反対に、おちつきのないせかせかテンポで、バシバシと描かれる。
 「きはやかに起き、広めき立ち……袖かいまくり……帯いとしたたかに結ひ果て、ついゐ……きと(こわ)げに結ひ入れ……」。
 て、て、て、と(たた)みかけていくところのおかしさ。男の動きは、まるでネジを巻かれた機械人形のようである。
 音や、その様子を具体的に表現する語が多いことも、目立つ特徴だ。
 「指貫の腰、ごそごそがばがばと結ひ」
 「扇ふたふたと使ひ」
 「いときはやかに起きて」
 「よろと差し入れ」
 「帯いとしたたかに結ひ果てて」
 「きと強げに結ひ入れて」
 「かい据うる音して」
 「叩きわたし」。
 だめ男の場面からは、いろいろな音が聞こえてくるし、動作もみんな強調されたオーバーな動作である。
 そんな音や動作がすべて、共寝のロマンを断ちきって、一挙に日常の世界に追いこむのである。
 しゃれた上等の男とだめ男。これは一見、二枚目と三枚目の描き分けのように思える。しかし、もうすこし深く考えれば、女にとってはとてもさびしいことだが、これは理想の男と現実の男との描き分けかもしれない。
 『和泉式部(いずみしきぶ)日記』の中に、ほれぼれするような恋の別れのシーンがある。
 晩秋のある日、帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王は、異例の昼間のおしのびで和泉式部を訪ねていらした。
 短い逢瀬(おうせ)の後、宮は帰ろうとなさる。
 前庭の透垣(すいがい)のもとに、(まゆみ)の葉が紅葉しかかっているのを手折り、簀子縁(すのこえん)欄干(らんかん)に寄りかかって、宮は和泉にこう()みかけられる。
  ことのは深くなりにけるかな
 この紅葉の葉のように、私たちの間の愛のことばの色も、ずいぶん深くなったね。
 和泉は答えた。
  白露(しらつゆ)のはかなく置くと見しほどに
 檀の葉に露がちょっと置いただけで、こんなに紅葉しましたのね。私たちも短い間にこんなにも深い仲になってしまって……。
 和泉は、別れの際の宮のご様子を、「あらまほしう見ゆ」といっている。これぞ理想像だということである。
 清女の描いた「きぬぎぬ」の男二態のうち、はじめの男は、このあらまほしき男である。そんな男は、この世にはいそうもない。